夜間戦闘機「月光」でB29を迎撃した男性「到底かなわない」と特攻志願…90歳になって記録を残す
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太平洋戦争末期、米軍の爆撃機B29を迎撃した夜間戦闘機「月光」に搭乗していた男性が鳥取県境港市にいる。巨大な敵機を前に、仲間は次々と死に追いやられた。当時の記憶は生々しい。「怖かったけれど、そう感じないようにしていた」と絞り出すように振り返る。(久保田万葉) 【写真】威容を誇る戦艦「大和」
松下薫さん(96)。外交官の父の転勤で上海にも住み、英語や中国語に通じた。幼い頃から飛行機が好きで、15歳の時に帰国し、大村海軍航空隊(長崎)に入隊した。
通信員やB29の迎撃を担い、乗り込んだのが「月光」だった。1938年から450機前後が製造された。航空評論家の青木謙知さんは「月光は、中央胴体上部に斜め上に向けた機関砲を取り付け、爆撃機を下から射撃することができ、一定の戦果をあげた」と話す。それでも終戦までに多くが破壊され、約40機しか残らなかったという。
出撃しては、「燃料タンクを狙え」との指示通り、何度も必死に銃のレバーを引いた。対するB29の大きさは月光の倍ほど。外装板が厚く、燃料タンクの防護性も高い。目の前で敵機が落ちていくことはなかった。「到底かなわないと思ったが、焼け野原になっていく町を見て許すことはできなかった」
あとは体当たりしかない。隊員の多くが特攻隊を希望した。死地に向かう少年たちは前夜、あてがわれた部屋にじっと座り、泣き声を押し殺して「お母さん、お母さん」とつぶやいていた。
死んでいった仲間には上海からの友人もいた。「俺は先に行く」。特攻の1週間前、友人に告げられた。 「普段はおっとりしていた男が真剣な表情でね。当日は泣きながら帽子を振って見送った。一生忘れられない」
自らも特攻を志願した。しかし、基地は連日爆撃を受け、機能不全状態。破壊された機体が積み上げられた。その機体のガラスでシガレットケースをつくった。彼らを忘れないために。 1945年8月15日昼、玉音放送はよく聞こえなかった。「戦争終結だ」「いや本土決戦のご指示だ」と混乱する中、通信所に向かい、新聞電報を受けた。終戦が明確にわかると、緊張の糸が切れた。「これで、やっと全て終わったんだ」
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