「爪やって」
「つめ?」
薄いカーテンの向こうで空が茜に色づいて、なんとなく気持ちも寂しくなってきた。気温が下がるのが原因か。しかし空調は完璧で一定の室温だけれど……なんてことを考えていた時に、ヘルタが急に言った。
はじめは何のことを言っているのか分からなくて聞き返したが、ヘルタは無言で手の甲をこちらに向ける。正確に言えば、爪を。
「ああ、爪」
一昨日くらい前から気になってはいたが、一部剥がれたり欠けたりしていて塗り直したいと思っていたのだ。
ヘルタはいつ頃からかネイルカラーをするようになっていた。初めてヘルタに頼まれたときにそれはもう必死に勉強して練習して、ヘルタが満足する出来栄えにはなった。それからヘルタの爪を塗り直すこと幾年か。ヘルタの美を引き立てるのに貢献できるまでには上達したつもりだ。
「じゃあ、ちょっと待ってね」
まだ本を読んだりするには十分に明るかったが、ネイルカラーをするならばと照明をつけた。
筆と、紫のカラーを用意する。
椅子を向かい合わせにしたときのヘルタは、なぜだか縮んで見えた。研究している時は太刀打ちできない巨人のように思えるのに。
机の上に積み上げられた分厚い本も、人類を悩ませ続けた難題の数々も、あるいは彼女を利用しようとする貪欲な盗人も。打ち崩し、暴き出し、跳ねのける。無敵の天才。
ヘルタを横から見ている時は常にそうだ。僕がデータを纏めている時やら、些細な計算の補助をしている時。ふと横を見たらヘルタは鉄のように静かで、凪いだ大洋みたいだった。僕とは違う次元に存在しているのだ。
すぐ横に大好きな人がいるのに、心が冷え切ったような感じがする。
ヘルタの好むアンティーク調の家具は木製で、木の温かみという言葉をそのたびに思い出す。机の表面は綺麗にコーティングされているから、代わりにコーヒーを淹れるという名目で、キャビネットの側面を触るのだ。ザラザラしていて、何か、かけがえのない物に触れられたと感じられた。
向かい合った時のヘルタは普通の女の子にしか見えない。
紫の花の髪飾りは昔からつけていて、お洒落に興味がないわけじゃない……どころか人並みに好きだ。ヘルタの数少ない、人並みな部分だ。
紫と言えば、ヘルタの瞳。別に宝石のように輝いているわけでもなく、何か特別な魔力を秘めているのでもない。それでも万人にとって特別なものだと思う。彼女と長時間見つめあうことなんて普通は出来ないからだ。
というか……
「……スマホとか、見ててもいいんだよ?」
「今はインプットの時間じゃないの。少し、考えているだけだよ」
ネイルカラーをしている間、何かしらの暇つぶしをするでもなくこちらをじっと見つめてくるものだから、なんだか変に緊張してきた。
ヘルタの細い指を左手に乗せ、まずはカラーを落とすところから。リムーバーを染み込ませたコットンで指先を包み、軽く擦って落とす。特有のにおいが鼻を突く。
爪の手入れをしてからいよいよ筆をとる。細筆で縁を取って、平筆でひと塗り。細筆でまた、細かい所にカラーを足す。
「じゃあ反対ね」
右手には塗り終えたので、次は左手、左手に塗り終えたらまた右手に戻り重ね塗り。その間ヘルタは、本人曰く考え事をしているらしくじっと僕の顔見つめていた。
最後にトップコートを塗っていると、ふとヘルタが口を開いた。
「ねぇ……一つ聞きたいことがあるのだけど」
「え? うん?」
「アネモス、あなた私のこと好きみたいだけど。どうして?」
ヘルタにしては珍しい質問――いや、らしく無い質問と言ってもいい。
「ヘルタを好きになるのなんて、当然のことじゃないの?」
そもそもヘルタは他人から好意を持たれるかどうかなんて気にしなさそうだし、好意を持たれた場合もそれを当然のものとして受け入れるだろう。
……いや、どうだろうか。以前、天才クラブ#83の聞こえの良し悪しがどうのと文句を言っていたこともあった。
長いことヘルタと一緒にいるけれど、まだ彼女のことを理解していない。僕程度に理解されるほど浅い人物ではないということもあるけれど、それ以上に、人間というのはどれだけ一緒にいても完全に理解し合えることは無いのだと思う。だから人は人に興味を持ち、興味は好意か嫌悪へ変わる。
「私のどこが好きなの?」
ちょうどトップコートを塗り終えた指。ヘルタの左手の薬指だ。
タイミングから何か特別な含みも感じるが、ヘルタに限ってそれはないか。
「優しい所かな」
「……」
ヘルタにしては珍しく少し呆けた顔をして、
「それ、本気で言ってるの?」
「え? うん。もちろん。僕はヘルタの優しい所が好きだよ。可愛い所とか、いろいろあるけれども一番はそこかな」
「……ふうん?」
努めて平静に語ったが、なんだか親に怒られたときのような緊張を感じていた。軽く指を撫でる。ヘルタの肌はなめらかで触り心地が良い。触れているだけで幸せな気持ちになった。
「じゃあ、これで完成かな。乾燥するまでは……念のため十五分くらいは気を付けてね」
そろそろ夕食の準備をしよう。ヘルタに断ってから部屋を出て、厨房へ向かう。
自動化した植物プラント、養殖水槽などが隣接して建設されていて、最近は買い物に行く事が減ってきた。肉は冷凍してあるし、保存がきく食品は備蓄が多い。
料理を作るのは自己満足だ。別に冷凍でもいい。体に悪い物が含まれる商品も中にはあるだろうが、ヘルタがその判断を間違えるとは思えないし。
ヘルタが僕の自己満足に付き合ってくれているのか、あるいは食事を必要に思ってくれているのかは分からないが、程よく僕を使ってくれるのは嬉しい。
なんでもできるヘルタが、我儘を言ってくれる。もちろん他の人間に対してもそういうところがあるのだけれど、僕の都合のいい解釈でなければ、更にずっと深く凭れてきてくれているように感じる。ヘルタの無茶ぶりに応じる度に、仮想の体温のようなものが感じられた。
僕とヘルタの関係が今後どうなるのかは分からないし、別にどうなりたいとも思わない。
たとえヘルタが僕に興味を持たなくなっても、それならそれでもいい気がした。側にいられたのならばそれで。