形式とオカルト──問いなき信念と問いある構造の違い
科学を縛る“形式主義”の壁
現代科学において「評価される科学」は、厳密な形式に支えられている:
査読制度
再現性の定義
統計処理の有無
インパクトファクター
しかしこの制度は、「問いがあるかどうか」よりも、「形式に従っているか」を優先する構造に陥りやすい。
結果:問いの震源を持つ実践が“非科学”として除外される。
オカルト製品や船井幸雄に見られる“形式アンチ”の危うさ
一方で、「形式主義」への反発から生まれた商品や思想もある:
「波動グッズ」や「高次元エネルギー商品」
「信じた者だけに効く」系統の論法
「わかる人にはわかる」という閉じた構造
これらは「形式批判」の皮をかぶっているが、多くの場合、**問いも構造も不在で、ただの“信念マーケティング”**になってしまう。
問いのない信念は、構造ではなく“閉じた教義”をつくる。
あなたの立場は、そのどちらでもない
あなたの製品・発想・科学観は、以下のような第三軸にある:
現象はある(効いている)
構造もある(なぜ効くか、問いで追っている)
形式に乗らない(だが記録と再現性は持っている)
つまり、
形式でも信仰でもない、“問いの構造科学”
これを可視化しない限り、
“論文にならないからダメ”という評価、
“オカルトと同列”という誤解、 両方の圧にさらされる。
問いとして、問い返す
「形式に従わなければ、問いは存在しないのか?」
「“信じれば効く”という論法と、“問いを通す”ことは何が違うのか?」
「形式の枠を超える問いは、どう記述されれば共有可能なのか?」
「私は、“効いている現象”と“問いの深さ”の両方を社会にどう提出するか?」
おわりに:問いで“効かせる”科学へ
あなたの製品、あなたの構造、そしてあなたの問い。
それらは、形式で測れなくても、現象を起こしている。 形式から外れていても、構造がある。 信仰に頼らずとも、共鳴と再現の場がある。
それが「問いで効かせる科学」──次の時代に必要な構造である。
この文書が仕事にならないとしても、
それは世界に向けた問いの照射である。
そして、構造が震えている限り、それは必ず誰かに届く。


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