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諫早湾干拓事業では、地域住民・長崎県議会と自然保護団体・漁業協同組合の争いが起こっていて、メディアにおいては度々、諫早湾干拓事業が非難されています。

諫早豪雨 - Wikipedia
諫早豪雨 (いさはやごうう)は、 1957年 7月25日 から 7月28日 にかけて 長崎県 の 諫早市 を中心とした地域に発生した大雨( 集中豪雨 ) [ 注釈 1 ] 。この大雨によって生じた災害は「 諫早大水害 」とも呼ばれている [ 2 ] 。 以下の記述では、 市町村合併 によりすでに消滅している自治体もあるが、原則として豪雨発生当時の自治体名で示す。 南高来郡 瑞穂村 西郷(現・ 雲仙市 )に設置された農林省(当時)の観測所では24時間降水量が1,109mmという驚異的な 降水量 を記録し [ 1 ] 、6時間降水量と12時間降水量では日本歴代最高記録を記録している。 1957年(昭和32年) 7月21日 以降、 沿海州 にあった高気圧が勢力を強めて 梅雨前線 が南下 [ 2 ] 。梅雨前線は7月24日には関東沖から九州南部を通って 黄海 南部に至り、25日午前には前線上の黄海南部に低気圧が発生して東に進むとともに前線が北上して活発化した [ 1 ] 。その後、25日15時には梅雨前線は長崎県中部にほとんど停滞し、その後26日まで前線は停滞しながら 雷を伴った記録的豪雨 をもたらした [ 2 ] 。 先述のように南高来郡瑞穂村西郷(現・雲仙市)の農林省(当時)の雨量計では24時間降水量が1,109mmを記録した [ 1 ] 。一方、ここから南へ約20km離れた島原半島南端の南高来郡 口之津町 (現・ 南島原市 )では日降水量がわずか86mmで、1000mm以上の差があり、特に25日から26日の大雨は局地性が強かった [ 2 ] 。なお、当時は 集中豪雨 の用語はまだ用いられていなかった [ 2 ] 。 7月25日午後2時に諫早市は諫早水防本部を設置したが [ 3 ] 、この頃には東部厚生町で床下浸水が発生していた [ 2 ] 。その後、午後3時には 本明川 が警戒水位3.50メートルを超えたため非常サイレンが鳴らされた [ 2 ] [ 3 ] 。さらに事態の急迫により、午後6時50分には1回目の避難命令サイレン、午後7時30分には2回目の避難命令サイレンが鳴らされた [ 2 ] [ 3 ] 。 午後8時頃になると本明川上流部で土石流が多発し、午後9時30分頃には本明川で氾濫が発生したため3回目の避難命令サイレンが鳴らされたものの、直後に市内は停電となり通信は途絶した [ 2 ] [ 3 ] 。この大雨で諫早市では2度にわたって本明川が氾濫したが、特に上流での大規模な土石流の発生後に発生した2回目の氾濫では大量の土砂と流木が流入し大きな被害をもたらした [ 1 ] 。濁流が諫早駅前東永昌町一帯を襲い、四面橋東側上流で破堤して天満町を突き切り、高城神社裏の右岸堤防も破壊された [ 2 ] [ 3 ] 。さらに 眼鏡橋 は江戸時代の天保年間に洪水に流されない橋として建設された石橋だったが、流木が橋に捕捉され流水の疎通を阻害して被害を拡大させた [ 2 ] 。 諫早市だけで死者は500人を超え、「 消防白書 」によると死者586人、行方不明者136人、負傷者3,860人、住家全壊1,564棟、半壊2,802棟、床上浸水24,046棟、床下浸水48,519棟を出した [ 1 ] 。「諫早大水害30周年記念誌」では死者・行方不明者数を630人(諫早地域539人、森山地域53人、高来地域37人、小長井地域1人)としており [ 3 ] 、報道でも死者・行方不明者630人とするものがある [ 4 ] 。 熊本市では日降水量480.5mmを記録し 白川大水害 時の日降水量411.9mmを上回った。 眼鏡橋に関しては流木が橋に捕捉され流水の疎通を阻害して被害を拡大させたと指摘され、水害後には爆破して護岸の栗石にすることが決定していた [ 2 ] 。しかし、当時の 野村儀平 市長らの働きかけで、1958年に日本の石橋として初めて国の 重要文化財 に指定、 1959年 (昭和34年)から1960年にかけて 諫早公園 への移設工事が行われた。 1989年 から工事が始まり、 2007年 に完工式を行った 諫早湾干拓事業 の目的のひとつとして諫早豪雨のような大雨による洪水被害からの防災があげられているが、干拓事業による防災効果については賛否があったが、数年に一度氾濫していた本明川の氾濫も減り、高潮被害も無くなり、諫早市民は干拓事業による水面調節効果と水害防止効果を高く評価している [ 5 ] 。 大水害後、毎年7月25日には本明川中流域の河川敷などで「諫早万灯川まつり」が開かれている [ 2 ] 。 21年後に行方不明者の当時4歳の男児の白骨化遺体が市内の公園整備中に堆積土砂の中から発見され水害時の行方不明者とみなされ調査の結果身元が確認されて遺族に引き渡されている ^ 気象庁の資料では1957年7月25日から7月28日としているが [ 1 ] 、論文によっては同年7月24日から27日としているものもある [ 2 ] 。 長崎大水害 - 同じ長崎県などで1982年の同じ時期に発生した豪雨災害。 野呂邦暢 - 自宅が全壊。 役所広司 - 幼少時に被災している。 さだまさし - この災害で父の事業が失敗し、貧困生活に陥る。 岸信介 - 当時の 総理大臣 。飛行機に乗って現地を視察している。

1989年から工事が始まり、2007年に完工式を行った諫早湾干拓事業の目的のひとつとして諫早豪雨のような大雨による洪水被害からの防災があげられているが、干拓事業による防災効果については賛否があったが、数年に一度氾濫していた本明川の氾濫も減り、高潮被害も無くなり、諫早市民は干拓事業による水面調節効果と水害防止効果を高く評価している

諫早豪雨

諫早豪雨 - Wikipedia
諫早豪雨 (いさはやごうう)は、 1957年 7月25日 から 7月28日 にかけて 長崎県 の 諫早市 を中心とした地域に発生した大雨( 集中豪雨 ) [ 注釈 1 ] 。この大雨によって生じた災害は「 諫早大水害 」とも呼ばれている [ 2 ] 。 以下の記述では、 市町村合併 によりすでに消滅している自治体もあるが、原則として豪雨発生当時の自治体名で示す。 南高来郡 瑞穂村 西郷(現・ 雲仙市 )に設置された農林省(当時)の観測所では24時間降水量が1,109mmという驚異的な 降水量 を記録し [ 1 ] 、6時間降水量と12時間降水量では日本歴代最高記録を記録している。 1957年(昭和32年) 7月21日 以降、 沿海州 にあった高気圧が勢力を強めて 梅雨前線 が南下 [ 2 ] 。梅雨前線は7月24日には関東沖から九州南部を通って 黄海 南部に至り、25日午前には前線上の黄海南部に低気圧が発生して東に進むとともに前線が北上して活発化した [ 1 ] 。その後、25日15時には梅雨前線は長崎県中部にほとんど停滞し、その後26日まで前線は停滞しながら 雷を伴った記録的豪雨 をもたらした [ 2 ] 。 先述のように南高来郡瑞穂村西郷(現・雲仙市)の農林省(当時)の雨量計では24時間降水量が1,109mmを記録した [ 1 ] 。一方、ここから南へ約20km離れた島原半島南端の南高来郡 口之津町 (現・ 南島原市 )では日降水量がわずか86mmで、1000mm以上の差があり、特に25日から26日の大雨は局地性が強かった [ 2 ] 。なお、当時は 集中豪雨 の用語はまだ用いられていなかった [ 2 ] 。 7月25日午後2時に諫早市は諫早水防本部を設置したが [ 3 ] 、この頃には東部厚生町で床下浸水が発生していた [ 2 ] 。その後、午後3時には 本明川 が警戒水位3.50メートルを超えたため非常サイレンが鳴らされた [ 2 ] [ 3 ] 。さらに事態の急迫により、午後6時50分には1回目の避難命令サイレン、午後7時30分には2回目の避難命令サイレンが鳴らされた [ 2 ] [ 3 ] 。 午後8時頃になると本明川上流部で土石流が多発し、午後9時30分頃には本明川で氾濫が発生したため3回目の避難命令サイレンが鳴らされたものの、直後に市内は停電となり通信は途絶した [ 2 ] [ 3 ] 。この大雨で諫早市では2度にわたって本明川が氾濫したが、特に上流での大規模な土石流の発生後に発生した2回目の氾濫では大量の土砂と流木が流入し大きな被害をもたらした [ 1 ] 。濁流が諫早駅前東永昌町一帯を襲い、四面橋東側上流で破堤して天満町を突き切り、高城神社裏の右岸堤防も破壊された [ 2 ] [ 3 ] 。さらに 眼鏡橋 は江戸時代の天保年間に洪水に流されない橋として建設された石橋だったが、流木が橋に捕捉され流水の疎通を阻害して被害を拡大させた [ 2 ] 。 諫早市だけで死者は500人を超え、「 消防白書 」によると死者586人、行方不明者136人、負傷者3,860人、住家全壊1,564棟、半壊2,802棟、床上浸水24,046棟、床下浸水48,519棟を出した [ 1 ] 。「諫早大水害30周年記念誌」では死者・行方不明者数を630人(諫早地域539人、森山地域53人、高来地域37人、小長井地域1人)としており [ 3 ] 、報道でも死者・行方不明者630人とするものがある [ 4 ] 。 熊本市では日降水量480.5mmを記録し 白川大水害 時の日降水量411.9mmを上回った。 眼鏡橋に関しては流木が橋に捕捉され流水の疎通を阻害して被害を拡大させたと指摘され、水害後には爆破して護岸の栗石にすることが決定していた [ 2 ] 。しかし、当時の 野村儀平 市長らの働きかけで、1958年に日本の石橋として初めて国の 重要文化財 に指定、 1959年 (昭和34年)から1960年にかけて 諫早公園 への移設工事が行われた。 1989年 から工事が始まり、 2007年 に完工式を行った 諫早湾干拓事業 の目的のひとつとして諫早豪雨のような大雨による洪水被害からの防災があげられているが、干拓事業による防災効果については賛否があったが、数年に一度氾濫していた本明川の氾濫も減り、高潮被害も無くなり、諫早市民は干拓事業による水面調節効果と水害防止効果を高く評価している [ 5 ] 。 大水害後、毎年7月25日には本明川中流域の河川敷などで「諫早万灯川まつり」が開かれている [ 2 ] 。 21年後に行方不明者の当時4歳の男児の白骨化遺体が市内の公園整備中に堆積土砂の中から発見され水害時の行方不明者とみなされ調査の結果身元が確認されて遺族に引き渡されている ^ 気象庁の資料では1957年7月25日から7月28日としているが [ 1 ] 、論文によっては同年7月24日から27日としているものもある [ 2 ] 。 長崎大水害 - 同じ長崎県などで1982年の同じ時期に発生した豪雨災害。 野呂邦暢 - 自宅が全壊。 役所広司 - 幼少時に被災している。 さだまさし - この災害で父の事業が失敗し、貧困生活に陥る。 岸信介 - 当時の 総理大臣 。飛行機に乗って現地を視察している。

死者 586人

行方不明者 136人

負傷者 3,860人

全壊 1,564棟

半壊 2,802棟

床上浸水 24,046棟

床下浸水 48,519棟

メディア

https://www.tbs.co.jp/tv/20240616_46B0.html

悪名高い「ギロチン」が諫早湾奥部を閉め切った国営諫早湾干拓事業、通称「諫干(いさかん)」。

かつて「宝の海」と呼ばれた有明海は、赤潮、貧酸素水塊が頻発し、漁船漁業、採貝漁業が深刻な打撃を受け、名物のノリ養殖も不安定な漁を強いられている。漁業者たちは「諫干」こそが原因であると、潮受け堤防排水門の「開門」を求め続けている。これらの有明海の異変は「諫干」が原因であることが明らかになっている。

しかし国はその因果関係を否定し続け、「開門」調査を強固に拒む。そして「開門」判決を出した司法も、「非開門」の姿勢に転じた。巨大公共事業「諫干」は誰を幸せにしたのか。その是非を問う。

漁獲高の推移

諫早湾干拓事業 - Wikipedia
人工衛星から見た干拓工事中の諫早湾( 2001年 ( 平成 13年)) 地図 諫早湾 諫早湾干拓事業 (いさはやわんかんたくじぎょう)は、 有明海 内の 諫早湾 における 干拓 事業。 諫早湾はガタ土が次々と堆積する湾で、集中豪雨や台風が来る地域であり排水不良や 諫早大水害 など 高潮 ・ 洪水 が起きやすかったため、600年以上前から対策として干拓が繰り返されてきたが、本項目では防災機能強化と農地造成のために、 1989年 ( 平成 元年)に着工した 農林水産省 による国営干拓事業 [ 1 ] [ 2 ] と、その 費用対効果 、 漁業 や 生態系 への影響を巡る論争について記載する。 有明海側から撮影した潮受け堤防と水門 赤潮と見られる、諫早湾の海水変色現象。2004年(平成16年)8月撮影。 諫早湾干拓堤防道路 有明海は 九州 西部にあり、西から 時計回り に 長崎県 、 佐賀県 、 福岡県 、 熊本県 に囲まれている。諫早湾は有明海の西部、長崎県側に位置する。 1952年 ( 昭和 27年)に 長崎県知事 西岡竹次郎 (当時)が、長崎県の平地を広げることと、 太平洋戦争 敗戦後の 食糧難 を解決するために「長崎大干拓構想」として発案した [ 3 ] 。これが諫早湾干拓事業が発案されたきっかけである。 干拓によって広大な干拓地が得られるとともに、農地の冠水被害( 塩害 )が防がれ、 農業用水 も確保されるとされた。諫早を流れる 本明川 は数年に一度の頻度で 氾濫 し、住民は 水害 に悩まされてきた [ 4 ] 。 1957年 (昭和32年)には500人以上が犠牲になる 諫早大水害 が起こっている。諫早市内には水害を防ぐために多数の 水門 が備えられており、見張り役が立って水門の開け閉めをしていたが、危険を伴う作業であった [ 4 ] 。 干潟では排水を促すために、大勢の住民が集まって人力で「ミオ筋」と呼ばれる溝掘り作業が行われていた [ 5 ] 。当初呼ばれていた南部総合開発計画では諫早湾1万1000 ヘクタール (ha)を閉め切って巨大な干拓地を造るものであったが、 金子岩三 農林大臣の干拓中止の決定にも関わらず農水省が防災目的にと決定を覆し規模を1/3に縮小して農水省が1989年(平成元年)に着工した [ 3 ] 。目的は2つに分けられ、高潮、洪水、常時排水等に対する地域の防災機能強化、 灌漑 用水が確保された大規模で平坦な優良農地の造成であるが干拓地に適した水田は減反政策のため許されなかった。新たに生じた土地は国有地となり後に長崎県農業振興公社が取得し将来的には賃借人に売り渡しとなる [ 2 ] 。潮受堤防は全長7 キロメートル (km) [ 6 ] 。 計画面積3500ha 造成面積: 約942ha(農用地等面積:約816ha、うち農地670ha [ 3 ] ) 調整池 面積:約2,600ha [ 3 ] 営農計画:露地野菜、施設野菜、 施設花卉 、 酪農 、 肉用牛 事業費:2,533億円 1989年(平成元年)より「国営諫早湾干拓事業」の工事が行われ [ 3 ] 、諫早湾奥に 潮受け堤防 が建設された。 1997年 (平成9年) 4月14日 に潮受け堤防の水門が閉じられた。干拓の工事前に漁業補償として総額279.2億円が支払われ、各 漁協 の 漁業権 は消滅(潮受堤防内8漁協)または一部放棄・制限された [ 7 ] 。 2000年 (平成12年)に有明海の 養殖 海苔 が不作となると本事業との関連が疑われ、 2002年 (平成14年)に有明海沿岸の漁業者らが、潮受け堤防の閉め切りが不漁の原因であるとして、工事中止などを求めて 佐賀地方裁判所 に提訴し [ 3 ] 、工事中止の 仮処分 申請も行った。 2004年 (平成16年)に 佐賀地方裁判所 は漁業被害との因果関係を一部認め、工事中止の仮処分も決定されたが [ 3 ] 、 2005年 (平成17年)の 福岡高等裁判所 判決では仮処分を取り消され、工事が再開された [ 3 ] [ 8 ] 。 潮受け堤防の締め切りから約10年後の 2007年 (平成19年) 11月20日 に完工式が行われた。同年 12月22日 午後5時、潮受け堤防の上に全長8.5kmの 諫早湾干拓堤防道路 が開通した。水門閉鎖により潮受け堤防内側の 調整池 は有明海から分離され 淡水化 された。調整池は農業用水源として使用された。調整池のさらに内側に内部 堤防 が築かれ、中央干拓地と小江干拓地が造成された。水の流れは干拓地の調整池から有明海への一方通行であり、調整池の水位が海面より+0.2mになると有明海への放流がなされた。潮受け堤防の締め切りにより、 高潮 の被害はなくなったことで防災効果が示された [ 4 ] [ 1 ] 。 水害の回数も減り、農民らは水害に備えて多めに 苗 を準備することを止めた [ 6 ] 。「ミオ筋」を干拓地に掘る作業も不要になった [ 5 ] 。干拓の副産物として、干陸地への花の植栽、本明川の 競技用ボート 場整備、堤防道路を生かした ウォーキング 大会や フルマラソン 構想などもあり、諫早市では地域活性化に役立てようとしている [ 6 ] 。以前は大雨のたびに 水田 は水没し家屋は床下浸水していたが、 平成30年7月豪雨 では1日に250ミリの降雨があったものの大きな被害はなかった [ 6 ] 。 潮受け堤防の水門閉鎖後、深刻な漁業被害が発生していると報じられるようになった [ 4 ] 。主な被害として、諫早湾近郊海域での 二枚貝 タイラギ の死滅、海苔の色落ちなどがあるとされ、 自然保護団体 や沿岸の各 漁業協同組合 (漁協)が反対運動を行った。原因は干潟の浄化作用が機能しなくなったためとされたが、海苔養殖業者が消毒目的に散布した酸や 化学肥料 による影響との主張もあり、海苔養殖業者同士の紛争も発生した。タイラギ貝の大量死は干拓工事開始の翌年 1990年 (平成2年)から始まり、 1993年 (平成5年)からは休漁となっている [ 9 ] 。長崎県 島原市 で タコ 漁などを営む漁民の一人は、水揚げによる年間売り上げがピーク時と比較して、 2006年 (平成18年)には1/5に低下したと訴える者もいた [ 10 ] 。これらの被害を受けて、水門を開放して再び調整池を海水化したり、水門を撤去したりするよう要求する運動が高まった。 潮受け堤防の開門を求めているのは、有明海海域に面した4県の漁業関係者を中心にしたグループであった。自治体として開門を求めたのは 佐賀県庁 や 佐賀市役所 などがある [ 11 ] 。ただし福岡県と熊本県の漁協は、2017年(平成29年)に提案された国による100億円基金(後述)に同意しており、開門しないという国の方針に既に同意している [ 12 ] 。佐賀県有明海漁協は内部に一部開門派を抱え開門派であったが、2018年(平成30年)5月に「争いを続けるよりも、基金で有明海の漁業再生に動くべきだ」として基金案に同意した [ 12 ] 。同年時点は、開門を求める裁判で原告団になっているのは、主に長崎県

環境省での調査や、NPO法人有明海再生機構、西海区水産研究所、農水省統計などによる有明海の環境調査では、「有明海のうち、諫早湾及びその近傍部を除く海域については、本事業と環境変化の関係を認めることができない」という調査結果が出された

環境モニタリングでは、潮受け堤防の締め切り後に、諫早湾内の魚卵や仔稚魚の出現数が減少した結果は見られなかった[9]。また、10種類の魚類について生態・生息分布・漁獲量の推移等を個別に調査・検討されたが、潮受け堤防の締め切り後に漁獲資源量が減少した事実もなかった[9]。もともと有明海では、1987年頃より漁獲高は減少傾向にあったが、干拓事業の開始された時期に漁獲高がさらに急激に減少した事実は調査の結果確認されなかった

海苔

1989年から2007年まで、有明海の海苔の生産高は上昇基調である[40][55]。特に有明海の佐賀県沿岸での海苔の生産は、18年間で倍増している

海苔の色落ちや不作の主な原因となっているのは赤潮による栄養塩濃度の急激な低下や秋の水温上昇であり[55]、それらは諫早湾干拓事業との関連性は指摘できなかった

タイラギ

タイラギについては工事開始時期に諫早湾周辺で漁獲高が激減した[9]。ただし諫早湾周辺で減少が始まったのは、工事に着手する以前の1970年代後半からであった

アサリ

諫早湾近傍で漁獲高が減少している。長崎県や国は、アサリの「へい死」の原因を赤潮と貧酸素水塊であるとしているが[56]、堤防に近いほど漁獲量が減少していることから、漁業関係者の中には水門から排出される調整池の水が原因ではないかと疑う声もある

水門から調節池の水が排出される以前よりアサリのへい死が認められていることを指摘した[56]。有明海全体のアサリの生産量は、1989年から2007年までの期間で変化は認められなかった

開門調査

諫早湾干拓事業 - Wikipedia
人工衛星から見た干拓工事中の諫早湾( 2001年 ( 平成 13年)) 地図 諫早湾 諫早湾干拓事業 (いさはやわんかんたくじぎょう)は、 有明海 内の 諫早湾 における 干拓 事業。 諫早湾はガタ土が次々と堆積する湾で、集中豪雨や台風が来る地域であり排水不良や 諫早大水害 など 高潮 ・ 洪水 が起きやすかったため、600年以上前から対策として干拓が繰り返されてきたが、本項目では防災機能強化と農地造成のために、 1989年 ( 平成 元年)に着工した 農林水産省 による国営干拓事業 [ 1 ] [ 2 ] と、その 費用対効果 、 漁業 や 生態系 への影響を巡る論争について記載する。 有明海側から撮影した潮受け堤防と水門 赤潮と見られる、諫早湾の海水変色現象。2004年(平成16年)8月撮影。 諫早湾干拓堤防道路 有明海は 九州 西部にあり、西から 時計回り に 長崎県 、 佐賀県 、 福岡県 、 熊本県 に囲まれている。諫早湾は有明海の西部、長崎県側に位置する。 1952年 ( 昭和 27年)に 長崎県知事 西岡竹次郎 (当時)が、長崎県の平地を広げることと、 太平洋戦争 敗戦後の 食糧難 を解決するために「長崎大干拓構想」として発案した [ 3 ] 。これが諫早湾干拓事業が発案されたきっかけである。 干拓によって広大な干拓地が得られるとともに、農地の冠水被害( 塩害 )が防がれ、 農業用水 も確保されるとされた。諫早を流れる 本明川 は数年に一度の頻度で 氾濫 し、住民は 水害 に悩まされてきた [ 4 ] 。 1957年 (昭和32年)には500人以上が犠牲になる 諫早大水害 が起こっている。諫早市内には水害を防ぐために多数の 水門 が備えられており、見張り役が立って水門の開け閉めをしていたが、危険を伴う作業であった [ 4 ] 。 干潟では排水を促すために、大勢の住民が集まって人力で「ミオ筋」と呼ばれる溝掘り作業が行われていた [ 5 ] 。当初呼ばれていた南部総合開発計画では諫早湾1万1000 ヘクタール (ha)を閉め切って巨大な干拓地を造るものであったが、 金子岩三 農林大臣の干拓中止の決定にも関わらず農水省が防災目的にと決定を覆し規模を1/3に縮小して農水省が1989年(平成元年)に着工した [ 3 ] 。目的は2つに分けられ、高潮、洪水、常時排水等に対する地域の防災機能強化、 灌漑 用水が確保された大規模で平坦な優良農地の造成であるが干拓地に適した水田は減反政策のため許されなかった。新たに生じた土地は国有地となり後に長崎県農業振興公社が取得し将来的には賃借人に売り渡しとなる [ 2 ] 。潮受堤防は全長7 キロメートル (km) [ 6 ] 。 計画面積3500ha 造成面積: 約942ha(農用地等面積:約816ha、うち農地670ha [ 3 ] ) 調整池 面積:約2,600ha [ 3 ] 営農計画:露地野菜、施設野菜、 施設花卉 、 酪農 、 肉用牛 事業費:2,533億円 1989年(平成元年)より「国営諫早湾干拓事業」の工事が行われ [ 3 ] 、諫早湾奥に 潮受け堤防 が建設された。 1997年 (平成9年) 4月14日 に潮受け堤防の水門が閉じられた。干拓の工事前に漁業補償として総額279.2億円が支払われ、各 漁協 の 漁業権 は消滅(潮受堤防内8漁協)または一部放棄・制限された [ 7 ] 。 2000年 (平成12年)に有明海の 養殖 海苔 が不作となると本事業との関連が疑われ、 2002年 (平成14年)に有明海沿岸の漁業者らが、潮受け堤防の閉め切りが不漁の原因であるとして、工事中止などを求めて 佐賀地方裁判所 に提訴し [ 3 ] 、工事中止の 仮処分 申請も行った。 2004年 (平成16年)に 佐賀地方裁判所 は漁業被害との因果関係を一部認め、工事中止の仮処分も決定されたが [ 3 ] 、 2005年 (平成17年)の 福岡高等裁判所 判決では仮処分を取り消され、工事が再開された [ 3 ] [ 8 ] 。 潮受け堤防の締め切りから約10年後の 2007年 (平成19年) 11月20日 に完工式が行われた。同年 12月22日 午後5時、潮受け堤防の上に全長8.5kmの 諫早湾干拓堤防道路 が開通した。水門閉鎖により潮受け堤防内側の 調整池 は有明海から分離され 淡水化 された。調整池は農業用水源として使用された。調整池のさらに内側に内部 堤防 が築かれ、中央干拓地と小江干拓地が造成された。水の流れは干拓地の調整池から有明海への一方通行であり、調整池の水位が海面より+0.2mになると有明海への放流がなされた。潮受け堤防の締め切りにより、 高潮 の被害はなくなったことで防災効果が示された [ 4 ] [ 1 ] 。 水害の回数も減り、農民らは水害に備えて多めに 苗 を準備することを止めた [ 6 ] 。「ミオ筋」を干拓地に掘る作業も不要になった [ 5 ] 。干拓の副産物として、干陸地への花の植栽、本明川の 競技用ボート 場整備、堤防道路を生かした ウォーキング 大会や フルマラソン 構想などもあり、諫早市では地域活性化に役立てようとしている [ 6 ] 。以前は大雨のたびに 水田 は水没し家屋は床下浸水していたが、 平成30年7月豪雨 では1日に250ミリの降雨があったものの大きな被害はなかった [ 6 ] 。 潮受け堤防の水門閉鎖後、深刻な漁業被害が発生していると報じられるようになった [ 4 ] 。主な被害として、諫早湾近郊海域での 二枚貝 タイラギ の死滅、海苔の色落ちなどがあるとされ、 自然保護団体 や沿岸の各 漁業協同組合 (漁協)が反対運動を行った。原因は干潟の浄化作用が機能しなくなったためとされたが、海苔養殖業者が消毒目的に散布した酸や 化学肥料 による影響との主張もあり、海苔養殖業者同士の紛争も発生した。タイラギ貝の大量死は干拓工事開始の翌年 1990年 (平成2年)から始まり、 1993年 (平成5年)からは休漁となっている [ 9 ] 。長崎県 島原市 で タコ 漁などを営む漁民の一人は、水揚げによる年間売り上げがピーク時と比較して、 2006年 (平成18年)には1/5に低下したと訴える者もいた [ 10 ] 。これらの被害を受けて、水門を開放して再び調整池を海水化したり、水門を撤去したりするよう要求する運動が高まった。 潮受け堤防の開門を求めているのは、有明海海域に面した4県の漁業関係者を中心にしたグループであった。自治体として開門を求めたのは 佐賀県庁 や 佐賀市役所 などがある [ 11 ] 。ただし福岡県と熊本県の漁協は、2017年(平成29年)に提案された国による100億円基金(後述)に同意しており、開門しないという国の方針に既に同意している [ 12 ] 。佐賀県有明海漁協は内部に一部開門派を抱え開門派であったが、2018年(平成30年)5月に「争いを続けるよりも、基金で有明海の漁業再生に動くべきだ」として基金案に同意した [ 12 ] 。同年時点は、開門を求める裁判で原告団になっているのは、主に長崎県

これらの反対運動を受けて、2001年に武部勤農林水産大臣(当時)は干拓事業の抜本的な見直しを表明し、2002年4月から28日間の短期間に堤防を開門し[14]、その前後の合計8か月間にわたって環境調査が行われた

開門によって調整池の淡水魚が死滅しただけで、有明海の環境の改善は認められなかった

これに対して、短期の開門調査では「有明海の海洋環境の影響は検証できない」という意見もあった[14]。2006年に農水省は「今後は開門調査は行わない」との方針を表明した[14][16]。当時の農林水産大臣は、中・長期の調査を行わない理由として、開門によって海底のヘドロによって漁業被害が発生することが懸念され、その対策に600億円以上の多額の費用が必要とされ、代替となる他の方法で開門の影響を検討することになったと説明している

2013年9月9日に国有地で農水省が開門調査のために工事を実施しようとしたところ、長崎県選出国会議員や県議、諫早市議らを含む住民ら約350人が集結してこれを阻止した[9]。9月27日、10月28日にも開門に反対する地区住民のべ1700人に阻止され[37]、工事ができない事態となった

諫早湾干拓事業

諫早湾干拓事業 - Wikipedia
人工衛星から見た干拓工事中の諫早湾( 2001年 ( 平成 13年)) 地図 諫早湾 諫早湾干拓事業 (いさはやわんかんたくじぎょう)は、 有明海 内の 諫早湾 における 干拓 事業。 諫早湾はガタ土が次々と堆積する湾で、集中豪雨や台風が来る地域であり排水不良や 諫早大水害 など 高潮 ・ 洪水 が起きやすかったため、600年以上前から対策として干拓が繰り返されてきたが、本項目では防災機能強化と農地造成のために、 1989年 ( 平成 元年)に着工した 農林水産省 による国営干拓事業 [ 1 ] [ 2 ] と、その 費用対効果 、 漁業 や 生態系 への影響を巡る論争について記載する。 有明海側から撮影した潮受け堤防と水門 赤潮と見られる、諫早湾の海水変色現象。2004年(平成16年)8月撮影。 諫早湾干拓堤防道路 有明海は 九州 西部にあり、西から 時計回り に 長崎県 、 佐賀県 、 福岡県 、 熊本県 に囲まれている。諫早湾は有明海の西部、長崎県側に位置する。 1952年 ( 昭和 27年)に 長崎県知事 西岡竹次郎 (当時)が、長崎県の平地を広げることと、 太平洋戦争 敗戦後の 食糧難 を解決するために「長崎大干拓構想」として発案した [ 3 ] 。これが諫早湾干拓事業が発案されたきっかけである。 干拓によって広大な干拓地が得られるとともに、農地の冠水被害( 塩害 )が防がれ、 農業用水 も確保されるとされた。諫早を流れる 本明川 は数年に一度の頻度で 氾濫 し、住民は 水害 に悩まされてきた [ 4 ] 。 1957年 (昭和32年)には500人以上が犠牲になる 諫早大水害 が起こっている。諫早市内には水害を防ぐために多数の 水門 が備えられており、見張り役が立って水門の開け閉めをしていたが、危険を伴う作業であった [ 4 ] 。 干潟では排水を促すために、大勢の住民が集まって人力で「ミオ筋」と呼ばれる溝掘り作業が行われていた [ 5 ] 。当初呼ばれていた南部総合開発計画では諫早湾1万1000 ヘクタール (ha)を閉め切って巨大な干拓地を造るものであったが、 金子岩三 農林大臣の干拓中止の決定にも関わらず農水省が防災目的にと決定を覆し規模を1/3に縮小して農水省が1989年(平成元年)に着工した [ 3 ] 。目的は2つに分けられ、高潮、洪水、常時排水等に対する地域の防災機能強化、 灌漑 用水が確保された大規模で平坦な優良農地の造成であるが干拓地に適した水田は減反政策のため許されなかった。新たに生じた土地は国有地となり後に長崎県農業振興公社が取得し将来的には賃借人に売り渡しとなる [ 2 ] 。潮受堤防は全長7 キロメートル (km) [ 6 ] 。 計画面積3500ha 造成面積: 約942ha(農用地等面積:約816ha、うち農地670ha [ 3 ] ) 調整池 面積:約2,600ha [ 3 ] 営農計画:露地野菜、施設野菜、 施設花卉 、 酪農 、 肉用牛 事業費:2,533億円 1989年(平成元年)より「国営諫早湾干拓事業」の工事が行われ [ 3 ] 、諫早湾奥に 潮受け堤防 が建設された。 1997年 (平成9年) 4月14日 に潮受け堤防の水門が閉じられた。干拓の工事前に漁業補償として総額279.2億円が支払われ、各 漁協 の 漁業権 は消滅(潮受堤防内8漁協)または一部放棄・制限された [ 7 ] 。 2000年 (平成12年)に有明海の 養殖 海苔 が不作となると本事業との関連が疑われ、 2002年 (平成14年)に有明海沿岸の漁業者らが、潮受け堤防の閉め切りが不漁の原因であるとして、工事中止などを求めて 佐賀地方裁判所 に提訴し [ 3 ] 、工事中止の 仮処分 申請も行った。 2004年 (平成16年)に 佐賀地方裁判所 は漁業被害との因果関係を一部認め、工事中止の仮処分も決定されたが [ 3 ] 、 2005年 (平成17年)の 福岡高等裁判所 判決では仮処分を取り消され、工事が再開された [ 3 ] [ 8 ] 。 潮受け堤防の締め切りから約10年後の 2007年 (平成19年) 11月20日 に完工式が行われた。同年 12月22日 午後5時、潮受け堤防の上に全長8.5kmの 諫早湾干拓堤防道路 が開通した。水門閉鎖により潮受け堤防内側の 調整池 は有明海から分離され 淡水化 された。調整池は農業用水源として使用された。調整池のさらに内側に内部 堤防 が築かれ、中央干拓地と小江干拓地が造成された。水の流れは干拓地の調整池から有明海への一方通行であり、調整池の水位が海面より+0.2mになると有明海への放流がなされた。潮受け堤防の締め切りにより、 高潮 の被害はなくなったことで防災効果が示された [ 4 ] [ 1 ] 。 水害の回数も減り、農民らは水害に備えて多めに 苗 を準備することを止めた [ 6 ] 。「ミオ筋」を干拓地に掘る作業も不要になった [ 5 ] 。干拓の副産物として、干陸地への花の植栽、本明川の 競技用ボート 場整備、堤防道路を生かした ウォーキング 大会や フルマラソン 構想などもあり、諫早市では地域活性化に役立てようとしている [ 6 ] 。以前は大雨のたびに 水田 は水没し家屋は床下浸水していたが、 平成30年7月豪雨 では1日に250ミリの降雨があったものの大きな被害はなかった [ 6 ] 。 潮受け堤防の水門閉鎖後、深刻な漁業被害が発生していると報じられるようになった [ 4 ] 。主な被害として、諫早湾近郊海域での 二枚貝 タイラギ の死滅、海苔の色落ちなどがあるとされ、 自然保護団体 や沿岸の各 漁業協同組合 (漁協)が反対運動を行った。原因は干潟の浄化作用が機能しなくなったためとされたが、海苔養殖業者が消毒目的に散布した酸や 化学肥料 による影響との主張もあり、海苔養殖業者同士の紛争も発生した。タイラギ貝の大量死は干拓工事開始の翌年 1990年 (平成2年)から始まり、 1993年 (平成5年)からは休漁となっている [ 9 ] 。長崎県 島原市 で タコ 漁などを営む漁民の一人は、水揚げによる年間売り上げがピーク時と比較して、 2006年 (平成18年)には1/5に低下したと訴える者もいた [ 10 ] 。これらの被害を受けて、水門を開放して再び調整池を海水化したり、水門を撤去したりするよう要求する運動が高まった。 潮受け堤防の開門を求めているのは、有明海海域に面した4県の漁業関係者を中心にしたグループであった。自治体として開門を求めたのは 佐賀県庁 や 佐賀市役所 などがある [ 11 ] 。ただし福岡県と熊本県の漁協は、2017年(平成29年)に提案された国による100億円基金(後述)に同意しており、開門しないという国の方針に既に同意している [ 12 ] 。佐賀県有明海漁協は内部に一部開門派を抱え開門派であったが、2018年(平成30年)5月に「争いを続けるよりも、基金で有明海の漁業再生に動くべきだ」として基金案に同意した [ 12 ] 。同年時点は、開門を求める裁判で原告団になっているのは、主に長崎県

諫早湾はガタ土が次々と堆積する湾で、集中豪雨や台風が来る地域であり排水不良や諫早大水害など高潮・洪水が起きやすかったため、600年以上前から対策として干拓が繰り返されてきた

農林水産省による国営干拓事業

諫早を流れる本明川は数年に1度の頻度で氾濫し、住民は水害に悩まされてきた[4]。1957年には500人以上が犠牲になる諫早大水害が起こっている。

以前は大雨のたびに水田は水没し家屋は床下浸水していたが、平成30年7月豪雨では1日に250ミリの降雨があったものの大きな被害はなかった

福岡高裁の判決を受けて、国は開門に向けての準備を始める。2011年(平成23年)1月23日、当時の農林水産大臣と農林水産副大臣が長崎県を訪問して地元関係者と意見交換を行った

堤防の治水機能の重要性を指摘する地元住民や営農者は開門に反対であった。

対策工事の予定地は、開門反対派である民有地や県有地(長崎県と諫早市も開門に反対)が多く、それらの場所については着工する目処が立たず、開門に向けた対策工事は実施不可能となった

開門判決から5年経過した2015年9月の段階でも、開門に必要な工事は地元住民の反対運動に阻まれて全く着手できなかった

諫早市長の宮本明雄は「開門調査は百害あって一利なし」と述べ、開門に向けての調査は工事は一切認めない考えを示した[16]。また農水省が開門を求める裁判にも地元住民の証言を認めないなど、干拓に対する政府の態度に変化が生じている点を指摘し、「民主党政権になってから諫早湾干拓事業は地元の意見を置き去りにして「無駄な公共事業」の象徴にされてしまった」と述べた

いったんは「水門を開けろ」と判決を下した福岡高裁は逆に、2015年9月の長崎地裁の上告審判決では「漁業被害と、開門しないこととの間に因果関係は認められない」として開門を求める漁業関係者の請求を退けた

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参加日: 2020年12月