旧碓氷郡松井田町・霧積山女性殺人事件・その2(その他予備知識) | 雑感

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霧積温泉殺人事件服装

(紺色ノースリーブのブラウスに、白のミニスカート、ハイヒール。被害女性は、このいでたちで霧積温泉への一人旅に赴いたという。〈画像は実物ではなくイメージ〉)



※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※



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さて、事件にまつわる大まかな地理的イメージは「その1」でご覧いただいた通りだとして、

今回さらに、あれこれの予備知識的な情報を見ていきたいと思うのですが、


まず、事件が起きた1972年というのはどういう時代だったのか・・・

ということについては、

元・警視庁捜査一課長の田宮榮一氏によれば、


「ラーメン150円、あんパン30円という時代」(原文ママ)


とのことで、他にも数々の具体的な例示をされてはいるのですが、

それらをすべてここに列挙するのも手間なので、

ここはウィキペディアから「1972年」のページをご覧いただくとして、


https://ja.wikipedia.org/wiki/1972%E5%B9%B4


こういった世相~出来事のあった時代のようでした。


ウィキに掲載されている年表によれば---事件とは無関係ながら---今話題のSMAP中居正広氏~木村拓哉氏も、この年の生まれのようです。

(中井氏8月18日、木村氏11月13日)


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次に、被害女性その人についての情報を見てみるとして、

わかっていることを列挙してみると、


・1972年8月の事件当時、24歳だった
・実家は、群馬県伊勢崎市昭和町
・親と同居していた
・伊勢崎市立女子高等学校の卒業生
・高校卒業後、伊勢崎市内のガソリンスタンドに勤めていた


伊勢崎市昭和町あたりの地図を見てみると(東西南北はご推察ください)、


霧積温泉殺人事件伊勢崎
(赤枠で囲まれた、赤く着色された部分が伊勢崎市昭和町。この部分の左右の最大幅は約1キロです。)


霧積温泉殺人事件伊勢崎2

(昭和町交差点方面を西側から望んだ構図。)


伊勢崎市立女子高等学校円形校舎
(ウィキペディアより、旧・伊勢崎市立女子高校の円形校舎。紆余曲折の末に、市民の交流の場「絣の郷〈かすりのさと〉円形交流館」として運営されていたが、画像が撮影された時点では、すでに東日本大震災による被害を受けており、休館となっている。)


被害女性の出身高校である「伊勢崎市立女子高等学校」はすでに存在しておらず、

その開校から閉校までは、


1954年 - 伊勢崎市立女子高等学校として伊勢崎市昭和町に開校。
1993年 - 伊勢崎市立伊勢崎高等学校と改称、男女共学化。

       (この際、群馬県伊勢崎市上植木本町1702-1に新校舎を設立、移転した)

2009年 - 上記新校舎と同一敷地内に伊勢崎市立四ツ葉学園中等教育学校が開校。
2012年 - 市立伊勢崎高等学校、同年度以降の生徒募集を停止。

       (この年、市立四ツ葉学園の第1期生が後期課程に進学した。)

2014年 - 市立伊勢崎高等学校、全在籍者の卒業をもって閉校。

       (後継校として市立四ツ葉学園中等教育学校が存続中)


こうした流れであるとのことで、

同女子校の校舎(の一つ)であった画像の円形建物---1958年落成---は、長らく伊勢崎市民に親しまれた建物であったらしいのですが、


1993年に学校が共学化~上植木本町の新校舎へ全面移転された後、

2004年からは、市民の生涯学習のための施設「絣の郷(かすりのさと)円形交流館」として利用され、

2011年の東日本大震災で修復不能な程度に被災し、

2012年には取り壊しとなり、

2013年4月には、同じ場所で再び「絣の郷 円形交流館」としてリニューアルオープンした、


とのことです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E%E7%B5%A3

(伊勢崎絣についてウィキペディア)


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被害女性(以下、Kさん)に話を戻すと、


・家族は、父(当時55)、母(当時55)、姉(当時28)、弟(当時23)

・父は、地元伊勢崎で撚糸業(ねんしぎょう)

・弟は当時、東京小金井市に在住の銀行員

・髪は長かった


・「無口で、友人関係などあまりない」

・「きちょう面なので、これまで遅刻や無断欠勤はなく、職場では信頼されていた。」

・「旅行好きで、休みにはよく温泉などに出かけていた」

(上記「」内の三つは、いずれも当時の新聞記事---上毛新聞・1972年8月17日(木)---より)


・「軽いタイプの人ではなかった」

・「どちらかというと、第三者にはとっつきにくかったんじゃないか」

(上記「」内の二つは、Kさんの2軒隣に住んでいた、当時19歳だった男性が後の取材で語ったもの)


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事件の前日(8月12日)、Kさんが霧積温泉へ向けて出立したときは、


・紺色ノースリーブのブラウス

・白のミニスカート

・ハイヒール

・白っぽい帽子


という、この記事の冒頭の画像のような服装だったらしく、


霧積温泉殺人事件服装

(再掲。あくまで、実物ではなくイメージ)


このいでたちで、まずは父親の運転する車で伊勢崎駅まで送ってもらい、

そこから、両毛線や信越本線などを乗り継いで、


「伊勢崎」→「前橋」→「高崎」→「横川」


と辿り着き、

横川駅を降りたのちに立ち寄った「霧積温泉連絡所」---当時の霧積温泉の出先機関---でKさんは、


「ここから霧積温泉まで、(歩いて)どれくらいかかりますか?」


という質問をして、歩いていく構えを見せたらしく、

これに対して連絡所のおばさんが、


「3~4時間はかかります。ましてハイヒールでは無理です」


と答えたところ、


霧積温泉殺人事件路線3

(連絡所〈〉から霧積温泉「金湯館」までは、約10.5キロの道のり)


Kさんは近くの雑貨屋で、「白の運動靴」を購入したとのこと。

(遺体として発見されたときは、この白の運動靴を履いていた。連絡所近くの雑貨屋で白の運動靴を買ったのは、意地でもそこから歩いて辿り着いてやろうと思ったのかはわからないが、結局、連絡所のおばさんの「送迎のマイクロバスが来るのを待ったほうがいい」という勧めに従い、連絡所に上がり込んで30分ほど話し込み、温泉へはマイクロバスで赴いている。)


また、事件当日(8月13日)の数少ない目撃情報に、


「(Kさんは)白っぽい帽子を被っていた」


というものがあり、事実、Kさんは手編みの白い帽子を持参しており、

遺留品としてそれが発見されています。


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また、


「どうして24歳の女性が、盆休みに大山奥の秘湯に一人旅をしていたのか・・・」


という疑問について、

結末が結末なだけに、Kさんのこの行動(山奥への一人旅)からして「訳あり」に見えるかもしれませんが、

一人旅となったのにはそれなりの経緯(いきさつ)があったようなので、

以下、それについて触れてみると、まず当初の予定は、


「母親(当時55)」

「Kさん(当時24)」

「弟(当時23)」


この三人で、霧積温泉の旧館(金湯館)に宿泊する・・・


というものだったらしいのですが、

旅行前日になって、弟(以下、F氏)の都合が合わなくなり、

急きょ、Kさんの母親が2軒隣に住む奥さん(以下、Uさん)に


「Fが旅行に行けなくなったから、あなた、代わりに行かないか?」


と誘いをかけたところ、Uさんは夫にも相談の上でこれを承諾。

旅館には「3名」で予約していたため、こういう誘いに出たのかなと想像するのですが、

いずれにしてもこの時点で、旅行のメンバーは、


「母親(当時55)」

「Kさん(当時24)」

「Uさん(当時39)」


この三人になったのですが、

出立の日の朝、Uさんが準備をして待っていると、

Kさんの母親がやって来て、


「私も仕事が入って行けなくなった。お父さんがKを伊勢崎駅まで送っていった」


と言ったというのでした。


つまり、当初行くはずだった弟のF氏が都合で行けなくなり、

その代わりとして、2軒隣の奥さん(Uさん)を誘っていたものの、

旅行当日にKさんの母親も仕事が入って行けなくなったため、

Kさん的にはさすがに、


「2軒隣の15歳年上の奥さんと二人旅というのもいかがなものか・・・」


と感じたのかどうか、とにかく一人で温泉に向かうことを決め、

(「キャンセルするのは旅館の人に悪いから、一人でも行ってくる」と言ったという話あり)


8月12日の朝9時過ぎ---その日の天気は晴れ、前橋辺りでは最高気温32度になる暑い日---

父親から小遣いとして1万円を渡されたうえで、伊勢崎駅まで(車で)送ってもらい、

一人、霧積温泉へと旅立った・・・


とのことでした。

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