旧碓氷郡松井田町・霧積山女性殺人事件・その10(妄想的まとめ) | 雑感

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---------- 4月9日追記分↓ ----------

 

霧積山女性殺人事件_釣り人

 

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

 

さて犯人像について、こちらでは「釣り人一択」とさせていただきましたが、こちらをご覧いただいている方々は、それぞれどのような犯人像を描かれたでしょうか?

 

例の5コマ目の写真の絡みで、なにかとオカルト風な取り上げ方をされがちなこの事件だと思うのですが、写真の件よりも個人的に---事件とは無関係ながら---少し気味悪く感じられたのは、夏碓氷から霧積へゆく道で帽子を落としたという、あの古い詩のことで、ここに再び、その全文を掲載してみると、

 

 

「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、

谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

 

母さん、あれは好きな帽子でしたよ、

僕はあのときずいぶんくやしかった、

だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

 

母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、

紺の脚絆に手甲をした。

そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。

けれど、とうとう駄目だった、

なにしろ深い谷で、それに草が

背たけぐらい伸びていたんですもの。

 

母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?

そのとき傍らに咲いていた車百合の花は

もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、

秋には、灰色の霧があの丘をこめ、

あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

 

母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、

あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、

昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、

その裏に僕が書いた

Y.Sという頭文字を

埋めるように、静かに、寂しく。」

 

 

妄想好きな自分としては詩中のいくつかの単語を別のものに・・・例えば、

 

「帽子」→「体(命)」

「薬売り」→「釣り人」

「紺の脚絆」→「地下たび」

「手甲」→「軍手」

 

などと置き換えて読んでしまったりするのですが、

そうすると、見ようによってはこの詩は、あの世から響いてくる被害女性の声のようでもあり、またあるいは、犯行状況を仄めかす犯人の独白のようにも思われてくるのであり、

大正11年創刊の某児童雑誌に初出のこの詩ながら、深い喪失感と諦念を漂わせつつ、静かに語りかけてくるその調子は、半世紀後に起きた霧深い山中での悲劇を暗示するかのような薄ら怖さを感じさせ、

共時性とかシンクロニシティとかいったものが現実にあるのなら、案外、犯人のイニシャルもまた、Y.S.というものだったのかもしれない・・・などという与太話でお茶を濁して、この霧積の事件については、ここで一区切りとしたいと思います。

 

 

---------- 4月7日以前のアップロード分↓ ----------

 

 

さて、霧積の事件も「その10」ということで、そろそろこのあたりで一区切り入れようかなと思うのですが、最後に、以下のの部分について、独断と偏見に満ちた私感を、ランダムに書き連ねさせていただくとすると、

 

 

 事件は1972年8月13日(日曜日)に起きた

 

霧積山殺人事件1972年8月カレンダー

 

その日は「日曜日」であると同時に、多くの国民にとっては「盆休み」でもあり、学生にとっては「夏休み」でもあり、 天気は晴れ、そこそこに気温も高い一日だったようでした。

 

霧積山女性殺人事件気温湿度

(霧積の近くにある軽井沢のデータなので、あくまで参考ですが)

 

Kさんはこの日の何時頃に亡くなったのか、そのあたりを想像してみると、

 

まず、「Kさんらしき女性を目撃した」という確度の高い最後の目撃情報は、安中市の親子連れ(3人)によるもので、

それによると、彼らは8月13日の14時ごろに、一人徒歩で下山するKさんを見掛け、

 

「一人歩きは危ないから、乗っていかないか?」

 

と声をかけたが、Kさんはこの申し出を断ったと。

 

さらに、Kさんの遺体を司法解剖した群馬大医学部法医学教室の古川研氏(助教授、当時)によると、Kさんの死亡推定時刻(時間帯)は「8月13日の昼~夕方」とのことで(1972年8月18日付、上毛新聞1面)、8月半ばごろの「夕方」とは、いったい何時頃を指すのか、そのあたりは、人により差異があるとは思われるものの、

とりあえず、古川助教授(当時)のこの見立てに、先の「安中市の親子連れによる目撃証言」を合わせると、Kさんが亡くなったのは「8月13日14時~夕方」と思われ、

さらに、「安中市の親子連れによって目撃された地点」から「遺体が発見された作業小屋」まではその距離約1.5kmであり、

 

霧積山殺人事件最後の目撃地点

 

この距離は、ゆっくりめの分速60m程度で歩くと(途中ヒッチハイク等は無しと仮定)約25分の道のりであることを考え合わせると、Kさんが作業小屋(あるいはその付近)に到着したのは14時30分前後かと思われ、

その時刻ごろに、その場所で何者かと遭遇し、わりとすぐにトラブルになり、凶刃を振るわれたのだとすれば、Kさんが亡くなったのは

 

「8月13日14時30分~15時ごろ」

 

とみて、司法解剖の結果とも矛盾せず、このブログ的には、Kさんが亡くなったのはその時間帯であると想定して、話を続けてみたいと思います。

 

 

 1972年8月17日付、朝日・毎日両紙の記事には「下着に乱れあり」、同日付の上毛新聞の記事には「スカートがまくれているなど着衣に乱れあり」との記述がある

 

上記3紙は微妙な言い回しをしていますが・・・。

 

被害女性は8月の暑い盛りに、深山の、それこそむせかえるような緑の中、車一台分の細道をたった一人、徒歩で下山していたというのであり、しかもその時の装いは、紺色ノースリーブのブラウスに白のミニスカート、白のハイソックス、運動靴であり、

 

霧積山殺人事件服装

(下山時はハイヒールではなく、運動靴、白のハイソックスを着用。その他は、ほぼこの通りの衣装だった)

 

この薄手の装いについては、元警視庁捜査一課長でプロファイラーとしても名高い田宮榮一氏による分析もなされており、それによると、「男を刺激するには十分」 (原文ママ)とのことで、

 

元警視庁捜査一課長田宮榮一氏

(田宮氏も服装の薄着であったことを指摘)

 

確かに、この状況でこの格好は不用心に過ぎ、ある種の男の悪心を引き起こしてしまったのかもしれず、未遂か既遂かは別として(体液採取の話も出てないので、未遂と思いますが)、要するに、犯人の目的は「性的暴行」であったものと仮定して、話を進めてみたいと思います。

 

 

 殺害現場は霧積川えん堤横の作業小屋だった

 

霧積川えん堤横の作業小屋

(在りし日の作業小屋)

 

 

作業小屋ストリートビュー

(同じ角度からストリートビューで。赤い車の位置あたりにあった作業小屋は、とうの昔に取り壊され、路面はアスファルト敷きとなり、白線が引かれ、ガードレールや電柱が設置されている)

 

https://www.youtube.com/watch?v=_wPZ5XTXXXM

(前にも引用した、Youtubeの心霊系番組動画。貴重な映像や証言あり)

 

警察は、この作業小屋を「殺害現場」とみなしていたとのこと。

 

上の動画中、当時の捜査本部長(松井田警察署長)が、

 

「警察としては、この作業小屋の6畳間を殺害現場と断定した」

 

という意味の証言をするシーンあり。(詳しくは、「その7」を参照ください)

 

この作業小屋以外の、どこか離れた場所で殺害された可能性も絶無ではないと思いますが、現場の詳細を知る当時の捜査本部長の話は、そう軽いものとも思われず、

 

とりあえず犯人は、8月13日(日曜日・盆休み、夏休み)の14時半~15時ごろ、霧積川えん堤横にあるこの作業小屋(あるいはその付近)で何かをしており(あるいは通りがかり)、この小屋で犯行に及んだ・・・ということで考えてみようかなと。

 

 

 頑丈そうな刃物を使用

 

上毛新聞8月19日付7面の、次の記述。

 

「とどめとなった左胸の長さ7.5センチ、幅4センチ、心臓、肺臓を貫通した傷は、ロッ骨3本を切断するほどの威力だった。総計24ヵ所の傷跡から、捜査本部では凶器は”先端鋭利で幅は2.5センチぐらい、長さは10センチを上回る”と推定している。しかし、これに該当するものとしては柳葉包丁、登山ナイフ、牛刀、料理用ナイフ類などいろいろあり、特定は困難だ。ただ胸の傷跡のように一度刺して骨を切り、引っ張るときに引き裂かれたような状況から、厚みのある相当丈夫なものでなければならないし、持ち運びの容易な長さ、大きさという制限がある。この点から肉厚が2.5~3ミリもあり、肉切り用として作られた牛刀、これに類似するチャッパーナイフなどが考えられる。」

 

丈夫な刃物が連想されますが、犯人はその日、山深い渓流わきの作業小屋(付近)で、なぜか、そういうものを携帯していたようです。

 

渓流ナイフ_チャッパーナイフ

(向かって左、渓流ナイフ。右、チャッパーナイフ)

 

 

 遺体や遺留品、血痕を覆い隠すのに使われた板には血の付いた軍手の跡と思しき痕跡あり

 

犯人はその日、山深い渓流わきの作業小屋(付近)で、軍手あるいはそれに類似の手袋を着用(携帯)していたと。

 

 

 遺体が発見された小屋の床には、地下たびの足跡(地下たびに似た足跡)があった

 

それら「地下たび」の足跡に関する、上毛新聞(1972年8月19日付)の次の記述。

 

”地下たび足跡”数個はかなり古いものとわかり、足跡面からの捜査は振り出しにもどったようで、現在、犯人が現場に残したもので確実なのは、死体や血痕を隠すために使用したブリキに付着している”血のついた手袋の痕跡”だけとなった。」

 

上の言い方はやや紛らわしく、

 

「”地下たび足跡”数個はかなり古いものとわかり」

 

とは、

 

「採取されていた数個の地下たび足跡の全てが古いものだと分かった」

 

という意味か、それとも

 

「採取されていた数個の地下たび足跡のうちのいくつかは古いものだと分かった」

 

という意味か、そのあたりがわかりにくいのですが、記事には

 

「足跡面からの捜査は、振り出しにもどった」

 

ともあるので、要するに記事の意味するところは前者、すなわち、

 

「採取されていた数個の地下たび足跡の全てが古いものだと分かった(地下たびの線はチャラになった)」

 

ということでしょうか。

 

しかしそのわりには、地下たび以外の、例えば革靴であるとか、ブーツであるとか、スニーカーであるとか運動靴であるとかの足跡が出た、という情報もなく、

 

そうである以上、「古いものとわかった」のは「採取されていた数個の地下たび足跡のうちのいくつか」と解釈する余地はあり、

 

そう解すればやはり「犯人は、山深い渓流わきの作業小屋(あるいはその付近)で、地下たびを履いていた」という見方も、排除はされないのかなと。(けっこう無理やりですが)

 

地下足袋一例

(地下たび一例)

 

 

 作業小屋の前に車が停まっていた

 

上毛新聞1972年8月20日付11面の、次の記述、

 

「犯行のあったとみられる13日午後には霧積ダム工事現場から小屋をはさんで温泉の旅館まで約6キロ間に釣り人のものらしい車が30台前後駐車していたのが確認されているが、所有者はほとんど判明していないので事件は早くも難航する気配となってきた。」

 

『迷宮入り!?未解決殺人事件の真相』(宝島社)によると、小屋近くの林道には、スバルのR-2という車種が7台(うちグリーン系4台)駐車されており、警察は特にこの車種を重要視したとのこと。

(群馬にはスバルの工場が多く、二者の関係は深い。群馬は人口当たりの自動車保有率全国1位らしいです)

 

霧積山殺人事件不審車両

(スバルR-2、1970年モデル)

 

例の心霊系の動画には、

 

https://www.youtube.com/watch?v=_wPZ5XTXXXM

 

「協力を願った当時の地元の警察署長(温井守夫氏・当時の捜査本部長)によると、犯行現場の小屋の前に、乗用車が止められているのが目撃されており、車を利用した犯罪説も有力」

 

とのナレーションあり。(1分25秒~)

 

犯人は日曜日(お盆休み、夏休み)、山深い渓流わきの作業小屋前に、車の鼻先を突っ込むかして停めていたんでしょうか。

 

霧積山事件現場想像図

(作業小屋前に停車する、グリーンのスバルR-2、想像図)

 

 

 殺害場所とされる6畳間から、遺体をより奥の8畳間(の最奥)まで引きずり、遺体や床の血痕を波板で覆うなど隠ぺいしている

 

霧積山女性殺人事件現場小屋見取図

 

→ より人気(ひとけ)のない山中に運んで埋める等しておらず、一時しのぎ的な遺棄の仕方に見える。

遺体は、林道を走行中にこの作業小屋に目をとめた捜索隊によって、あっさり発見された。

 

遺棄方法からは、「永久に発見されないようにしてやろう」という意欲があまり感じられず、おそらくは、

 

「自分が安全地帯に逃げおおせるまでの数時間でも見つからなければいい」

 

という、一時しのぎ的な意図が見え隠れしているような気がしますがどうでしょうか。

 

 

 カメラや着替えの衣類など遺留品約40数点も同じ8畳間の別の位置に、これも板で覆って隠ぺいしている

 

→ 遺留品への執着がない(ほとんどない)ように見える

 

もし犯人が、いわゆるKさんのカメラに残っていた最後の5コマのいずれかの撮影に関わっていたのであれば、念のため、カメラくらいは持って逃げるような気がしますが・・・。

 

 

 胸部、腹部、臀部、背部など全身24ヵ所に刺創、一部下腹部に死後に付けた傷あり、左手首を貫通する刺創、左の手のひらに刃物を握ったとみられる防御創あり

 

抵抗し、あるいは逃げ回る被害者に対し、逆上して前と言わず後ろと言わず、メッタやたらと刃物を振り下ろした、という状況かと。

 

殺す側が数的優位に立っていた場合は(1対2とか1対3)、メッタ刺しにして血が噴き出して大変なことになるような殺害方法よりも、むしろ、数的優位にものを言わせて、相手を抑え込んで扼殺(絞殺)・・・とかの流れになりやすいのではないか、と思うのですが、

 

この事件の場合は、刃物をメッタやたらと振り下ろしたという状況で、犯人は被害者に対して数的優位にはなく、「単独犯」だったのではないか、と想像します。

 

おそらくは、性的暴行目的で刃物を突き付けてみたものの、

 

犯人の誤算は、被害女性がどうやら

 

「こうと思ったことは譲らない」

「納得のいかないことは拒否する」

 

という傾向の顕著な女性だったということで、この時も、Kさんは断固拒否の構えを見せたかもしれず、上毛新聞1972年8月18日9面の次の記述、

 

「さらに痛々しいのは、Kさんが犯人の”魔手”から逃れようとしたために刃物を握ったと見られる左手の”防御創”

 

言うことを聞きそうにないKさんに対して、「状況わかってんのか?」と、犯人が喉元に突き付けてきた刃物を、怯えたKさんが咄嗟に左手で握ってしまったのかもしれず、そこから思わぬ流血 → 犯人逆上という流れも連想されるかと。

 

いずれにしても、

 

「刃物を握られる」

「24ヵ所メッタ刺し」

 

というのは、相手を制圧するとか殺害するという意味においては---語弊のある言い方ながら---手際の悪さを示しているとは思います。

 

一部下腹部に死後に付けた傷がある、という点について、下腹部というのがどこなのか、また、何ヵ所、どのような状態で傷がつけられていたのかが不明なので何とも判断のしようがないように思うのですが、

 

あえて妄想すれば、犯人は殺害後しばらく、作業小屋の中で、遺体や血痕、遺留品を資材(板)で覆うなど、隠ぺい工作に勤しんでいたようなので、その途中で、

 

「遺体が少し動いたような気がした」

「本当に死んでいるのか不安になった」

 

等の状況があれば、一応念のために、もう一度刃物で刺してみた、等はあり得ると思われ、だとすると、この死後の傷つけ行為は、必ずしも犯人の猟奇性を意味するものではない、という風に思うのですが、どんなもんでしょうか。

 

 

 自称・東京都世田谷区下北沢4-16富士見台マンション住みの修理工・石田良男(22)が上毛新聞の記事を見て同社に電話で名乗り出た件

 

不思議に思うのは、世田谷住みの修理工(22)が、なぜ上毛新聞を購読しているのか、

 

あるいは、購読まではしていないとしても、どこでどうやってその上毛新聞の記事を目にしたのか(石田某が電話をしてきたのは、記事掲載当日の20時半で、即日の反応と言えた)、

 

仮に、その記事内容を当日のテレビで見知ったとしても、それなら、最寄りの警察かテレビ局に名乗り出るのが普通ではないかとも思われるし、

 

そもそも石田某の言う「下北沢」とは「地域名」であって「地名」ではなく、「下北沢」という住所が存在していないこと、また、結局この男は捜査本部にも上毛新聞社にも姿を現さなかったこと等々から、ただのいたずらだった可能性もあるような気はするのですが、しかし一方で、男が電話で話した内容はなかなかに具体的でもあり、もしかすると、

 

「忍の池えん堤前で2回、シャッターを切ってあげた」

 

という証言については、真正のものだったのかもしれないなと。

 

しかしそうだとすると、「写真を撮ってあげた」程度のことを新聞社に名乗り出るのに、なぜ偽の氏名と住所を用い、けっきょく姿を現さず、肩透かしを喰らわせるようなことをしたのだろうか、などと不思議にも思います。

 

完全ないたずらだったのか、あるいは、石田自身、群馬の捜査本部に出頭して説明するべきかどうかの迷いがあり、あとで、「面倒事に巻き込まれるのは嫌なので、やっぱりやめとこう」と思い直したのか、

 

しかし、石田に当初迷いがあったのだとすれば、住所氏名は電話では伏せておけばよかっただけのことであって、なにもわざわざデタラメの(世田谷区下北沢4-16富士見台マンション・・・)住所や氏名を申告する必要まではなかったと思われ、

 

そこまでのことをした(悪質度高し)ということはやはり、いたずらに過ぎなかったのかな、とも思えてくるのでした。

 

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とりあえず、自分的に気になった点をまとめてみると、

 

・殺害現場は、霧積川えん堤横の作業小屋

 

・殺害日時は、1972年8月13日(日曜日、盆休み、夏休み)の14時30分~15時ごろ

 

・現場の当日天気は、おそらく晴れ(隣接する軽井沢の気象データや、 被害女性が徒歩で下山していること、下山の途中で撮った写真の逆光の具合などから想像)

 

・霧積温泉には8月12日~13日にかけて宿泊客、 日帰り温泉客など数百人単位の客あり(「その7」を参照ください)

 

・作業小屋横の林道(現・群馬県道56号)には、霧積温泉への泊まり客、日帰り温泉客、登山客、 ハイカー、釣り客など、行楽客の人数なりの人や車の往来があったものと想像

 

・霧積川は、渓流釣りの好ポイント多数

 

・作業小屋横の林道---霧積温泉と当時建設途中だった霧積ダムの間の区間 (約6キロ)には、釣り客のものと思われる約30台の車が駐車されていた

 

・犯行目的は、性的暴行(おそらく未遂)

 

・犯人は、丈夫な刃物を携帯していた(警察の見立てでは、刃渡り10センチ~、刃幅約2.5センチ)

 

・犯人は、軍手またはそれに類似の手袋を着用(携帯)していた

 

・犯人は、地下たびを履いていたらしい(ダム建設作業員たちのそれとは異なる製品だったとのこと)

 

・犯人は、霧積川えん堤横の作業小屋前に車を停めていたらしい

 

・当時警察が重要視したのは、スバルのR-2という車種だった

 

・遺体や床の血痕を小屋内のありあわせの資材(板)で覆うなど、一時しのぎ的な隠ぺい工作をして逃走

 

・遺留品40数点も、布袋に入れ、板を被せて現場に遺棄(袋ごと持ち去るということをしていない)

 

・殺害方法は、全身24ヵ所メッタ刺し(加害者側に数的優位なし?)

 

・被害女性の左手には、刃物を握ったとみられる防御創あり(刃物を握られている)

 

・自称・東京都世田谷区下北沢住みの修理工・石田良男(22)については謎(群馬在住の上毛新聞購読者によるいたずら? あるいは、可能性は低いながらも、写真の掲載に危機感を覚えた群馬在住の犯人が、警察の目を東京に向けさせるために行った陽動作戦?)

 

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ということで、上の諸条件に合いそうな犯人像を、無理矢理に結論付けてみると、

 

 

釣り人一択

 

 

ということになるのかなと。

 

釣り人---この場合は渓流釣り---であれば、軍手またはそれに類似の手袋の着用(携帯)に違和感はなく、釣った魚の血や内臓を抜くために、ナイフもまた必携のアイテムであり、

 

ただ一点、渓流釣りの際に、地下たびを履くことはあるのだろうか?・・・という疑問があって調べてみたところ、

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1337952573

渓流釣りに地下たび履きは珍しくはない、とのこと(防水用のものでしょうが)。

 

さらに調べてみると、渓流釣りの本(『大ヤマメの世界』1985年発行)の中には、読者に対して下のような図を示しつつ、

 

渓流用地下足袋

「軍手」や「渓流用地下たび」の着用を勧めているものもあり、

 

渓流釣りの装いとしては、軍手はもちろんのこと、地下たびも普通に「あり」とみて間違いはないらしく、だとすると、8月のある晴れた休みの日の午後、渓流わきの作業小屋前に車を停め、軍手着用、地下たび履き、ナイフ携帯といういでたちで、一人、何かをしていた・・・という風景に無理なくあてはまるのは、温泉目当ての客や、登山客、ハイカーではなく、

また、幾人かの共同作業になるであろう下草刈りの作業員等ではなく、それはやはり、釣り人なのではないか、という風に思えてくるのでした。

 

すなわち男はその日、朝から釣り始めて、竿をたたんだのが午後の2時過ぎ、帰宅するべく車で林道を走行中に、ノースリーブ・ミニスカートで独り下山するKさんを見て欲情し、先回りして小屋前に停車、遅れてやってきたKさんに刃物を突き付け、小屋に連れ込んだ、

 

あるいは、もともと作業小屋横のえん堤あたりで釣りをしていたところ、

 

「シャッターを押してくれませんか?」

 

と言いながら近づいてきたKさんに良からぬ心を起こしたのかもしれず、

遺体や遺留品を板で覆うという、一時しのぎ的な隠ぺい方法からは、

 

「遺体は、やがて見つかってもよい」

「ただ自分が逃げる間だけ、(遺体が)見つからなければよい」

 

という犯人の心理が垣間見えるかのようであり、(つまり犯人は被害者との人的接点が無く、また、霧積との地理的接点があまりない?)

 

この心理に加えて、休みの日に行く渓流釣りの場所として「霧積川」を発想していること、

また、8月の暑い折、魚を捌いて持ち帰るにしても「自宅から遠すぎるのはNG」だろうと思われること、等々を考え合わせると、

 

犯人は地元(旧碓氷郡松井田町)の住民というよりは、もう少し離れた、旧安中市~高崎市あたりから来ていた釣り師だったかもしれない・・・などという妄想を抱くのですが、果たして、真相はどうだったのでしょうか。

 

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 冒頭の「追記」へ続く

 

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