【私の思い出の番組】出演者編:黒柳徹子さん
テレビ出演歴60年!黒柳徹子さんがテレビ草創期の舞台裏を回想
テレビ放送がスタートした1953(昭和28)年にNHK放送劇団に入団。数々のラジオ、テレビの人気番組に出演し、第一線で活躍を続けてきた黒柳徹子さんに、テレビ草創期のエピソードや出演者としての思いを聞いた。
テレビの世界への第一歩はNHK放送劇団
テレビ放送開始に伴い、NHKは放送劇団の俳優を募集。黒柳さんは、その募集広告を目にしたことがきっかけでテレビの世界に足を踏み入れることになった。「音楽学校を卒業してオペラ歌手になれないことが分かったので、自分の子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになろうと思ったんです。そんなときNHK放送劇団の俳優募集が新聞に出ていて、素人でも1年間養成してくれると書いてありました。ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれないと応募したんです。一日だけの記事。これが運命の分かれ道でした」。
6次まであった審査を経て、約6000人の応募者の中から13人が劇団員として選ばれた。テレビ放送開始を翌月に控えた1953(昭和28)年1月、黒柳さんはNHK放送劇団の一員に。当初はラジオやテレビの通行人として出演し、テレビの現場を知っていったという。「最初は『東京ブギウギ』を歌う笠置シヅ子さんの後ろを通る娘の役でした。それすら下手で、何度も怒られて…。どうしても面白いから笠置さんのことを見ちゃうんですよね。そうすると『ジロジロ見ないでスッと歩いて』と指示される。頑張ってスッと歩いたら今度は『テレビの画面は小さいから、そんなに早く歩いたら写らないよ』って(笑)。そのとき笠置さんが『大変でんなぁ』と言ってくださったんです。その後もすいぶんかわいがっていただきましたね」。
1959年12月に放送されたラジオ番組「立体音楽堂 ステレオ・ミュージカル 星のメリークリスマス」の収録風景。左から中原美沙緒、フランキー堺、黒柳徹子 「NHKに出演していたからか、早くから全国に顔を知られるようになりました。「テレビに出る人間は有名人じゃなくて、有顔人だ」と三國一朗さんがおっしゃっていましたが、私も名前は分からなくても見たことがある人だったんでしょうね」と黒柳さん。写真は1968(昭和43)年に撮影されたもの。
テレビ女優第一号のはずがラジオで一躍有名に!?
テレビ女優の第一号としてNHK放送劇団に入団した黒柳さん。しかし、彼女の名前を一躍有名にしたのはラジオドラマ『ヤン坊トン坊ニン坊』だった。「それまで子どもの声は子どもが演じていました。でも、劇作家の飯沢匡先生が『大人でも子どもの声を出せるはずだ』とおっしゃって、NHK始まって以来のオーディションをすることに。それで私がトン坊役に決まったんです」。
その後もさまざまなキャラクターの声を演じていった。「いいお母さんになりたい」と思ってNHKに入ったので「ブーフーウー」や『チロリン村とくるみの木』に声の出演ができてうれしかったですね。声のほかにテレビの子ども番組では「魔法のじゅうたん」にも出演していました。当時、視聴率というのはなかったけれど、NHKの番組で3番目にいいって言われていたの。私が『アブラカダブラ~』って呪文を唱えると絨毯が大きく広がって、そこに子どもたちと一緒に乗るんですよ。空を飛ぶの。実は、絨毯は揺らして、バックには風を吹かせた映像。それをヘリコプターで空撮した学校の映像と組み合わせていました。だけど、東京オリンピックにヘリコプターが必要になったので、番組は大人気でしたが3年で終わってしまったんです」。
生放送はハプニングの連続!
子ども番組以外でも、ドラマ『若い季節』やバラエティ『夢で会いましょう』などの人気番組に出演。週に6、7本のレギュラー番組を抱え、寝る間もないほど多忙を極めた。
そんな彼女の原点となっているのが、テレビ放送開始にあたってNHKが招いたアメリカのNBCテレビのプロデューサー、テッド・アグレッティーの言葉だった。「テッドさんは『テレビには世の中を変える力がある。世の中が良くなるか、悪くなるかはテレビにかかっている』とおっしゃったんです。この言葉を聞いて、私は『世の中が悪くなるようなテレビには出ない。子どもに見せても安心な番組に出よう』と決めました」。
現在、『徹子の部屋』などの長寿番組にレギュラー出演する一方、舞台女優としても精力的に活動。連続テレビ小説『おひさま』では40年ぶりに女優としてテレビ出演し、話題となった。「『徹子の部屋』が始まったころ、酔っ払った芸者さんをテレビで演じて、番組スタッフから『本当に飲んでいるんでしょう』って言われたことがあるの。お酒はお水でやるんですからね。否定したけれど、その時『上手に演じるとそう思われるんだな』と気づいたんです。側にいる人がそう感じるくらいだから、テレビを見ている人もきっと思い違いをするだろう。例えば私が悪女を演じて、その後『徹子の部屋』でどなたかのお話を聞いたとしたら、『本当は悪い人なのに…』と思われてしまうかもしれない。ですから、舞台では役を演じますが、テレビには自分自身だけで出演しようと決めたんです。はっきりと使い分けた方がいいと思って」。
テレビ草創期から第一線で活躍を続けてきた黒柳さん。テレビ人として貫いてきたポリシーが変わらぬ活躍を支えている。
黒柳徹子さんが語る草創期の舞台裏
台本到着から生放送本番まで数時間!?
テレビ草創期はすべての番組が生放送。銀座の化粧品会社を舞台にした連続ドラマ『若い季節』は日曜の午後8時スタートにもかかわらず、だんだんと台本が届くのがなんと当日の午後1時でした。今のように便利なコピー機はないでしょう。びしょびしょに濡れたお酢の匂いのする5センチの厚さの紫色のコピー用紙をもらって、それで覚えていたんですよ。そんなスケジュールでも出演者みんなでご飯を食べに行ったりしましたから、若かったんですね。
リンゴを求めて…
『夢であいましょう』のなかで、アダムとイブの話を放送したときでした。私がイブに扮したのですが、本番直前になってなぜかリンゴがなくなっていたんです。誰かが食べちゃったんでしょうね。今のようにコンビニもありませんから、スタッフさんたちがリンゴを探して夜の新橋(当時NHKは内幸町にあったため)を走り回って…(笑)。本番で私が手を出したところにポン!とリンゴが届いたので、事なきを得ました。
犯人、山田になりました!
人気ドラマ『事件記者』で、「犯人が分かりました」というセリフからスタートする回があったんです。次のセリフは「犯人は鈴木です」だったとするでしょう。でも、誰かが本番で間違えて別の名字、例えば山田と言ってしまったんです。そうなったら、最後まで山田で通すしかないですよね。途中で誰かが「鈴木」って言ってしまうかもしれない。結局、オンエアが終わるまで「犯人、山田になりました」、「犯人、山田になりました」と次々に役者さんたちが言って、ドラマのなかで伝言ゲームみたいになったことがありました。
電信柱にセリフ
生放送のドラマだと、最初から最後までセリフを覚えていなくてはならないでしょう。ですから、ドラマなんかだとたいてい男の人は新聞を持って登場していました。そこにセリフが書いてあるんですね。あるいは、電柱の自分の位置から見える場所にセリフを書いた紙を貼っておいたり。でも、あるとき本番前にその電柱をスタッフさんが回してしまったことがあって…。刑事物だったんですが、本番が始まると刑事役の人たちが電柱の周りをグルグルグルグル……。セリフを探すところからドラマが始まるということがありました(笑)。
最終手段は「終」のフリップ
生放送の時代は、スタジオの至る所に「終」と書いたフリップが落ちていました。何かと言うと、にっちもさっちもいかなくなったときにカメラの前に出しちゃうの。当時、プロデューサーはいなかったのだけれど、出演者はディレクターにも相談せずに「終」のフリップを出してましたよ。だって、無理なときは無理なんですもの。私もずいぶん出しました(笑)。でも、当時はまだ全国にテレビが866台しかありませんでしたから、1台を5人で見ても視聴者の数は5000人に届かないような時代。ですから、苦情は来なかったみたいね。
手錠の鍵が紛失!
これは生放送の刑事ドラマであった本当の話。冒頭で刑事が犯人を捕まえて手錠をはめたんですが、その後、刑事は家に帰り、犯人は留置場に入るという段になって、手錠の鍵がどうしても見つからない!結局、犯人は四つん這いになって刑事の自宅に着いていき、お膳の下に隠れたの(笑)。子役さんはびっくりしているし、刑事役の人も左手が犯人とつながっているから、右手しか使えなくてご飯がうまく食べられない。その後、犯人が留置場で眠れぬ夜を過ごすという場面は、なぜか刑事さんが隣に寝ている。本当に生放送は何が起こるか分かりませんね(笑)。挙句、10分しないうちに「終」でした。
時代劇に現代人
これも私が出演していた時代劇の話です。殿様みたいな人が主人公で大きなお仏壇に毎朝手を合わせるのですが、ある日、戸を開くと「ご本尊がない!!」ということになり、探し出すというドラマのはずでした。ところが本番で仏壇の扉を開けると「ご本尊がある!」。どうやら今で言うADの人がリハーサルの最後に安置したのを、片付けるのを忘れてしまったんですね。その頃、NHKではスタッフを見分けやすいように赤いジャンパーと野球帽のようなものをかぶっていたのですが、悪いと思ったのか、そんな格好をしたADさんの1人が、突然、時代劇の画面に現れ、むんずと仏像を持って逃げたんです(笑)。見ている方もわけが分からないですよね。結局、お話をうまく作り直せず、途中で「終」のフリップが出ました。
遺体が消えた!!
森繁久弥さんが刑事役をやっていらしたドラマでのこと。お葬式のシーンで、左卜全さんが棺に横になっていらっしゃいました。森繁さんはその遺体を見ながら、お芝居をするんですね。なのに、左さんは何を思ったのか、自分の出番は終わったと思って化粧室へ行っちゃったんです。森繁さんが振り返ると棺は空になっていて「あっ!」となった。しかも、カメラが棺を写してしまったから、森繁さんがどんなに上手にアドリブをおっしゃってもごまかしきれなくて(笑)。皆が左さんを探しているうちにドラマが終わってしまいました。
狐のお面
両親が初めてテレビに映った私を見たのは、昭和29年。NHKの向かいの喫茶店でした。テレビがまだ家庭に普及していない時代で、その喫茶店にはウェイトレス募集のそばに「テレビあります」という張り紙がしてあったんですよ。その日、一緒にご飯を食べることになっていたので、両親は喫茶店で待っていてくれました。
私が司会の仕事を終えて合流すると、母が「なんで狐のお面かぶってたの?」と聞くんです。そんなものかぶっていなかったのですが、当時のテレビは走査線がはっきりと見え、白と黒のコントラストも強かったので、吊り目で、口は横に広がり、鼻は前にとんがって見え、まるで狐のお面をかぶっているようだったんですね。(笑)。
てんやわんやの紅白歌合戦
紅白歌合戦の司会をしたのは全部で5回。最初は1958(昭和33)年の第9回でした。当時、私は20代で最年少の司会者だったんですよ。その年だけが会場が新宿コマ劇場で、すごく大変でした。ステージが半円状になっていて、司会の私と高橋圭三さんは両端に分かれて立っていたので、お互いの声が全く聞こえなくて…。しかも、当時はまだ歌手の方たちが紅白歌合戦よりも年末年始のショーを優先されている時代でしたから、ほかの劇場とかけもち。本番が始まっても歌手のみなさんが集まらない。誰かが到着する度に「女来ました!」、「男来ました!」とスタッフの声が聞こえて、来た人からステージに上がってもらう状態。古くからの歌手の方が大勢いらっしゃって、ステージに上がってらした方のお名前が分からない!!ということもありました。あの紅白は本当に大変でしたね。でも紅組勝ちました。
カラーテレビのモデルに
昭和30年ごろ、NHKの技術研究所でカラー放送の研究が始まりました。研究のためのモデルに行くことになり、当時カラー映画が日本にも来てましたので、「あんな風かな」と期待していたんです。ところが行ってみると、顔の半分を紫、もう半分を白に塗られて、じ~っとカメラの前にいるだけ。メイクさんに「私、ピンクがいいんですけど」と言ってみたのですが、「今日は紫の日ですから!」といわれて。要するに人の肌に紫を塗ったらどんな風に写るかという実験だったんですね。きれいなものを思い描きながら、夢と希望を抱いて行ったのに、紫のシマウマみたい…とガッカリでした(笑)。
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