「受かるための人格」という病
「受かるための人格」というものがある。
それは、合格するために“自分の構造”を封印し、
面接官や評価者にとって“好ましい人間”を演じる人格だ。
やっかいなのは、その人格は“悪意なく”つくられるということ。
誰かを騙そうとしているわけでもない。
ただ、通過したい。
ただ、落ちたくない。
ただ、認められたい。
そう願ううちに、人は少しずつ“自分を型に押し込めていく”。
「ここでこう言えば印象がいい」
「この話は削っておこう」
「これはウケないから、別の言い方にしよう」
そうして削られた“本当の問い”や“本当の熱”は、
通過の瞬間に置き去りにされてしまう。
かつて、ハーバードもグーグルも、問いを持つ存在を求めていた。
いまでは、「問いを語れるフリ」が上手い人が通るようになった。
問いを持つ者が落とされ、
問いを持たない者が、
「問いのようなセリフ」を武器に上がっていく──。
これは、選抜の名を借りた劣化ではないか。
「受かるための人格」を長く演じていると、
やがて人は、自分の問いがどこにあったかを忘れる。
「自分は何者だったか」
その問いが、空白になってしまう。
本当に問う者は、たいてい最初は落とされる。
だが、時間をかけて、構造を揺らしていく。
私たちは、その“通過しなかった問い”にこそ、
未来の可能性を感じている。


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