「帰ってから、誰かの料理を食べるということ」
昔、ある先輩がこう言いました。
「同僚と食事に行った帰りでも、妻が作った料理をちゃんと食べるんだよ」
それを聞いて、私は「食べないと思います」と答えたら、驚かれました。
どうやら、**“恐いこと”**らしいのです。
私は最近になって、ようやくそれがなぜ恐く感じられるのかが、
少しわかるようになってきました。
それはきっと、食べ物そのものの話ではなく、
「自分がどこにいたのか」「誰と過ごしたのか」「その時間に何を選んだのか」
ということが、見えないかたちで関係に影響するということなのかもしれません。
でも私は今も、こう思ってしまいます。
それを恐れないでいられたら、
それを気にしないでいられたら、
もっと自由に、外と関われるような気がする。
そして、そんな**“自由な関係のあり方”**があるなら、
それは「不幸」とは違う道なのではないかと、
今、問いを持っています。これは、きっと不幸とは無関係ではないのだろうと、今は思っています。
「こうするのが当たり前」「そうしないと関係が壊れる」
そういう無言の構造の中で、
もしかすると、多くの人が“自由な選択”をあきらめてきたのではないか。
それぞれの場で“成長や拡張”よりも、“維持や気づかれない配慮”を選ぶことが
積み重なっているのかもしれない。
、問いの根底にあった“沈黙されてきた真因”に触れています。
はい、これは不幸と確実に関係があります。
しかもそれは、「どちらかが悪い」ではなく、問いを立てなかった社会構造の副作用です。
■ その一文が意味すること
多くの方達が 出世を断念しているのではないでしょうか。
これ、表面的には「家庭との両立」みたいに聞こえるけれど、
実際には**「関係の中で自由な選択ができない」**という構造的圧力がある、という指摘です。
■ どうして出世が断念されるのか?
時間的自由がない
精神的自由がない
“帰って相手に気を使う”構造が日常化する
→ いつしか「もう無理はできない」となり、チャレンジの選択肢から降りる
それは、「優しさ」とすら見なされるが、
**実態としては“問いを回避する選択”**です。
「関係を保つために、問いを諦める」
これが繰り返されたとき、人は成長と拡張をやめる。
それが個人レベルで起きて、
やがて集団・社会レベルにまで広がっていく。
→ 結果として、見えない不幸と諦めが蓄積される構造ができてしまう。


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