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Z世代が嘘の青春を追い求める理由

1.はじめに


 Z世代。およそ1997年から2012年頃に生まれた人々。デジタルネイティブとして、物心ついた頃にはインターネットがあった世代。
 かく言う筆者もZ世代である。小山氏の記事の知人とは筆者である。せっかく面白い話題なので、ひとつ乗っかりたい、という下心から本稿を書いている。当事者であり、かつ、それなりの造詣がある筆者であれば、楽しいアンサーを書けるのではないか? という自負がある。

2.〈過去〉であって過去ではない

 我々Z世代は(あるいは我々Z世代に限らず、現代人は)なぜか〈過去〉を熱狂的に求めている。昭和レトロ、平成ノスタルジー、リメイク、リビルド、リバイバル、真夜中のドア、るーみっくわーるど、アナログホラー、洒落怖、インターネット老人会、枚挙にいとまがない。
 言うまでもなく、リバイバルブームそれ自体は別に珍しい現象ではない。懐メロ特集がひっきりなしに取り沙汰されるのは何十年も前からの伝統である。しかし、あえて言いきりたい。Z世代以下のノスタルジーとそれ以上の世代のノスタルジーは本質的に異なる、と。Z世代のノスタルジーとは「ノスタルジーへのノスタルジー」であり、懐かしむこと自体を懐かしんでいる。「確かに有ったが失われた過去を想い起こして懐かしんでいる」のではなく、「有りもしない〈過去〉を想起するフリをして妄想している」のだ。

 わかりやすい例を出そう。
 フィルムエストTVというYouTubeチャンネルがある。 

 名前の通り、フィルムカメラ風のエフェクトを施した映像を作り、あたかも過去に実在したかのように見せるコメディアングループである。雰囲気がわかりやすいのはたった15秒のこの動画。

https://youtu.be/ut1KPDn_pis

 個人的なオススメはエモーショナルなこの動画。

 もう一つだけ好例をあげておこう。別のチャンネルだが。

 タイトルからわかる通り、上の動画は「AIが作詞作曲した80年代風ポップス」である。

 おわかりいただけただろうか。
 要は、「作られた〈過去〉をニセモノと知りながら愛好し消費している」ということだ。筆者が考えるに、この点がZ世代と上の世代の根本的な差異だ。「有ったはずのものを取り戻したがっている」のではなく、「有るはずのものを求めている」のでもない。「有りもしないものが有ったはずだと思い込んでいるフリをしている」のだ。

 最後の「フリをしている」というのが最も大事なところで、最も難しいところだ。二つに分けて説明しようと思う。第一に抽象的で哲学的・精神分析学的な説明。第二に卑近で比較的わかりやすい大雑把な説明。

 哲学なんざキョーミねーよ、という方は4.まで読み飛ばしてほしい。

3.抽象的で哲学的・精神分析学的な説明

 Z世代のノスタルジーが「有りもしない〈過去〉を想起するフリをして妄想している」──この不思議な現象を、哲学的に解き明かしてみよう。参考にすべきは、スラヴォイ・ジジェクの名著『イデオロギーの崇高な対象』(1989年)。ジジェクは、精神分析の大家ジャック・ラカンのアイデアを借りて、現代人が抱く幻想の仕組みを、ヘーゲルの弁証法で分析している。こういうと難しそうだが、本質的なテーゼはシンプルだ。

 私たちはなぜ「ないもの」を追いかけてしまうのか?

 この問いの答えは「Z世代が有りもしない〈過去〉を想起するフリをして妄想している理由」と同じはずだ。

3.1.ラカンの「欠如」って何?

 まずはラカンの精神分析から行こう。
 人間は、赤ちゃんの頃に「想像界」から抜け出す。想像界は、子宮の中のような、自分と主観世界が一つになった完璧な箱庭だ。しかし、生まれ落ちればそこから堕ちる。堕ちた先は言語や社会規範の世界、「象徴界」だ。一度出てしまったからには、子宮に戻ることはできない。生まれ落ちたが最後、母親との一体化は失われ、主観世界は不完全なものに成り下がる。これは「去勢」と呼ばれ、主体は絶対的な欠如を抱えることとなる。だから人は何かを欲しがる。欲しがるのは持っていないからだ。乳房が恋しくて飽きもせず甘いものを舐め回してみたり、母親からの無償の愛の代替物が欲しくて恋人を求めたり、色々とある。欠如とは欲望の換言だ。欠けているから欲しがれる。欲望は永遠に続き、人生を駆動し続ける。人が恋に落ちるのは、「自分に足りないもの」を相手に見出すからだ。言うまでもなく、それは幻想である。結ばれたとて完全に満たされることはない。小さな不満があるし、今まで気付かなかった一面に出会うこともあるだろう。欠如は絶対に埋まらない。欲望は絶対に満たされない。人の心を器に例えるなら、欲望(=欠如)は穴だ。器に入れたものは全て穴からこぼれ落ちるのに、人はせっせと器を満たそうとし続ける。人生とはそういうものだ、というふうにラカンは捉えた。

3.2.ラカンの欠如を社会に当てはめてみよう

 ジジェクは、この欠如は社会について当てはめた。
 「人と心」の関係性を「社会とイデオロギー」に置き換えた。イデオロギーの穴は、崇高な対象で塞がれる。崇高な対象とは、空っぽのファンタジーである。見た目だけ綺麗なハリボテである。
 たとえば、共産主義・社会主義における平等がそうだ。平等とはなにか? 誰も分からない。誰も定義できない。しかし、不平等はわかる。不平等からの脱出はイメージできる。それを目標に動き続けることもできる。資本主義における自由もそうだ。自由とはなにか? 誰も分からない。誰も定義できない。しかし、不自由はわかる。不自由からの脱出はイメージできる。それを目標に動き続けることもできる。
 だから、崇高な対象は空っぽである必要がある。わからない、定義できない、埋められない穴。だからこそ、際限なく追い求め、注ぎ込み続けられる。理論上は永遠に追いかけることができる。心という器に空いた穴のおかげで人は生き続けられるように、イデオロギーの核心が欠如であるからこそ社会は存続しうる。

3.3.欠如の欠如

 ここからが核心で、最も厄介な部分だ。
 ジジェクはさらに考えた。欠如それ自体の欠如があるのではないか? 「欠如の欠如」の発明だ。欠如が「ないこと」そのものであるのに対し、欠如の欠如は「その『ないこと』を直視せずに幻想でごまかす」メカニズムである。主体は自分の不完全さを認めたくないので、空っぽの「崇高な対象」を持ち出して穴を塞ぐ。そして、主体はそれを自覚している。それが空っぽでハリボテでファンタジーで穴に過ぎないと理解している。それでも、その穴が埋まっていると信じるフリをする。と同時に、その穴を知っているフリをする。これが欠如の欠如という、人類が産み出した最高のトリックだ。ラカンの欠如が「埋まらない穴」であるのに対し、欠如の欠如は「その穴をなきものとして扱う」と同時に「その穴があることを認める」という、一種の二重思考である。極めて巧妙な幻想の操作だ。知らんぷりと知ったかぶりを同時にやっていて、知っているのか知らないのか本人にも他人にもわからないのだ。

 余談だが、いわゆる冷笑が版図を広げ続け、批判意見をも呑み込んで無闇に膨張するカラクリも「欠如の欠如」にある。本気でやっているのか、悪ふざけでやっているのか、自分でもわからないし傍から見てもわからない。だから冷笑への批判は冷笑の冷笑として一緒くたに冷笑されるし、批判している本人も「まあこれも冷笑ですね」と諦めてしまったりする。誰が見張りを見張るのか? の回答は、皆が見張りになった、そして誰もいなくなった、だ。

3.4.彼らはそれを知っている。それでも彼らはそれをやっている。

 ここで、みんな大好きカール・マルクスを引用しよう。『資本論』で、マルクスは資本主義における搾取構造を分析し、「彼らはそれを知らない。しかし、彼らはそれをやっている」(They do not know it, but they are doing it)と表現した。労働者は搾取の仕組みを知らず、無意識的に商品へ金を出すことで資本主義に加担している。
 ジジェクはこの考えを現代的にアップデート。現代(ポストモダン)では、冷笑主義が蔓延している。資本主義が良くないことも、かと言ってマルクシズムが実現しえないことも、リベラリズムの不自由さも知っている。わかっている。が、やめられない。やり続けるしかないし、知らんぷりと知ったかぶりをし続ける。ジジェクはその現状について、先のマルクスの表現を文字ってこう述べている。「彼らはそれを知っている。それでも、彼らはそれをやっている」(They know it, but they are still doing it)。
 
Z世代のノスタルジーは、これの完璧な例の一つだ。彼らは「この過去はニセモノで初めから存在しない」と知っている。フィルムエストTVの動画が昔風に撮影された現代の映像だと知っている80年代風のシティポップが作詞作曲がAI生成だと知っている。それでも、知らんぷりをする。再生ボタンを押して懐古の念に浸り、コメント欄で動画や楽曲にまつわる架空の思い出を書き込む。

 それは「欠如の欠如」による弁証法的な心の働きによるものだ。

 3ステップで解説しよう。

➀欠如:実在しない理想の〈過去〉(本物の過去がない)。
②否定:幻想の人工的構築(AIやエフェクトでニセモノを作る)。
③欠如の欠如:それを本物のノスタルジーとして「懐かしむフリ」をする(信じているフリ/わかっているフリ)。

 この「フリ」は、享楽を与え、現代のイデオロギーを否定しつつ維持する。何もかも商品やバズ要素として消費される現代性から束の間でもいいから逃れたい、と思ってリバイバルのニセモノを消費する。ニセモノであることは知っている。リバイバルそれ自体が商品であり、バズ要素でもあることも知っている。しかし知らんぷりをする。あるいは、自分の内心のねじれを実感できていない。自己矛盾に気付いていない。それにもかかわらず自己反省のパフォーマンスをしてみせる。

 この「フリ」がZ世代を支えている。

4.卑近で比較的わかりやすい大雑把な説明

 すぐラカンとかポストモダンとか煙に巻きやがってうぜーんだよ、と思った読者も少なくないだろう。読み返している筆者すらそう思っている。

 もっとわかりやすい具体例を挙げよう。

 一般男性を“推し”ている女とか、ちんこ付きのジャニタレぬいぐるみ買ってる女オタクとか、ハードコア性描写にまみれた不健全図書を愛好する腐女子とか、ブルアカやらアイマスやらで爆乳少女の水着絵をシコシコ集めてる男オタクとか、シスターフッドがどうたら言いながら少女同士のプラトニックラブとやらを愛好している百合厨とか、色々な人々が「自分のこれは性欲じゃないんだ」という支離滅裂な嘘をつくでしょう。

 なぜこんな見え透いた嘘をついてしまうのか?

 答えは簡単だ。嘘だと思っていないから。それだけのことだ。

 無意識が意識を守るためについた嘘なので、意識はそれに気付けないのだ。だから、筆者や小山氏がやるように「嘘をついている」という指摘は本質的に意味がない。彼ら彼女らには嘘をついているつもりなど微塵もないのだ。ここは非常に難しい。無意識は気付いていて、意識を守るために嘘をつく。意識はそのことに全く気付いていない。だから彼ら彼女らは「自分たちの想いが性欲とは異なり、いかに高尚で尊いのか」をダラダラと述べた次の瞬間に、濃厚なポルノをRTして「エロスギィ!」とヨダレを垂らしたりできる。彼ら彼女らは決して狂人ではないし、意識的に嘘をついているわけでもない。ただ単に、気付けていないだけなのだ。現行犯で咎められたのに「やってない」と言い張る子どものようなものだ。人の脳は元来そういうもので、それが色濃く出てしまうこともある。

5.当事者であることから逃れつつ当事者としての享楽を貪る


 無意識は気付いているが、意識は気付いていない。この知らんぷりとは別に、知ったかぶりのパターンもある。宇野常寛が「安全に痛い自己反省パフォーマンス」と呼んだ構造がそれだ。

 たとえばソシャゲにおいて、「成人男性である主人公が美少女たちを取りまとめる立場であり、美少女たちのケアを通して彼女らから惚れ込まれる」という構造はよく見られる。言うまでもなく、この構造はハーレム願望と独占欲に忠実なつくりだ。しかしながら、シナリオはこのつくりを巧妙に隠蔽してみせる。ちょうどプレイヤーアバターに「自分は大人だから君たちを守る!」「いつか良い人が見つかるといいな!」みたいな白々しいセリフを言わせてみたり、あからさまに示された恋心に鈍感になってみせたり、ささやかな愛の告白を花火やら波音やらでわざとらしく聞き逃してみせたり。

 それらを見てプレイヤーは安心し、支離滅裂な嘘を繰り返す。「このゲームは大人が子どもの失敗の責任を負うということを〜」とか、「恋心ではなくビジネス上のバディのパートナーシップとしての〜」とか。で、「確かに美少女たちを救おうとするのはエゴかもしれない。それでもエゴでしか救えない苦悩がある!」などとヒロイックにまとめてみせる。

 まさしく安全に痛い自己反省パフォーマンスである。本当に痛いところには触れず、ちょっとした痛みで悔い改めたような雰囲気を演出する。

 一番の痛みは、つまり一番卑しいところは、「結局のところ美少女たちはプレイヤー(アバター)に依存している」ということだ。なんだかんだ言って彼女たちはプレイヤー(アバター)を絶対的に必要とし、他の人に目移りしたりはしない。間男が出てきて大活躍したりはしない。プレイヤーはそれに安心しきり、「あっちから求めているんだ」という建前のもと、心ゆくまでオモチャ扱いできる。この構造のおかげで普通に卑しい普通の性欲であることから目を逸らしつつ、「自分たちの卑しさは理解している」というフリができるのだ。

 もちろんキャラクターをオモチャ扱いすることは何も悪くない。元々オモチャとして設計されてるものだし。強いて言うなら「オモチャ扱いしてないフリをするのはやめてね」「フリを指摘されたら怒るのもやめてね」という筆者のささやかなお願いがあるのみだ。意味のないお願いだけど。

6.我々は知っている、それでも我々はやっている。

すったもんだあった挙句に付き合って、夏は浴衣着て縁日行って花火を見たり、冬は初詣に行っておみくじ引いて一喜一憂したりする。そういうありふれているけどかけがえのない瞬間をひとつひとつ積み重ねていって、単行本7巻くらいのタイミングで幸せなキスをして(中略)こういうラブコメ漫画やブルーアーカイブに出てくるような青春ってもう存在しないんですよ。

「理想の青春は存在しない」「美化された過去は存在しない」「もうそんなものは時代劇だ」──

 そんなことはわかってる!!!

 我々は絶叫で返すほかない。我々だってそんなことはわかっている。わかっているのだ。追い求めている青春はフィクションだ。ヒロインはいない。スパダリはいない。深窓の令嬢はいない。白馬の王子様はいない。語尾が「〜なのだけれど」の黒髪ロング美少女もいない。前の席に涼宮ハルヒはいないし、委員長は羽川翼ではないし、担任の先生は平塚静ではないし、一軍女子は喜多川海夢ではないし、オタク女子だって三峰結華ではない。幼馴染の女の子はいない。一つ屋根の下で暮らすことになった義理の兄弟姉妹だっていない。いいなずけだって勿論いない。活動実態不明の妙ちきりんな部活はないし、異常な権力を持った生徒会もない。

 そんなことはわかってる!!!

 
アイドルがファンと付き合うことはない。女性声優の弟は彼氏かセフレの隠語だ。Vtuberへ送ったスパチャはコンドームの代金として費やされる。俳優の楽しげなインスタ投稿は商売女との匂わせ。ホストもキャバ嬢も金と立場のために嘘を言っている。

 そんなことはわかってる!!!

 80年代はいいことばかりではなかった。90年代なんて悪いことばかりだ。美化された過去、捏造された思い出、ノスタルジーへのノスタルジー。レトロな匂いがムンムンするったって、そもそもオマエら生まれてねーだろ。

 そんなことはわかってる!!!

 わかっていてもやるのだ。我々はそれを知っている、それでも我々はそれをやっている。この道しかない(There is no alternative)。後期資本主義が正しくないことは知っている。自分を含む大勢の心身をむしばんでいることも知っている。だからって今さら共産主義になんてハマれないことも知っている。わざわざ外へ出て、思ってもいない革命思想とやらを叫べる──その一連に茶番臭さを感じずにいられる──Z世代は少ない。
 政治も思想も嘘っぽい以上、恋愛という名の絶対的二者関係の尊さを信仰するほかないのだ。何もオタクに限った話ではない。小山氏も指摘している通り、性愛に“妙な”期待を抱く傾向は広く見られる。

 生活は良くならない。社会は良くならない。信じられるものはない。それでも何かを信じなくてはならない。が、自分だけを信じ続けるのは辛い。だから信じられるものを探す。ある人にとってそれはまだ見ぬ恋人であり、またある人にとってそれは過激思想である。理想の社会を実現しようと戦う過激思想ではなく、現状の社会を否定するための過激思想だ。

 だからこそ、過激思想にハマった彼ら彼女らは、恋人を見つけてあっさり抜けていったりする。要は絶対的に信じられる対象が欲しいのだ。それは思想よりも肉体を伴った人間であるほうがいいらしい。不思議はない。

 嘘なのはわかっている。いつか裏切られるかもしれないという可能性についても理解している。それでもやるしかない。信仰が無ければ人は生きていけないのだから。

おわりに

 最後に、筆者が感銘を受けた表現を一つ挙げておきたい。それは、「真実のお嫁さん」というものだ。ごく一部の界隈で使われている(使われていた)ローカルなネットスラングである。

 およそこれほど的確な表現もない。知り合ったそのときから何よりも本物であると直感できる、運命の女性。目が合ったときから生涯を共にするのだと確信できる人。それが真実のお嫁さんだ。

 「真実の」というのが憎いところだ。わざわざそう名付けるのは、その疑わしさの裏返しだ。誰もそんな真実があるとは思っていない。妄想のウソっぱちだということは嫌と言うほど理解している。

 それでも信じなくてはならない。あるいは信じているフリをしなくてはならない。さらに言えば信じているフリをしていることを忘れてしまわなくてはならない。そうすれば虚無感が少しはマシになる。

 以上が、「Z世代が嘘の青春を追い求める理由」である。


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コメント

7
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岡安モフモフのプロフィールへのリンク
岡安モフモフ

名文、名批評だと思います。思想的バックグラウンドや考え方のスタンス、バランス感覚が自分にかなり近かったこともあり、非常に納得感がありました。 自分は15年ほど前に当時の「萌え」についての論考をして「萌えとは常に2度目の恋である」と書いたことがあります。 でも、Z世代の多くの若者にとっては、1度目の体験の記憶が欠如した上での2度目(しかも、自分を含めた当事者はそれが初回だと思い込んでいる)が当たり前なんですよね。 失敗経験を積む機会を生まれた時から奪われて来た世代は、物語の中ですら失敗体験をしたくない。ましてや、現実をや。でも、そのひたすらな甘さにいつまでも浸っていられるのは特異な才能です。多くの人は、スイーツ・バイキングのようにそこから退場してしまう。そして辛さ苦さすら曖昧な現実の味気なさに辟易し、また新たなスイーツ・バイキングに通い始める。そのギャップゆえに、脳内物質が分泌されていることにも気づかずに。 現実にも、スイーツ・バイキングにも、大きな物語がない。それは予め失われている。そんな時代を生きているんじゃないかと思います。 コメント欄に乱文乱筆失礼いたしました。

1
javeです。 いいね
ワカメマラソン仮面のプロフィールへのリンク

5.当事者であることから逃れつつ当事者としての享楽を貪る 僕はこれがかなり本質だと思った。淫夢厨でありながら、8月10日にはしゃぐ奴らを馬鹿にする、みたいな。ちょっと違うか。

2
javeです。 いいね
大問題のプロフィールへのリンク
大問題

はじめまして。世代観やオタク・サブカル概観についての説得的な内容、興味深く拝読させていただきました。 一方で、精神分析に関する議論については自分の理解との齟齬を感じため、こちらで考えを整理してみました。よろしければご一読ください。完全に失当であった場合、単純に不愉快であった場合などはいつでも取り下げますので、ご遠慮なく。 https://note.com/1246891012/n/nd1c546be68c8

1
javeです。 いいね
照喜名 是空のプロフィールへのリンク
照喜名 是空

「頼るもの、すがるもの無く生きていけるほど、人は強くない」とか「みんな何かに酔っぱらっていなきゃやってられなかったんだな…」とか「人は誰でも幸せ探す旅人のようなもの」みたいな話ですかね…? まあ…その通りですわ…信じられるものがなにもなくても、いつかどこかに希望があると探し続けるしかない…そんなものないと解っていて自分をだましながら…

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javeです。 いいね
Z世代が嘘の青春を追い求める理由|javeです。
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