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聖徳太子研究の最前線

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厩戸での誕生はキリスト教の影響と見る説の背景(2):西田みどり「久米邦武の聖徳太子研究」

2021年01月26日 | 論文・研究書紹介
 先の記事では、聖徳太子の厩での誕生伝承をイエスが馬小屋で生まれたとするキリスト教の影響と見るのは逆であって、イエスが家畜小屋で生まれたとする話を日本語で伝える際、家畜小屋に当たる語として「厩」、飼い葉桶に当たる語として「うまぶね」などを用いるなどした結果、太子の厩戸誕生伝承の影響も加わり、近代になって「馬小屋で生まれた」と解釈されるようになっていった可能性があると説く平塚徹氏の論文を紹介しました(こちら)。

 キリスト教の影響を説いた最初は、近代歴史学の創設者である久米邦武です。久米は明治38年(1905)刊行の『上宮太子実録』で、『日本書紀』の厩戸誕生伝承やそれ以外の聖徳太子伝に見える逸話の中に聖書の話に似ているものがあるのは、唐に渡ってきていた景教(ネストリウス派のキリスト教)の話を聞きかじった日本の僧侶が、それを利用したのだろうと説いたのです。

 この問題については、以前、井上章一氏の『法隆寺への精神史』を紹介した際に触れました(こちら)。井上氏は、西洋列強との不平等条約に苦しんでいた明治期の日本では、日本人は他のアジアの諸民族とは人種が違い、西方文明を伝えているのだといった主張もなされるようになり、そうした風潮の中で、西洋を視察してキリスト教の盛んさを目撃した経験のある久米は、近代的な学問方法による文献批判を進めると同時に、欧米から野蛮とみなされていた日本の宗教は実際にはキリスト教と似た面があり、聖徳太子説話も聖書の話と共通するものであって、日本には早くからキリスト教が入っていたのだと主張したかったのだろうと推測していました。

 その久米の宗教観を調査し、聖徳太子研究についても論じたのが、西田みどり氏です。

1. 西田「久米邦武の宗教観 --『米欧回覧実記』を中心に」
(『大正大學研究紀要. 仏教学部 人間学部 文学部 表現学部』98号、2013年)
2. 西田「久米邦武の仏教観―スリランカの仏教寺院訪問を中心に」
(『大正大學研究紀要』99号、 2014年)
3. 西田「久米邦武の聖徳太子研究」
(『宗教研究』 88号、2015年)

 1では、明治4年(1871)から岩倉視察団の一員として1年9ケ月にわたって西洋諸国を回り、記録係と「宗教取調べ掛り」を担当して『米欧回覧実記』を著し、後に東京大学教授となった久米について興味深い事実を数多く報告しています。

 まず、西洋視察に出発する際は、洋行経験者から、「西洋人は必ず信仰する宗教を聞いてくるから、回答を用意した方が良い。無宗教と答えると道徳が無いとして信頼されない」と言われ、議論になった由。仏教を淫祠とみなす儒学者としては「仏教信者です」とは言えないものの、儒教は政治教育のようなものであり、神道は宗教とはしては成立していないし経文も無い、ということで皆な困ったそうです。ただ、工業が盛んな欧米を回ってみると、キリスト教が広まっていて信仰心が強く、これが国民道徳なって国家を支えていることを痛感させられたようです。

 ただ、2によれば、久米は日本では僧侶が堕落しているとして仏教に批判的であったものの、西洋視察からの帰途に立ち寄ったスリランカは、イギリスの植民地となっていたものの、風光明媚であって人々の仏教信仰が篤く、民衆も僧も淡泊な生活をしていることに感心し、仏教に対する見方が変わったらしいとしています。

 久米は、明治24年(1891)に古代宗教の世界共通性を説く「神道ハ古代ノ祭天ノ古俗」論文を書き、翌年、それを日本人=アーリア民族説を唱えていた田口卯吉が主催する『史海』誌に転載したところ、筆禍事件となり、東大を辞職するに至ったことは良く知られています。この論文では、インドでは文化が早くから発達し、六人の覚者が出た後に釈迦も出て教えを説いたのが宗教の最初であって、これがヨーロッパに伝わって別派となったのがキリスト教だと説いていることに、西田1論文は注意します。つまり、仏教とキリスト教が似ているのは当然のことと見るのです。

 こうした検討を踏まえて書かれた西田3論文(概要)は、西洋のキリスト教に代わる国民共通の宗教基盤を模索していた久米が、同じ立場で聖徳太子研究に取り組んだことを指摘しています。『上宮太子実録』の前年に日露戦争のさ中で発表した久米の「聖徳太子の対外硬」では、太子当時の困難な外交状況は、現在の困難な状況と同じであるとし、太子は宗教を広め、強硬な対外姿勢を貫いて成果をあげたと礼賛していました。久米の景教影響説は、こうした時代状況の中で考える必要があるのです。

 ここで面白いのは、久米は仏教がキリスト教誕生に影響を与えたとしておりながら、太子の厩戸誕生伝説については、キリスト教の影響としていたことです。この点をとりあげたのが、上で触れた井上氏です。井上氏は、『日本人とキリスト教』(角川ソフィア文庫、2013年。原著は『キリスト教と日本人』講談社、2001年)において、久米の景教影響説が出ると、仏教史の境野黄洋が明治37年に『聖徳太子伝』を著し、反論したことを紹介しています。

 境野は、厩戸誕生説話のルーツはインドの仏教説話であって、それが西洋に伝わってイエスの馬小屋誕生説話となり、東洋では聖徳太子の厩戸誕生伝承となったのだと説いたのです。井上氏は、秋山悟庵の『聖徳太子言行録』(1908年)も境野説を支持していたとし、そうした見方が有力であった中で、久米がキリスト教影響説を説いたのは、「キリスト教という舶来文化への執着が、久米の場合はそれだけ強かったというべきか」としめくくっています。

 このように、聖徳太子に関する研究者の諸説は、それぞれの時代の社会的背景と個人的な背景に基づいていることに注意すべきでしょう。
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