未解決事件ファイル
霧積温泉女性殺人事件(1972年8月) |
1972年(昭和42年)8月16日午後5時ごろ、群馬県碓氷郡(現・安中市)松井田町の霧積ダム建設現場付近の小屋の中で、伊勢崎市昭和町のガソリンショップ店員女性(当時24歳)の死体が発見されたと撚糸業を営む女性の父親(当時55歳)から松井田署に届け出があった。
同署が現場に急行して調べたところ、女性の死体は工事現場付近の物置き小屋の中で頭を南にあお向けに倒れ、着衣はノースリーブのブラウスに白スカートをつけ、スカートがまくれているなど着衣の乱れがあるほか、死体の右腕に長さ5センチ、幅3センチの切り傷があり、他にも左胸、首、下腹部などに多数の外傷が発見され、同署では殺人事件として本格的な捜査に乗り出した。死因は左胸の心臓に達する深さ8センチ、長さ5センチの傷が直接の原因で、出血多量で死んだものとみられる。死亡推定時間は13日昼から夕方ごろ。
帰宅予定の14日になっても女性が自宅に帰らないため、家族が心配して姉(当時28歳)が同温泉に探しに行き、さらに16日になって父親が伊勢崎署に家出人捜索願いを出していた。父親が女性の安否を気づかって近所の人10人と「私設捜索隊」を組み、同温泉へ向かう途中、16日午後4時半ごろハエが群がっている小屋を見つけ、不審に思って中へ入ったところ、娘が死んでいたという。
女性が死体で見つかった場所は国道18号線の碓氷峠カーブ3から霧積温泉方向に霧積川に沿って約7キロ入り林道から一段下がった地点で、数年前に堰堤(えんてい)工事に使った作業小屋だった。小屋は板張りで8畳と6畳の二間あり、女性は8畳の間の
真ん中であお向けになって死んでいた。小屋の東側には出入り口があるが、西側の窓がこわされていた。死体の傷に出血が少ないため、他の場所で殺されて乱暴されたあと車で運び込まれたものとみられる。小屋に入る道路上に乗用車のタイヤ跡が残っていた。死体のあった南側の8畳間の西の端に、女性が持っていた手編みの白色帽子、カメラ、紺色の布バッグ、旅行ブック、下着類など43品がブリキ板で隠されていた。
入り口のある奥の6畳間には女性の死体を引きずったらしい血跡が約2メートルにわたってついており、犯人のものとみられる地下足袋の足跡と、犯行時に使用したとみられる軍手で血をつけたような手の跡が見つかった。
女性は同月12日に東京都小金井市緑町に住む実弟(当時22歳)ら2人と霧積温泉に宿泊する予定だったが、弟らの到着が遅れたため1人で泊まった。翌13日午前10時ごろ、1人で旅館を出たことが分かっている。旅館の人が自動車で送るといったが、「歩いて帰る」と松井田方面に向かった。午後2時ごろ、旅館から約5キロ下った地点で歩いている女性を同じ旅館に宿泊していた親子3人が見かけ、車に乗っていくよう声を掛けたが、女性はここでも断っている。これらの足取りから、女性はこの直後に犯人と会い、さらに1.5キロ下った小屋になんらかの方法で連れ込まれたものとみられる。
女性は無口で友人関係などあまりないが、几帳面な性格でこれまで遅刻や無断欠勤はなく、職場では信頼されていたという。また、旅行好きで休みにはよく温泉などに出かけていた。
霧積川では多目的の霧積ダムを建設中で、普段は約100人の作業員が働いているが、12日から盆休みで工事現場には誰もいなかった。同署は女性が殺害された前夜に泊まった霧積温泉の旅館関係や宿泊人、ダム工事関係者、実家のある伊勢崎での交友関係などを対象に捜査員90人を動員して犯人逮捕への足がかり捜査をした結果、温泉やダム工事、伊勢崎の知人などすべてが「シロ」だった。
そのため、これまで捜査線上にリストアップされていなかった釣り人、草刈り作業員、ハイカーなどに捜査重点を移した。犯行のあったとみられる13日午後に、霧積ダム工事現場から小屋をはさんで旅館まで約6キロ間に釣り人のものらしい車が30台前後駐車していたのが確認されているが、所有者はほとんど判明しておらず捜査は難航。目撃情報も少なく、事件は迷宮入りとなった。