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『スーパーアドベンチャーゲームがよくわかる本』 vol.9
(田林洋一)
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FT新聞の読者のあなた、こんにちは、田林洋一です。
全13回を予定しております東京創元社から出版されたゲームブックの解説「SAGBがよくわかる本」、9回目の記事をお届けいたします。今回は超上級者向けのシリーズ「ユニコーン・ゲームブック」を主に扱います。
本連載は「名作」と呼ばれるものを最初に集中的に扱っている関係上、連載の後半になるに従って厳しい批評が多くなりますこと、ご寛恕ください。作品そのものを全否定する意図は全くないことをご理解いただければと思います。「私はそうは思わない」という感想がございましたら、ぜひともお寄せいただければ嬉しく思います。
毎回の私事ではありますが、アマゾンにてファンタジー小説『セイバーズ・クロニクル』とそのスピンオフのゲームブック『クレージュ・サーガ』を上梓しておりますので、そちらもご覧いただければ嬉しく思います。なお、『クレージュ・サーガ』はこの記事の連載開始後に品切れになりました。ご購入くださった方には、この場を借りてお礼申し上げます。
『セイバーズ・クロニクル』https://x.gd/ScbC7
『クレージュ・サーガ』https://x.gd/qfsa0
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9.超上級者の冒険とマッピングの極致 -ユニコーン・ゲームブック
主な言及作品:『魔王の地下要塞』(1987)『ファイアーロードの砦』(1987)
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これまでの回で述べたゲーム性とストーリー性の相克に反旗を翻し、ゲームブックにはゲーム性ありきとの信念で作成されたと思われるゲームブックが、ポール・ヴァーノンによる「ユニコーン・ゲームブック」の第一巻『魔王の地下要塞』と第二巻『ファイアーロードの砦』である(第一巻と第二巻は物語的には一応繋がっているが、ほとんど独立している)。本シリーズは(スティーブ・ジャクソンの『魔術師タンタロンの12の難題』ほどではないにせよ)ストーリーや物語以上にきめ細かい探索と自由な行動や戦闘を楽しむことを目的に執筆されたように感じられる。
『魔王の地下要塞』では、誘拐されたエスガロン伯爵令嬢アロウェン姫を七日以内に救出することを使命とする。そして『ファイアーロードの砦』では、隊商から略奪を働く魔法使いファイアーロードを倒すことが目的となるが、このシリーズの売りは、その自由度とマッピングの方法にある。
まず一番の肝になっているマッピングだが、『魔王の地下要塞』も『ファイアーロードの砦』も、海外産のゲームブックには珍しく双方向移動になっている。それは各巻につきパラグラフ五〇〇、計一〇〇〇の全てに行き渡っていて、ルール説明の冒頭ではわざわざ「何度でも同じ場所を訪れることができる」「途中で死んでしまったら、それまでに描いたマップを破棄してよい。このゲームブックでは、ゴールに達するのに様々な道があるので、前回の足跡を辿る必要はない」とまで記載されている。
本シリーズで前面に押し出されたマッピングの必要性は、パラグラフの記載に特に顕著に表れている。いくつかのパラグラフでは、屋外ではヘックス(六角形)の升目(『魔王の地下要塞』のみに出現)、地下では方眼紙用の地図が記載されていて、それをそのまま紙に写せば、広大なマップが描ける仕組みになっている。
特にマップを図式で表すという仕掛けは、後にデイヴ・モーリスらが発表した「ブラッド・ソード」シリーズにも影響を与えている。「ブラッド・ソード」シリーズでは、戦闘シーンのみブロック状のマス目が描かれた地図が掲載されており、多人数プレイと合わさってボードゲーム的な、かなり戦略的かつリアルな戦闘を体験することができる。その先駆けともなった「マップ図式」を取り入れた「ユニコーン・ゲームブック」は、その独創性という点でもかなり突出しており、この点でも本シリーズは新規の試みに挑戦していることが伺える。
この仕様は、単方向移動が全盛だったイギリス本国のゲームブック事情を勘案すると、もっと評価されてよい。「ユニコーン・ゲームブック」の原書が出版された時期(1986年)は、日本では古川尚美が執筆した『ゼビウス』(1985年12月)とも重なり、双方向移動の作品が登場し始めた時でもある(その意味で、古川尚美の着眼点は非常に鋭いものがある)。しかし、本シリーズが翻訳出版された1987年時点では、既に日本で「ドルアーガの塔」三部作など優れた双方向移動のゲームブックが数多く制作されたこともあって、「ユニコーン・ゲームブック」の画期的な試みは軽視されていたように思われる。
これまでのゲームブックを見ても、「ユニコーン・ゲームブック」のようにここまで詳細にマッピングをサポートしている作品は珍しい。例えば『火吹山の魔法使い』では距離感がなかなかつかめずに描いていくマップがずれることが多々あった。「ドルアーガの塔」三部作や『スーパー・ブラックオニキス』、そして『パンタクル』などでは、地形が区画分けされているので正確な地図が描けるが、その代わりに方向や距離の説明書きを吟味しなければならなかった。「ユニコーン・ゲームブック」では地図を描く必要のあるパラグラフに来るたびに図式的に表示されるため、面倒だと思うプレイヤーは紙にすかして地図をなぞり描きすればよく、また視覚に直接訴えるため大きさなども一目瞭然である。
これは、TRPG『スティーブ・ジャクソンのファイティング・ファンタジー』がセクションごとに一枚のイラストを提示して物語を盛り上げたのと同じ効果を上げている。こちらはストーリー性やその場の雰囲気という点を重視してイラストを使用しているのに対し、「ユニコーン・ゲームブック」はあくまでもゲーム性に重きを置き、正確な地図を描けるようにすることで、冒険の臨場感の追求を目的としている。『スティーブ・ジャクソンのファイティング・ファンタジー』がどちらかというと物語指向であるのに対し、ユニコーン・ゲームブックはまず面白いゲームを作ってから文章を繋げることで、素晴らしいゲームブックを作ろうと考えていた節がある。
この傾向は戦闘ルールでもより顕著になる。本シリーズでは体力ポイントという概念がなく、戦力ポイントと敏捷ポイントの二つに分けられているのだが、戦闘で傷を負って戦力ポイント(ないしは敏捷ポイント)が減っていくと、それだけ敵への命中率と敵からの攻撃の回避率が下がっていくのだ(具体的には、ボーナスポイントが減っていく形になっている)。
第5回の「デュマレスト・ゲームブック」の項でも述べたが、戦闘のリアリティを考えるならば、確かに死に瀕している主人公(ないしは敵)が元気いっぱいで攻撃(回避)できるのはおかしな話で、どうしても剣の切れ(や体の切れ)が鈍ってくる。このシリーズではそのリアリティさを難易度が高いルールで再現しようと試みており、ゲーム的には素晴らしい効果を上げているが、逆にストーリーへの没入感や物語を楽しむという側面に貢献しているかどうかは疑問だ。戦闘の過程でいちいち攻撃(防御)ボーナスポイントを訂正しなければいけないため、どうしても行動を中断させて新たな数値を元に算定する必要があり、プレイヤーの負担が大きくなるからである。そのため、複雑なゲーム的処理によってストーリー面の集中力を切らせてしまう危険も同時に孕むことになる。
次に、このシリーズの「売り」である自由度という点だが、双方向移動を全ての項目で最大限に取り入れたことによって移動はかなり自由であり、どこをどのように通っていっても最終的にクリアできるようになっている。但し、このゲーム的な自由に労力を払い過ぎて、ストーリー性や物語の整合性がかなり犠牲になっているのは否めない。
例えば、「一度倒した敵が再度出現しないようにするためにどうするか」というフラグ管理の問題について、「ドルアーガの塔」の『魔界の滅亡』では鐘の所持の有無、『ネバーランドのリンゴ』では「キーNo.」、『スーパー・ブラックオニキス』ではチェックリストと、今までのSAGBでは何らかの仕掛け(ルール)を用意していた。ところが、「ユニコーン・ゲームブック」では、「倒した敵は次に来た時には出現しないので、その敵の記述は無視する」と、文章を無視して進むように提言しているのだ。これは効率化という側面から見れば利点にもなりうるが、描写力を含めた物語性や冒険の雰囲気を損ねる結果をもたらしているように思える。
また、本シリーズでは十の魔法を自由自在に操れるというシステムを搭載しており、これが「ユニコーン・ゲームブック」のアピールポイントともなっている。魔法は「攻撃型」「防御型」「その他」の三つに大別されているのだが、特に「防御型」と「その他」でオリジナリティの高い魔法が目立つ。例えば「フットステップ」の呪文は「自分のいる場所から遠ざかっていく、ちょうど足音ぐらいの大きさの音を作り出す」という、ゲームでは非常に稀な、だが効果的で面白い効果を持っており(これは「ダンジョンズ&ドラゴンズ」などの「ベントリロキズム(幻聴)」に相当する)、独創性という点では随一だ。また、鍵のかかったドアを開ける「セサミ」という魔法は、明らかに「開けゴマ」のオマージュであり、ネーミングという点でも面白さを醸し出すことに成功している。
本シリーズでは、魔法を使用する際には「どの魔法を唱えるか決めた上で○○に進む」という記述があり、『パンタクル』のような「いつでも自由に魔法を使いこなせる」というシステムを採用している。だが、魔法の使用によってパラグラフ数を費やすのを避けたせいだろうか、飛んだ先の○○番地では、単に魔法が効果を発揮したかどうかの説明文があるだけで、その場限りの描写に偏っているうらみがある。つまり、魔法の効果というストーリー性においても記述力がやや弱く、印象に残らないイメージがある。
例えば攻撃型の呪文「パワーボルト」で敵を殲滅したとしても、「普通通りに効力を発揮する」とだけしか書かれておらず、状況説明は一切ない。「ワルキューレの冒険」シリーズや『ドラゴンバスター』のように、その場その場で適切な描写(例えば「パワーボルトで、敵の一人が黒焦げになってその場に倒れ伏した」のような叙述)はなく、その効果の程を実感するようなストーリーや魔法の威力、そして結果などの状況を頭の中で補正するしかないのだ。
本作はゲーム性に重きを置いているので、魔法をはじめとするゲームとしての処理は明確な方がプレイヤーに伝わりやすいのは事実である。だが、文章を主軸としたゲームブックとして見れば、小説的な要素がやや欠けており、状況描写を楽しみたい人にとっては残念な点だろう。特に魔法については、十の魔法を自由自在に使いこなせるという長所があるのだから、なおさら描写には気を配るべきではなかっただろうか。総じて、十の魔法自体の魅力である肝心の神秘性や衝撃性(唱えた時の効果を実感できる体験)も減殺する結果になっているというのが妥当な評価だろう。
これは戦闘や魔法だけでなく、前述したように他のイベントについても「○○についての記述は無視すること」という指示が多い。例えばある部屋に入ったらそこに娘がいるというシチュエーションで、話しかけた結果娘が部屋を出てしまったら「娘に関する記述は無視すること」という指令が下るのだ。これはゲーム性という点では一理あるかもしれないが、ストーリー性や物語性という点では、かなり雰囲気を壊してしまっている。ストーリーに浸りたいと思っているプレイヤーは、言わばゲーム的に冗長的な描写を読まされることになる。(もっとも、訳者のマジカル・ゲーマーは、『魔王の地下要塞』のあとがきで、『ネバーランドのリンゴ』や「ドルアーガの塔」と比較して、この簡潔なフラグ管理を肯定的に捉えている)。
このため、どうしてもイベントが単発的で繋がりがなく、深みがいまいち足りないものになりがちだ。例えばほとんどのイベントは「ゴブリンやオークが襲ってきた」というもので、同じようなイベントが頻発するために飽きが来やすい。『ウォーロック』十六号で、このシリーズは「シナリオが類型化していて没個性的」という評価が下されたが、それもむべなるかなだろう。
本シリーズは、ちょうどリビングストンの単著『運命の森』が、森の道筋を複雑にすることでパズル性を際立たせた一方、イベントの繋がりやストーリー性を犠牲にしたという安田均の考察と似た陥穽にはまってはいないだろうか(『ファイティング・ファンタジー・ゲームブックの楽しみ方』p. 56-60)。確かに、ここまでゲーム的に凝ったシステムを取り入れて双方向で移動の自由を利かせたならば、それに比例してストーリー性が犠牲になるのは避けがたく、そのためにイベントがその場限りの単発的な、そしてありきたりなものになってしまうのは仕方のないことだろう。もっとも、本作が一人で遊べるRPG、つまりコンピューターRPGのブック版とでも言うべきものを意識していたとしたら、当時のコンピューターRPGは発展途上であり、単純かつ機械的に倒した敵が何度も登場して向かってくるという戦闘やイベントも多かったため、そうした状況はそこまで悪い点とはみなされなかった可能性もある。
これは、キャラクターが無色透明の「君」であるところにも理由の一端がある。ほとんどの国産ゲームブックは主人公キャラクターが際立っていたため、作者は作家的な手法、即ち物語世界を重視する傾向にあり、その結果その世界に最初から没頭することができる。ところが、ファイティング・ファンタジー・シリーズやゴールデン・ドラゴン・シリーズ、そしてこのユニコーン・ゲームブックは、主人公に個性を持たせるというやり方を採用していないため、いきおい起こるイベントも「君」に直接絡んでこない。逆に言えば、ベルトコンベアーのようにただ決まったストーリーを辿るのではなく、自らが切り開き開拓していった冒険譚を存分に堪能できる仕組みを、このシリーズは採用しているということだ。
ある意味で、本シリーズはストーリーやけれんみのあるキャラクター創造などを抑えて、限りなくオープンフィールド的な解放感や高揚感を追求しているのだろう。好きな装備をして、好きな道を選び、好きな戦法が取れるという自由度は、当時の「ウィザードリィ」のようなコンピューターRPGなどにもよく見られた特徴で、それだけ戦略や攻略にこちらの意向が反映されるという、リアリティの極致を体現できる形になっている。
この選択が優れた作品を作る上で吉と出るか凶と出るかはやはり読者の好みだろうが、こと「ゲームブック」という媒体にのみ絞って考えるならば、読者を選んでしまう可能性は否定できないだろう。例えば、T&Tのソロアドベンチャー『カザンの闘技場』には、ひたすらキャラクターを強化して戦いに挑むという「ルーティン」や「定型」があり、1980年代にはそうしたボードゲーム的・コンピューター的な遊び方もそれなりに受容され、一定のファン層もいたことはいた。
だが、四十年が経過した現在の我々の視点から見ると、「ゲームブック」というジャンルにおいて、そうしたゲーム性のみを突き抜けさせる手法は、どうしても得られるところは少ないように思われる。1987年当時のコンピューターではそうも行かなかったろうが、もしどうしてもゲーム性をストーリー性に優先したいのならば、コンピューターに機械的な処理を任せた方が現代では絶対にうまくいく。ゲームブックは「ゲーム」だけでなく「ブック」の側面もあるわけで、優雅で情緒的なストーリーを味わうことができる「本」や「活字」の側面も、もう少し大事にしてほしかった気もする。
つまり、このゲームブックは「ブック」を楽しむのではなく、「ゲーム」に重点を置いた、完成度という点ではどちらかというと娯楽指向の性質を持っているということである。これは恐らく、作者のポール・ヴァーノンが背景世界の作成を得意とするデザイナーだったことも影響しているのだろう。ポール・ヴァーノンは緻密なデータで世界を表現する「ウォーハンマーRPG」のスタッフとして関わっており、こうした「ゲーム的システム」の洗練さは、彼にとっては自家薬籠中のものだったに違いない。
それを表すかのように、各巻のストーリーはどちらかというとオーソドックスである。この傾向は特に第一巻『魔王の地下要塞』で顕著である。プレイヤーは放浪の騎士に扮し、たまたま目撃した誘拐事件を解決すべく動き出すというオープニングから始まる。先述したように、プレイヤーは七日以内に誘拐されたエスガロン伯爵令嬢アロウェンを救出するという冒険に従事することになるが、王から命令が下るのでもなければ、誰かに強制されて探索行に参加するわけでもない。富と名声を求めて自発的に艱難辛苦に挑むことになるのだ。だが、それ以外に複雑な裏事情や背景設定のようなものは描かれない。『ネバーランドのリンゴ』など見られたような童話的な謎解きやパズルもマッピング以外は皆無であり、ある意味では硬派なリアルさを追求するゲーム構成を貫いている。本来の冒険に、あのような謎解きが頻出することはまずないからだ。
第二巻『ファイアーロードの砦』は、『魔王の地下要塞』に比べてストーリー性にも注力しているように見える。前巻で見事任務を達成して宴会で喜び浮かれる主人公が、貴族たちから「街道を行く隊商に略奪を働くファイアーロードを倒してほしい」と依頼される。貴族の気まぐれに反抗できない主人公は、ファイアーロードの砦に侵入するために隊商に紛れ、わざと捕まって潜入するという過酷な任務に就く羽目になる。これは、貧乏かつ放浪の身の故に限られた予算(金貨十枚)で装備を整えてスタートしなければならなかった前作の『魔王の地下要塞』よりもよほど刺激的な状況だろう。
また、囚われの身からいかに脱出するかというスリリングな展開(イベント)も用意されていて、それに呼応するように憎々しげなファイアーロードやオークどもが跳梁跋扈し、いかに危険と隣り合わせの任務かが骨身に染みて楽しめる仕様になっている。特に、闘技場での戦いやファイアーロードとの絡み、そして最後に見せる意外な展開(『魔王の地下要塞』は姫を助けてハッピーエンドという定型であった)など、物語に深みを持たせることにある程度成功している。
更に言えば、『ファイアーロードの砦』では逃亡時の場面までもがしっかりと書き分けられていて、いかにもエスピオナージ風の潜入ミッションという冒険を楽しむことができる。追っ手を撒くまでは通常ののんびりとした捜索ができず、緊張感が高まること間違いなしだろう。
NPCが積極的に主人公に絡むことは少ないが、『魔王の地下要塞』では陰険な性格のロデリック卿の他、ゴブリンの族長に敵意を燃やすゴブリンの護衛ナレク(なんと、主人公に族長の殺害を依頼してくる)や戦斧を探し回るドウォーフのロゴ、『ファイアーロードの砦』では憎々しいファラクや炎の悪魔グロガラックとの心理的駆け引きなどが、特筆すべき登場人物やイベントとして挙げられるだろう。これらの接触の仕方はどちらかというと軽めのものが多く(後者は物語としては重要な鍵を握るのだが)、主人公側にどっぷりとはまり込むような大きなイベントは少ない。
「ユニコーン・ゲームブック」は、それらのイベントを情緒的に楽しむストーリー志向というよりは、森と迷路を右往左往して手がかりを見つけて解決するというゲーム性に主眼が置かれた「宝探しゲーム」という雰囲気を持っている。このような点を鑑みると、本シリーズはオープンワールドのRPGを具現化した形になっており、イベントとマップを提供して自由闊達に冒険を楽しむというのが『魔王の地下要塞』や『ファイアーロードの砦』の「正しい」読み方なのだろう。
このオープンワールドの探索の魅力は、1990年代後半にデイヴ・モーリスが"Fabled Lands"シリーズを発表したことでも証明されている。"Fabled Lands"は一冊の本だけでなく各シリーズごとに地域をまたいで移動することができるというシステムを搭載しており、探索の自由度を極限まで突き詰めている。
因みに、「ユニコーン・ゲームブック」は三部作を予定されていたようだ。第三巻は"Marauders at Redmarsh"(赤い沼地の略奪者)という仮題が付されて予告こそあったものの、本国ではついに発刊されなかったそうである。貴族の気まぐれに付き合わされた主人公が、第三巻でどのような形で更なる冒険に送り込まれることになるのか、甚だ気になるところだ。
作者のポール・ヴァーノンはTPRGのシナリオ執筆などを本業にしているところからも、背景世界のデザインには定評のある作家であったが、こと「ユニコーン・ゲームブック」には世界観の作り込みなどの点では効果的な雰囲気が提供できていないのが惜しい点である。その意味で、同じイギリス発祥の「ゴールデン・ドラゴン・ファンタジィ」シリーズなどは背景世界が極めて陰惨な雰囲気を醸し出していて、物語性を色濃く反映していることが伺えよう。また、国産のゲームブックと比較しても、例えば『パンタクル』などの鈴木直人の作品や『ネバーランドのリンゴ』などの妖精が活躍する牧歌的な世界の魅力には届いていないように思われる。
ついでに言えば、主人公が無色透明という特徴を有するゲームブックでも、その代替手段として魅力的なNPCやイベントの意外性といった読者を惹きつける要素を豊穣に取り入れて、イベントそのものの魅力を押し上げたり、あるいはその場所の夢幻的・異界的な雰囲気を作ったりすることで、物語の深みを演出することは可能だ。リビングストンの『死のワナの地下迷宮』などはその成功例の一つであるが、ことユニコーン・ゲームブックについて言うと、鮮烈なキャラクターがあまり出てこず、冒険を終えた後に記憶に残るような印象的なNPCは少ない。例外としては、『魔王の地下要塞』では宿敵の魔法使いザンダバー、『ファイアーロードの砦』ではファイアーロードの「おもちゃ」の番人たる中盤の敵ファイアースネーク(頭が人間、体が蛇という造形がおぞましい)が挙げられる。
また、同じファイティング・ファンタジー・シリーズでは、リビングストンの『盗賊都市』では、カギ職人やヘビの女王、アズール卿などのNPCが多数登場して物語に花を添えていたが、ユニコーン・ゲームブックではイベントと言えば「敵に見つかった」や「敵の捕虜になった」といったパターン化されたレベルで、更にプレイヤーを惹きつけるようなNPCを出現させようというのは難しい。ストーリーテリングにもっと力を入れていれば、かなりの傑作になったのではないかと思うと、非常にもったいなく感じられる。
ユニコーン・ゲームブックはゲーム的な面で特に優れており、計算しつくされた戦闘システムにマッピングの楽しさなどは、ファイティング・ファンタジー・シリーズよりも上である。だが、あまりにリアリティを追求し過ぎたために、ゲームブック自体の難易度が高く、「ちょっと気軽に手を触れる」という作品にはなっていない。本格的な冒険者の要請に応えた、まさに超上級者用のゲームブックなのである。しかしながら、イベントの好悪はともかく、愚直なまでに徹底してオープンフィールドを駆け回りアイテム収集や成長を楽しむという「やりこみゲーム」という側面を有していると言えなくもなく、それが一定の支持者を獲得する要因になったのだろう。
皮肉なことに、ユニコーン・ゲームブックはストーリーよりもゲーム性を追及して重みを置いたために、結局ゲームブックとしては厳しい評価を受けることになった。その一方で、高度なシステムによって戦闘や魔法のリアリティを再現することに成功し、高い成果も挙げている。このシリーズの登場によって、ゲームブックでゲームとブックのバランスをどう取るかという問題が、改めて浮上するのである。
◆書誌情報
『魔王の地下要塞』
ポール・ヴァーノン(著) マジカル・ゲーマー(訳)
東京創元社(1987/4/3)絶版
『ファイアーロードの砦』
ポール・ヴァーノン(著) マジカル・ゲーマー(訳)
東京創元社(1987/6/10)絶版
■参考文献
『魔術師タンタロンの12の難題』
スティーブ・ジャクソン(著) 柿沼瑛子(訳)
社会思想社(1987/2/28)絶版
「ブラッド・ソード」シリーズ
『シナリオ♯1 勝利の紋章を奪え!』
デイブ・モーリス&オリバー・ジョンソン(著)大出健(訳)
富士見文庫(1988/3/30)絶版
『シナリオ#2 魔術王をたおせ!』
デイブ・モーリス&オリバー・ジョンソン(著)大出健(訳)
富士見文庫(1988/7/20)絶版
『シナリオ#3 悪魔の爪を折れ!』
デイブ・モーリス&オリバー・ジョンソン(著)大出健(訳)
富士見文庫(1989/2/28)絶版
『シナリオ#4 死者の国から還れ!』
デイブ・モーリス&オリバー・ジョンソン(著)大出健(訳)
富士見文庫(1989/9/20)絶版
スティーブ・ジャクソン&イアン・リビングストン(著) 浅羽莢子(訳)
『火吹山の魔法使い』
社会思想社(1984/12/30)絶版
扶桑社(2005/3/26)絶版
SBクリエイティブ(再生産版) 安田均(訳)(2024/3/28)
『スティーブ・ジャクソンのファイティング・ファンタジー』
スティーブ・ジャクソン(著) 本田成二(訳)
東京創元社(1985/12/13)絶版
『運命の森』
イアン・リビングストン(著) 松坂健(訳)
社会思想社(1985/7/25)絶版
SBクリエイティブ 安田均(訳)(2023/7/14)
『ファイティング・ファンタジー・ゲームブックの楽しみ方』
安田均(著)
社会思想社(1990/8/30)絶版
『死のワナの地下迷宮』
イアン・リビングストン(著) 喜多元子(訳)
社会思想社(1985/11/20)絶版
SBクリエイティブ こあらだまり(訳)(2022/7/16)
Demian's Gamebook Web Page
https://gamebooks.org/Series/155/Show
『盗賊都市』
イアン・リビングストン(著) 喜多元子(訳)
社会思想社(1985/10/20)絶版
SBクリエイティブ(再生産版) こあらだまり(訳)(2024/3/28)
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