原爆の投下時も呉にいた。「防空壕に入って、警報が解除されて出ていったら、すごい雲がもくもくと広島の上空に上がっていた。その後、黒い雨が落ちてきた。雨だから校舎に戻ろうか、くらいの感じだった。なんにもわからんかった」。
終戦後、誘われて野球を始めた。父から「紳士のスポーツじゃない。バレーボールかテニスをやれ」と言われたそうだが「9人集めるのが大変だった」という野球部で、空いていた三塁を守った。呉三津田高では西中国大会決勝で敗れ、甲子園には行けなかった。
広島商高との試合で、広島の町を通ったことがある。「放射能というのは通ったところがわかるんだね。1メートル置きくらいにピャッと屋根がやられていた。壁には人の焼けた跡もあった」。忘れることの出来ない光景だ。
戦後80年。改めて「とにかく勉強することだ」と話す。引退後には米国を視察。サンケイスポーツの評論家を務めた際には、早大の先輩でボート部だった北川貞二郎さん(当時運動部長)に鍛えられた。学徒動員で戦地に赴き、1964年の東京五輪開会式でその経験を織り込んだ原稿を残した名記者にいきなり「お前、字は書けるんか?」と言われた。「あれには参ったな。早大まで出ているのに」と懐かしそうに振り返る。「書いたらいいんでしょ!」と言い返して、辞書も買って必死に学んだ。評論は「アレコレと書くな、一点絞りで書け」ということも教えてもらった。
「今のプロ野球は、アマチュアに毛が生えたくらい。いつでもエラーが見られる。情けない。でもそれは、正しいことをちゃんと教えられる指導者がいないからだ」
だからこそ言い続けている。「ぜひ世界を一周して、世界がどうなっているか勉強したらいい。通訳なんていらない。1人で行け。いくらでも学べるよ。野球界がもっと良くなるには、指導者が〝勉強出来る場〟を、コミッショナーやトップが作らないといけない」。
時代が移ろうが、広岡さんのメッセージは変わらない。生きている限り、学び続けなさい-。
■広岡 達朗(ひろおか・たつろう) 1932(昭和7)年2月9日生まれ、93歳。広島県呉市出身。呉三津田高から早大を経て54年に巨人に入団。66年に引退。通算1327試合出場、打率・240、117本塁打、1081安打、465打点。76年途中からヤクルト監督に就任し、78年にリーグ優勝と日本一。82年に西武監督に就任し、在任4年でリーグ優勝3度(日本一2度)。95年にロッテGMに就任(96年に退任)。2012、13年にはキャンプで阪神の臨時コーチなども務めた。180センチ。右投げ右打ち。