新作に対して細田守単独脚本を不安視する意見があるが、興収を見ると単独脚本体制をやめる理由は制作側に存在しないとid:kanose氏が指摘していた。
レビューなどで脚本がボロクソに言われている『竜とそばかすの姫』が細田守作品の興行収入トップという時点で、細田守氏自身が脚本を降りた方がいいと思う訳ないよね。ヒットした理由を誰もまともに分析できてないんだし
— 加野瀬未友 (@kanose) 2025年9月7日
レビューなどで脚本がボロクソに言われている『竜とそばかすの姫』が細田守作品の興行収入トップという時点で、細田守氏自身が脚本を降りた方がいいと思う訳ないよね。ヒットした理由を誰もまともに分析できてないんだし
細田作品の興行収入の話をする奴は『時をかける少女』や『サマーウォーズ』は興行収入が低いから駄作だと思っているんだろうという非常にオモシロな発言を見かけて笑ってしまった。これだけ商業的成功をおさめているのに、関係者が脚本を変える必要を感じないよねって話なのに
もちろん観客としては興収だけが作品の価値をはかる基準ではない。たとえ興収が落ちても自分好みの作品をつくってほしいという要求であっても、強要する権利はないが主張する自由はある。
しかし、そこで別脚本家をつかったことで傑作となった実例として『サマーウォーズ』が提示されがちなことには、それを駄作としか思えないひとりの観客としては納得がいかない。
その奥寺佐渡子脚本の実写映画『国宝』が大ヒットしていることも、ことさら『サマーウォーズ』が肯定的に言及されて比較されている一因のようだ。
細田守作品の脚本批判がやたら目立つ背景には、 「時かけ」や「サマーウォーズ」で脚本を手がけた奥寺佐渡子さんが、今は『国宝』で注目されてる…って対比も効いてるみたい。(*゚ロ゚)
悪質なまとめサイトなのでリンクはしないが、「細田守に追い出された」などと対立的に煽っている記事のタイトルにも『サマーウォーズ』が登場していた。共同脚本の『おおかみこどもの雨と雪』は削られていたが。
しかし『サマーウォーズ』は何度か作画目的で映像ソフトで視聴しているが、中編作品『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』*1の実質的な長編化リメイクでありつつ、うすく引きのばつつ欠点ばかりふくらませたという印象しかない*2。
たとえば『サマーウォーズ』で感動的な名場面とされつつ同時に批判も集中している祖母の電話攻勢について、そのような応援が負担にも支援にもなる多義性を『ウォーゲーム』ではしっかり描けていた。
『サマーウォーズ』で応援の電話をかけまくる場面が、ただの迷惑に見えてしまう問題について - 法華狼の日記
つまり、細田守監督は応援が現場の負担になりうることを知っている。しかしリメイク作品で応援を肯定的にのみ位置づけようとして、現場の負担を隠すという選択をしてしまった。そして奇跡を生む応援をクライマックスで別個に用意することで、電話の描写を宙ぶらりんにしてしまった。
『ウォーゲーム』のメールは戦闘のかけひきにもかかわる重要な小道具だった。一方で電話攻勢は、直前に電話ではげまされる必要があるほど人々が沈んでいる描写があるわけでもない。物語を動かす描写としての必要性がない、まさに絵になるから入れただけの描写になっていた。
『サマーウォーズ』は田舎の大家族を描こうとする企画そのものが物語の制御を失敗させたのではないかとも思っている。『ウォーゲーム』では元となるシリーズ作品の多すぎるメインキャラクターを意図的に合流させず点描で見せたことと対照的だ。
『サマーウォーズ』で最も不要なキャラクターは誰か - 法華狼の日記
リメイク元と目されている映画『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』は、8人もいる主要キャラクターを整理し、4人だけ事件に直接かかわるように脚本構成したことで、物語の密度を高めつつ状況をわかりやすく描写することができた。比べて『サマーウォーズ』の構成は全く整理ができていない。
そして『竜とそばかすの姫』も最近に見るまでは、自己模倣をかさねてさらに劣化しそうな懸念をもっていた。
しかし『ウォーゲーム』のように登場人物をしぼることで複雑な内容のわりには見やすく、物語構成は悪くないと感じられた。
『竜とそばかすの姫』 - 法華狼の日記
物語にしても、やはり設定などで自己模倣になるかと思ったが、『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』を薄く引きのばして成功失敗を多数のキャラクターごとにふりわけて不快感へのフォローが消えた『サマーウォーズ』よりずっと良かった。多人数にフォーカスを当てることが実はうまくない細田監督が、群衆のなかで孤立する個人個人にフォーカスを当てることで、複雑なストーリーラインをうまくさばいている。
よく批判されている終盤の主人公の選択と、それを後押しする周囲の大人の描写には引っかかりをおぼえたが、そこで問題なのは脚本の整合性よりも勢いのなさが大きいと思った。
主人公が現実でも竜を助けにいく展開は、話の勢いが止まってしまった問題がある。主人公は仮想現実をとおして救済するだけで、現実での救済は短く省略しても良かっただろう。おそらく、もっと利口な対処もできただろうという批判もできるが、そこは主人公たちが考えをめぐらす時間がないことを思えば致命的な問題ではない。どちらかといえば物語にも映像にも勢いがないため、観客が冷静になってツッコミどころを感じてしまうことが失敗だ。
同じように主人公の移動方法が合理的でなくても、『時をかける少女』では走りつづける横顔を脅威の1カット長回しで描写しつづけ、荒々しい呼吸とともに観客に印象づけた。主人公個人の会いたい心情が動機だったので、危地にある他者によりそいたい動機とは求められる合理性が異なることもたしかだが、やはり印象をわけた要因は演出だろう。
ちなみに社会福祉制度を信用していないという批判もあったが、id:MJWR9620氏によると細田自身のノベライズでは観客に誤認されがちな「48時間」などは正確な説明がされているという*3。これは『サマーウォーズ』電話攻勢が実質的に負担になると知りつつ無視したことと似ている問題ではあるかもしれないが、脚本段階の考証とは異なる問題だ。
奥寺と共同脚本の『おおかみこどもの雨と雪』も社会への不信感があると解釈されてきたように、細田単独脚本ゆえの問題ではないだろう。吉田玲子脚本の『ウォーゲーム』で主人公の戦闘を視聴する子供たちも善意であれ悪意であれ無責任だった。
細田は社会という他者を信用せず敵視しているというより、良くも悪くも無責任な群集と位置づけているのではないかと思っている。その結果として、当時は美化や悪魔化がされがちだったインターネットを『ウォーゲーム』でバランスよく描けたということかもしれない。
その意味では、マナーに反している竜を敵視して追いかける集団を、それもまた現実のネット自警団のように傍迷惑でもある存在として位置づけたことで、『竜とそばかすの姫』はそれなりに現代的なSNSを描けていると思った。
そもそもアニメ制作において脚本は制作過程のひとつであり、絵コンテ段階で改変することも過去には珍しくなかった。
細田守も、脚本にクレジットされず、本職の脚本家が単独クレジットされていた時代から物語に改変をくわえていたことがインタビューなどから明らかにされている
たとえばTVアニメ『少女革命ウテナ』において細田守が演出段階で物語を変えた時、その回の脚本家のクレジットが偽名に変更され、一時期は細田守脚本回と受けとめられていたこともあった。
Wikipediaで脚本家「白井千秋」の正体が細田守監督と誤認されていた話 - 法華狼の日記
実写映画であっても、オリジナルストーリーの作者でもないかぎり、脚本家が単独で脚本を完成させることは少ないだろう。監督などと意見を交換しながら何度も脚本を書き直すことが通例なはずだ*4。
つまりクレジットされている脚本家の名前と、最終的に完成したアニメ作品の内容が、どこまで関連しているかは、情報をもたない観客は推測するしかない*5。
他の脚本家を入れていないことはブラッシュアップしていく過程を減らした可能性などは想像できるものの、現在の細田作品の不評が脚本過程と直結しているとは感じられない。
オリジナル作品『未来とミライ』などは、視聴した時にむしろ過去の物語への批判を受けとめて問題を減らしていると感じたし、そこでの娯楽としての弱さはマイナスのなさよりもプラスのなさに原因があると思った。
『未来のミライ』 - 法華狼の日記
おかげで過去作で批判されたような性別役割観は目立たないが、しかし批判されて修正しただけでは観客の予想を超えた夢を……それが悪夢でも……見せることはできない。タイトルに反して「未来」を感じさせるものはそこにない。ただ観察された現在の苦しみがあるだけ。
映像ソフトで再視聴しても上記の印象は変わらなかったが、幼児の動作をひたすら観察してアニメーション化する起伏の少なさは外国のアートアニメ系長編のようだとも思ったし、それはコンセプトから導かれた結果だと思った。
『おおかみこどもの雨と雪』以降の作品が娯楽らしい爽快感に欠けるとしたら、それはもりあがりを作れない脚本の稚拙さというより、そもそも爽快な物語になりづらい企画に原因がありそうな気がする。
*1:以下、『ウォーゲーム』。
*2:当時は実質的リメイクとして期待したからこそ落胆したような批判は少なくなかった。 物語が逆なでするもの - 法華狼の日記
*3:細田守監督作品『竜とそばかすの姫』で「48時間ルール」を誤認する人が少なくない理由と現実世界の問題 - Junk-weed’s blog
*4:荒井晴彦のように映像化における描写の変更をいっさい認めない脚本家もいるが、同時に自身は別の脚本家の脚本を改変したりもしている。
*5:そのため一視聴者でしかない私は日記の感想で脚本家を記録しても、感想自体では原則として「脚本」の良し悪しではなく「物語」の良し悪しと表現している。