その感情は、ほんとうにあなたのもの?
― わたしの奥が、世界にふるわされるとき ―
わたしの奥で起きる“ふるえ”は、
ときに誰かを責めさせ、ときに自分を責めさせる。
でも本当は、それは――
“わたしのもの”ではなかった。
人々は
「被害者」になったり、「加害者」になったりする。
誰かにひどいことをされた、と感じたり。
自分のせいで誰かが苦しんでいる、と責めたり。
でもそれは、
そのどちらも、ほんとうの意味では“わたし”が起こしたことではないのだと思う。
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わたしが何かに強く揺さぶられるとき、
感情が溢れてとまらないとき、
そこにはいつも、「わたしの奥」がふるえていた。
でもその奥――
それは、“わたしのもの”ではなかった。
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わたしの奥は、すべてとつながっている
わたしが感じているこの震えは、
どこかの誰かとつながっていて、
もっと言えば、
この世界の“なにか”とつながっていて、
わたしという器をとおして、震わされているような感覚。
それはまるで、
大地の奥で起きた揺れが、
海を渡って遠くの岸辺を動かすように。
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わたしが突然ふるえるのは、
誰かのせいじゃなく、
わたし自身のせいでもなく、
ただ、“奥”が何かに共鳴したから。
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でもそのことに自覚がないと、
わたしたちはその震えを
外の誰かのせいにしてしまう。
「この人の言葉がわたしを傷つけた」
「この人の無視がわたしを壊した」
「わたしのせいで、あの人が苦しんでいる」
そのたびに、
加害者や被害者という名前がつけられ、
その物語に閉じ込められていく。
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でも、ほんとうは。
その震えは、わたしの奥で起きた、
もっと静かな出来事。
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わたしの奥がふるえるとき、
それは、“わたし”が何かをされたのではなく、
世界が、わたしをふるわせていただけだった。
そしてわたしは、それをただ感じた。
だから泣いた。
だから怒った。
だから、誰かに何かを伝えたくなった。
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でもそれは、
誰かを責めたくて出てきたのではなくて、
ただ、ふるえに従って動いた
“いのちの反応”だったんだと思う。
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加害者と被害者の間にあるもの
それは、奥の震え。
でもその震えを「わたしのもの」として抱えてしまうと、
責めたり、責められたり、という物語に取り込まれてしまう。
でも、もしその震えが
“わたしの奥に起きた、もっと大きな世界の揺れ”だとしたら?
わたしはきっと、
誰かを責めずに、自分も責めずに、
ただ静かにそのふるえとともにいられる。
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[OKUメモ]
わたしのOKUがふるえたとき、
それは“わたしのせい”でも“あなたのせい”でもない。
それは、
すべてとつながっているわたしのOKUが、
世界のどこかの揺れに共鳴しただけ。
加害者と被害者のあいだには、
ただ、ひとつの震源があるだけだった。
わたしたちは、いまその震源の中で、
静かに生きている。


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