第36話,第37話 プールデート、あるいは視線を奪う人魚
雪城冬花謹製『完璧なる夏休み計画書』が施行されてから、一週間が過ぎた。
俺の生活は、激変した。
毎朝、彼女の正確無比なモーニングコールで叩き起こされ、まだ眠い目をこすりながら近所の公園をジョギングする。帰宅すれば、栄養バランスが完璧に計算された朝食が待っており(彼女が俺の家のキッチンを半ば占領して作る)、その後は地獄の午前学習。
午後は、彼女が立てた計画に沿って図書館で調べものをしたり、美術館に足を運んだり。夕方には、これまた彼女が考案した、効率的すぎる筋力トレーニング。
俺の愛した、自堕落で自由な時間は、跡形もなく消え去った。
だが、不思議なことに、体はきつくても心は妙に充実していた。
ジョギングを続けたおかげで体力は確実についてきたし、今まで全く興味のなかった芸術に触れるのも、意外と楽しかった。何より、常に隣にいる彼女の存在が、俺に頑張る力を与えてくれていた。
この、軍隊のような日々も、悪くない。
俺は、そんな風に思い始めていた。
そして、計画書施行から八日目の朝。
その日の午前学習を終えた俺に、彼女は告げた。
「優斗さん。午後のスケジュールですが、予定通り、フェーズ2に移行します」
「フェーズ2?」
「はい。『プールデート』です」
彼女は、淡々と、しかしどこか弾んだ声で言った。その手には、既に準備万端といった様子の、少し大きめなトートバッグが握られている。
プールデート。
計画書に記されていた、甘くも危険な響きを持つ、最初の特別イベント。
『未来であなたが、私の水着姿に初めて見惚れた日』
という、恐るべき注釈が添えられていた、あの日だ。
「準備はよろしいですか? 水着、タオル、着替え。忘れ物はありませんね? 未来のあなたは、よくパンツを忘れて、帰りにノーパンで帰宅するという失態を演じていましたから」
「どんな失態だよ! そして忘れないから!」
俺は全力でツッコミを入れながら、心臓がドクドクと大きく脈打つのを感じていた。
水着姿の、雪城冬花。
一体、どれほどの破壊力を持っているのだろうか。想像しただけで、顔が熱くなる。
これは、デートなどではない。訓練の一環だ。俺の精神力を鍛えるための、高難易度シミュレーションだ。
俺は自分にそう言い聞かせ、彼女と共に、市民プールへと向かった。
市民プールは、夏休み中の子供たちや、若いカップルたちでごった返していた。
燦々と輝く太陽、塩素の匂い、そして人々の楽しそうな歓声。まさに、夏の象徴のような場所だ。
「では、三十分後に、あそこのスライダーの前で合流しましょう」
彼女はそう言うと、女子更衣室の方へと消えていった。
俺も、男子更衣室で急いで水着に着替える。心臓の準備運動が、まだ終わらない。
落ち着け、相沢優斗。彼女がどんな水着を着ていようと、驚いてはいけない。クールに、スマートに、「ああ、似合ってるじゃないか」と、余裕の表情で言ってやるんだ。
俺は鏡の前で何度か表情の練習をし、覚悟を決めてプールサイドへと足を踏み出した。
そして、俺は、出会ってしまった。
いや、降臨しているのを、目撃してしまった。
待ち合わせ場所のスライダーの前。
そこに立つ彼女の姿を見た瞬間、俺の思考は、完全に、宇宙の果てまで吹き飛んだ。
時間が止まる。音が消える。
周囲の喧騒も、じりじりと肌を焼く太陽の熱も、全てが意味をなさなくなった。
俺の瞳に映るのは、ただ、彼女一人。
そこにいたのは、俺の知っている雪城冬花ではなかった。
氷の女王でも、未来の嫁でも、敏腕家庭教師でもない。
夏の光を一身に浴びて輝く、海の女神(ミューズ)そのものだった。
彼女が身にまとっていたのは、シンプルな、しかし計算され尽くしたデザインの、純白のビキニ。
その、あまりにも眩しい白色が、彼女の透き通るような肌の白さを、さらに際立たせている。
無駄な脂肪が一切ない、引き締まったくびれ。そこから伸びる、しなやかで長い脚。そして、控えめながらも、女性らしい柔らかな曲線を描く胸元。
濡れた銀髪は、普段よりも妖艶な光を放ち、水滴が、その完璧な鎖骨の上を、きらきらと滑り落ちていく。
神は、彼女に何物与えれば気が済むのだろうか。
これは、現実の光景なのか? 最新のCG技術で生成された、架空のアイドルか何かではないのか?
同じ人間という種族であることが、信じられなかった。
スタイルが、異次元すぎる。
その、あまりにも完璧すぎるボディラインと、いつも通りのクールで無表情な顔。その究極のギャップが、俺の脳の処理能力を完全にオーバーさせていた。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、金縛りにあったように動けない。
直視できない。だが、目を逸らすこともできない。
俺が完全にフリーズしているのに気づいたのか、彼女が、こてん、と小さく首を傾げた。
「優斗さん? どうかしましたか? 私の顔に、何かついていますか?」
「い、いや……ついてない……何も……」
俺は、かろうじて声を絞り出す。
彼女は、不思議そうに自分の体を見下ろした。
「そうですか? それとも、この水着に何か問題でも?」
彼女は、続ける。
「未来のあなたが、『僕の理想の全てが、この布の面積に凝縮されている』と、訳の分からないことを言いながら、選んでくれた水着なのですが。もしかして、露出が多すぎましたか?」
その言葉に、俺はハッと我に返った。
そして、全力で叫んだ。心の中で。
多いわけがない! むしろ、少なすぎる! 布が! 布の面積が、圧倒的に足りていない!
「いや! 多くない! むしろ少ない! もっとこう、あれだ、スクール水着とか、そういう方向性でだな!」
俺がしどろもどろになっていると、周囲のざわめきが耳に入ってきた。
「おい、あの子、やばくね?」「モデルかよ……」「レベルが違いすぎるだろ」
プール中の男たちの視線が、全て、彼女一人に集中している。その視線は、羨望と、欲望と、そして神聖なものを見るような畏敬が入り混じっていた。
その、全ての視線を集める女神が、今、俺だけのために、ここにいる。
その事実に、俺は言いようのない優越感と、それと同じくらいの羞恥心で、爆発しそうだった。
「そうですか。なら、よかったです」
彼女は、俺の葛藤など露知らず、満足げに頷いた。
そして、俺に向かって、すっと手を差し伸べる。
「さあ、行きましょう、優斗さん。計画書によれば、まずは流水プールで体を慣らすことになっています。未来の私たちのように、手、繋ぎますか?」
その、あまりにも無邪気な、そして破壊力抜群の提案。
俺は、もう、何も考えることができなかった。
ただ、その差し出された白い手を、夢遊病者のように、ゆっくりと握り返すことしか。
これから始まる、地獄のような、いや、天国のような一日。
俺の心臓は、果たして、この夏の太陽の下で、無事に生き永らえることができるのだろうか。
その答えを出す前に、俺の意識は、握りしめた彼女の華奢な手の感触だけで、完全に満たされてしまっていた。
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