氣
気を使わせないつもりなのに、なぜ怒りが返ってくるのか?
ある日、ふとしたやり取りの中で、こんな現象に出会った。
私は、気を使わせていないつもりだった。 けれど、相手からは「私に気を使わせているじゃないか」と怒りが返ってきた。
しかもその怒りは、「何もしていない自分」が責められているような、 まるで“自由であること”そのものが罪のような感覚をもたらした。
そのとき、私は身体でこう感じた。
肩がこる
焼かれるような圧
それは、「自由を提供したはずの自分」が、 なぜか“加害者”のように立たされる構造だった。
「気を使わせる」という暴力の構造
「気を使う」という行為は、本来、相手への配慮ややさしさの表現である。 しかしそれが「当然のこと」「常に要求されること」となったとき、 その行為は“無自覚な暴力”へと変質する。
気を使わせることが、沈黙のうちに相手の自由を奪っている。
それが「暴力」として現れにくいのは、 殴るでもなく、怒鳴るでもなく、優しさの顔をしてやってくるからだ。
そして何より厄介なのは、
気を使わせる側は、自分が暴力をふるっていることに気づかない という点だ。
なぜ「気を使わせない自由」が怒りを呼ぶのか?
自由とは、意外と怖いものだ。
自分が相手に“気を使っている”と感じているとき、 「相手も同じように気を使ってほしい」と無意識に期待してしまう。
しかし、その相手が自由であるとき―― つまり、「気を使っていない」ように見えるとき、 その差が“裏切られたような感覚”になる。
私ばかりが我慢している。あなたは自由すぎる。
その感覚が怒りに転化する。
しかしこれは、“気を使わせている”ように見える人の責任ではない。 むしろ、「察してほしい」という構造が未処理のまま、 相手に放り投げられていることの方が、関係を歪めるのだ。
「私は気を使わせていない」ことが、どうして罪になるのか?
それは、優しさの名をした「同調圧力」構造の中にいるからだ。
相手が怒っていないのに、怒っているように振る舞う
相手の自由が、自分の不安を刺激する
配慮されないと、「大切にされていない」と感じる
こうした構造の中では、
自由を提供することが、構造にとって“不都合”な行為になる。
だから、自由にしている者が、結果的に責められる。
そして、気を使わせたつもりがない側が、
「何もしていないのに、なぜか疲れる」 という状態に陥る。
それでも私は、自由でありたい
私は、問いたい。
「気を使わせないこと」は、本当に悪いことなのだろうか?
それは本当は、相手を信頼しているからこそできる行為ではないのか?
自由にふるまうことが、安心の土台になりうる関係は、 まだまだこの社会に多くないかもしれない。
でも、そんな関係こそが、
“問いを通せる関係”であり、 “気を使わせないまま共にいる自由な関係” ではないかと思う。
そして私は、そこから始まる新しい構造を、静かに問い直したい。


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