いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

霧積温泉女性殺害事件

本件は1987年8月に殺人罪での公訴時効を迎え、コールドケースとなっている。半世紀以上たった今も謎多き未解決事件として語り継がれている。

 

発見

1972年(昭和42年)8月16日(水)午後、群馬県碓氷(うすい)郡松井田町の霧積ダム建設現場付近の作業小屋から女性の遺体が見つかったと松井田署に通報が入った。

女性は12日に近くの霧積温泉「金湯館」に宿泊し、13日に一人で下山したまま行方不明となっていたガソリンスタンド店員Kさん(24歳)。1~2泊すると出掛けて行ったが14日になっても伊勢崎市昭和町の自宅に戻らないばかりか連絡ひとつ寄越さなかった。

15日にはKさんの姉が温泉地まで足を運んでみたが手掛かりはなく、安否を案じた家族は16日に捜索願を提出。同じく16日に父親と知人ら10名が捜索に向かい、旅館に向かう道中、午後4時半頃に「ハエが群がっている」小屋を見つけて不審に思い、中で娘の遺体を発見する。

 

元々はKさんと母親、都内で銀行勤めの長男(弟・22歳)の3人での温泉旅行が計画されていたが、急に予定が合わなくなり、Kさん一人で行くことになったという。

小屋は国道18号線から温泉方向へ霧積川沿いを上っておよそ7キロの地点にあった。かつて造林作業や堰堤工事の際に使われていたもので、数年前から使用されていなかった。建物は板張りで八畳と六畳の二間があり、Kさんは八畳間の中央付近で2枚のトタン板を被せられて仰向けに倒れていた。

被害時には、ノースリーブの紺色ブラウスに白色スカート、白い運動靴を着用。上毛新聞の17日の初報では「首の右と左腕、右手の三か所に鋭利な刃物で刺したとみられる傷」「着衣の乱れがある」と伝えた。強姦殺人である。

また死体の傷に出血が少ないとして、「別の場所で殺されて乱暴されたあと車で運び込まれたらしい」「小屋に入る道路上に乗用車のタイヤ痕が残っていた」「現場は指紋採取が難しい」とも報じられた。

下はKさんが宿泊した金湯館付近の地図。最寄りの横川駅や麓の松井田町からのアクセスには県道56号線(事件当時は森林整備の「林道」)しかない標高1000メートル近い秘境である。

霧積温泉の発見は鎌倉時代初頭とされ、江戸期には中山道の宿場町として麓の「坂本宿」に旅館や別荘が40軒以上点在し、明治半ばの軽井沢開発以前には避暑地としてその名を知られていた。各界の著名人が霧積の地に足を運んできたが、明治43年の山津波で一軒を残して泥流に飲み込まれた。その一軒が金湯館の前身となり、今日でも「秘境にたたずむ一軒宿」として愛されている。

駐車場から旅館まで約1キロ、徒歩30分程度の距離がある。一本道で下山に迷うことはないが、今日でもすれ違い困難箇所が非常に多い険所である。事実2019年10月の台風19号によりその県道56号が崩落して、旅館は車の受け入れができなくなり廃業の危機に瀕した。だが常連登山客らが徒歩で3時間かけて応援に訪れるなど、社長は「自分の代で途絶えさせたくない」と旅館を継続する決意を固めたという。県道は20年2月に完全復旧された。

また事件と直接関係しないが、1975年に執筆された森村誠一の長編推理小説人間の証明』でも市街から隔絶された霧積温泉が主要な舞台のひとつとされ、後に映画化、ドラマ化もされて全国的にも知られることとなった。

秘境にたたずむ一軒宿 群馬県 霧積温泉 金湯館の公式ホームページへようこそ

8月17日夜、松井田署に捜査本部が設置され、近郊での目撃情報、Kさんの足取り捜査、地元伊勢崎での聞き取りなど捜査方針が検討された。事件当時は旅館に80名の客がおり、出入りや車での利用者も含めて調べが進められた。

 

捜査

Kさんは伊勢崎市内の女子高を卒業後、市内のガソリンスタンドに勤めていた。無口で友人関係などあまりないが、几帳面な性格で遅刻や無断欠席はなく、職場では信頼されていたという。旅行好きで休みにはよく温泉などに出掛けていた。過去にも霧積温泉を2度訪れており、8月初めに電話予約を入れたのも彼女だった。

金湯館の話では、Kさんは12日に28号室に一人で宿泊し、帳場に顔を見せたのは一度きりでほとんど自室で過ごしていたとみられ、翌13日、朝食を終えて午前10時頃にチェックアウトした。

帰り際、経営者の嫁(27歳)が「マイクロバスに乗っていったら」と提案していたが、彼女は「歩いて行きます」と答えて宿を後にした。歩きでは駅まで3時間以上はかかり、山間部は5度近く涼しいとされるが市街では30度にもなる猛暑日だった。

午後2時頃、車で宿を出た親子3人が、旅館から約5キロ下った地点でぶらぶら歩いているKさんを見かけ、一人歩きは危ないとして同乗するように声を掛けたがここでも誘いを断ったという。これが最終目撃となり、ほどなく何らかのかたちで犯人と遭遇し、親子連れとの接触地点から約1.5キロ下った場所にある小屋に連れ込まれたものと見られている。

山の周辺ではダム建設のため100名程の作業員が働いていたが、12日から盆休みで現場作業は休止中だった。工事関係者は富山、青森出身者がバスで一斉帰省しており、宿舎に残っていたのは飯場の夫婦ら9人だけだった。

また捜査本部では17日までに金湯館近くで同族経営されている「霧積館」(現在の「金湯館駐車場」の場所に、71年に開業したばかりだった。現在は閉業)に宿泊した200名にも聴取対象を拡大させている。だが大半は家族連れの旅行客で、若い宿泊客もあったが軽井沢方面にグループ登山に向かっていたと確認され、容疑者は浮かばなかった。

作業小屋

当初「血痕が少ない」と報じられていたが、小屋の現場検証で、トタン板の下に血痕の付着した床板や腰板が確認され、実際には遺体は入り口のある北の6畳間から南の8畳間へ6~7メートル引きずられていたことが判明。やはり小屋が殺害現場だったと推定された。

地下足袋の下足痕と、軍手で血を付けたような手の跡が複数個見つかった。だが足袋の下足痕はダムの工事作業員たちが使用している製品とは異なり、「かなり古い」足跡で犯人に結びつかないものとされた。

また死体のあった南側8畳間の西の隅で、手編みの白色帽子、カメラ、紺色の布バッグ、旅行ブック、下着類など被害者の遺留品43点がブリキ板で隠されていたのが発見された。腕時計は「10時9分」を指した状態で止まっていた。

 

17日午前、群馬大法医学教室・古川研助教授の執刀で解剖が行われ、死因は心臓に達する深さ8センチ長さ5センチの傷を原因とする出血多量、死亡推定時刻は宿を出た13日の昼から夕方にかけてと推認された。

心臓の傷はあばら3本を切る凄まじいもので、そのほか下腹部など全身に渡って24か所の刺し傷切り傷があり、滅多切りとも言える状態だった。右頸部の傷は長さ7センチ、左手首の刺し傷は貫通するほどで、背中や臀部にまで執拗に及んでいた。その左手には必死で抵抗して刃先を握ったとみられる防御創も見られた。

その凄惨さを極めた犯行様態は「猟奇的」と報じられた。凶器の特定は困難とされたが、幅2.5センチぐらい、長さ10センチを上回る先端が鋭利な刃物と推認された。柳刃包丁、登山ナイフ、牛刀、料理用ナイフ類などが該当すると言い、胸の傷の「一度刺して骨を切り、引っ張るときに引き裂かれたような状況」からそれなりの厚みと丈夫さ、携行性を兼ね備えていると考えられた。

容疑者、不審者の目撃はなく、18日には機動隊員ら40名で周辺捜索が行われたが、凶器など犯人の遺留品発見には至らなかった。

 

Kさんの行動

ネット上ではKさんの事件前の行動もどこか不可解だという声が多く聞かれる。

当初は母・弟との3人旅行が一人旅になった点について、曖昧な表現で引っかかる方もいるかもしれない。これは旅行間際で急な変更が相次いだためで、宿の予約後に弟に予定が入ったため、代わりに近隣住民女性を誘って、一度は一緒に行く手筈になったのだが、当日12日になってKさんの母親も仕事の都合で行けなくなるという経緯があった。

Kさんと近隣女性の二人だけでは些か気まずい(相手に気を遣わせてしまう)との考えがあってか、それともせっかくの旅行を次々とキャンセルする家族にKさんが業を煮やしてひと悶着あったのかは分からないが、結局、近隣女性には急遽断りを入れて単独旅行に出掛けたが、省略されて伝えている情報が多い。

若い女性が一人で温泉というと何か訳アリだったのではないかと疑いたくなるが、当時はマイカーの普及も途上にあり、大阪万博国鉄の輸送網が発達し、1970年代初頭には個人旅行の促進を目指して「ディスカバー・ジャパン」と呼ばれる全国キャンペーンが推進されていた。創刊されたばかりの『an・an』や『non-no』といった女性誌でも若い女性向けの旅行スタイルを提案していた時期でもあり、まだ物珍しかったかもしれないが不可解というほどではない。

また前述のような相次ぐ「ドタキャン」で家族へのいら立ちが生じたり、キャンセル料や旅館に迷惑を掛けるくらいならばといった考えもあって一人で出掛ける気になったのかもしれない。

そうした一人旅の偶発的な経緯を踏まえれば、「現地でだれかと落ち合う約束があった」であるとか、「彼女に強い怨恨をもって付け狙っていたストーカー」といった線は消えるだろう。

 

8月12日(土)午前10時頃、父親が最寄りの伊勢崎駅にKさんを送り届け、小遣いに1万円を持たせた。伊勢崎駅から旅館の最寄りとなる横川駅まで直線でおよそ65キロ、電車で途中乗り換えを挟み、およそ一時間弱かかる。

一般的には横川駅から旅館まで指定のマイクロバスを利用するのだが、なぜかKさんは駅から3キロ離れた霧積温泉の出張所になっているNさん宅を訪れた。当時は霧積温泉に電話がつながっていなかったため、麓に出張所が設けられ、そこで電話予約などを受けていた。おそらく街頭広告や電話帳か何かで出張所の場所を確かめたものと考えられる。

尚、父親らが捜索に訪れる際も旅館で電話連絡ができないことからアマチュア無線ができる人物を同行させ、遺体発見に及んで自宅で待機していた当時中学生の二男が無線を受信して警察に通報したという。

Nさん宅を訪れたのは12時40分頃で移動手段は徒歩と見られているが、彼女は自宅からハイヒールで出掛けていた。どこから来たのかと問われたKさんは「伊勢崎から」と素直に答え、「ここから(徒歩で)霧積温泉までどのくらいかかるか」と尋ねた。

自宅を出る段では考えてもみなかったが、駅や電車で登山客と行き違ったり、広告を見たりするうちにハイキングをしてみたい欲動に駆られたのかもしれない。だがNさんの答えは「3、4時間はかかる。ハイヒールでは無理だ」というものだった。

Kさんは旅館の予約で出張所のNさんと電話で話していたはずだが、そのことには触れず名前も名乗っていなかった。会話の内容も「なぜかはじめて訪れた客のように装っていた」と報じられている。だが彼女に過去の宿泊を隠す意図があったのかどうかははっきりしない。

Nさんの性分を分析するつもりはないが、たとえば「ハイヒールで登るっていうの?登山客でも3時間4時間かかる道だもの、それは無理。日が暮れちゃう。何、あなたここはじめて?」等と断定的に言われてしまえば、「金湯館は3度目です」とはなかなか口にしづらくなるのが人情である。会話の流れで言い出すタイミングがなかった可能性もないとは言えない。初対面での会話のミスマッチによって事実や感情と食い違う発言をしてしまうのはそう珍しいこととは思わない。

Nさんは彼女にマイクロバスの到着を待つように説得し、その場で1時間以上話し込んだという。待つ間、Kさんは「おばさんは私の学校時代の先生に似ている」と話したり、近くの雑貨店でマップシューズ(発見時の「白いスニーカー」と思われる)を購入したりしている。「行き」はNさんに言われるがまま結局はマイクロバスで行くこととなったKさんだが、「帰り」には若女将の勧めを振り切って徒歩での下山を選択することになり、その決断が結果的に彼女の命運を分けた。

Nさん宅訪問から1時間以上してマイクロバスが到着したのが概ね午後2時とすれば、バスで20~30分、停車場から金湯館まで徒歩1時間かかるため、Kさんが宿にたどり着いたのは概ね3時半頃と推測される。

だが到着時に母と弟の2人が来られなくなった旨を伝えておらず、夕食前になってから帳場に伝えに来たため難儀させられたと旅館関係者は証言した。普段は一人旅ばかりだったのか、家族や友人と一緒のことが多いのかは分からないが、ハイヒールの件も合わせて、そうした「旅好き」らしからぬ失敗は確かに疑問ではある。

また遺留品のカメラから、温泉に着いて以降、本人がポーズをとっている5枚の写真が含まれていたことが分かった。いずれも三者にお願いして撮影してもらったものと考えられた。交友関係は広くないとされるKさんだが、Nさん宅を訪れていたり撮影を依頼するなど、極端な「人見知り」や「奥手」で人を避けていたという訳でもないようだ。

衝動的に散策を思い立ったような点や帳場への伝達ミス、端々に垣間見える積極性も彼女の人物像や道中での心境の変遷を測りがたいものにしている。

そうした写真が見つかったことで、警察側も旅館でだれかと親しくなるなど接点はなかったか、地元の知り合いと現地で遭遇・合流していなかったかといった裏取りを行い、「顔見知り」と落ち合った線を探っているが該当者は見当たらなかった。

 

写真の謎

腕時計はいつの段階で止まったものかはっきりしないが、犯行時刻とは明らかに合致しない。旅館を出てから事件発生に至る空白を埋める重要なカギを握るのは「5コマの写真」と考えられた。前述のように撮影者が被害者と親しくなってその後の行動を知っている可能性もあり、ともすれば殺害容疑も含めて重要参考人との見方も過ったはずだ。

かつては水車やディーゼルによる自家発電。電気と電話は1981年に開通した。

1、2枚目は旅館の目の前にある水車の脇で撮られたもので、ほどなくチェックアウト前の13日午前9時ごろに旅館のアルバイト従業員(21歳)が頼まれてシャッターを押していたことが判明した。

3、4枚目とされる写真は、滝状に水の流れる「堰堤」の前でKさんが映っていた。撮影場所は霧積館と金湯館をつなぐ霧積川沿いの散策路「ホイホイ坂」の途中にある「忍の池」の堰堤前だと分かった。

午後1時頃、忍の池周辺を訪れた複数の客に、Kさんの服装に合致する白っぽい帽子、紺か紫色のブラウスに白いスカート姿の女性が目撃されていた。だが午前10時にチェックアウトして真っ直ぐ「ホイホイ坂」を下れば1時間もかからない距離で、3時間もの間、何をしていたのかははっきりしておらず、同行者の有無も明らかではない。

行動について時間的整合性から憶測すれば、じっくりと山歩きをしたり道中で昼寝を楽しんだというより、下の霧積館で日帰り入浴や昼食を摂っていたと考えるのが自然ではないか。何しろ盆休みの繁忙期であり、従業員が一人客の出入りの有無を何日も覚えていないのは普通のことだ。

お湯や昼食で心満たされ、涼風にでも当たるために川沿いまで戻ってきたのではないかと筆者は推測する。

下のYAMAP動画(1:10頃)で2019年7月撮影の滝状に流れる堰堤が見られる。

youtu.be

地元紙・上毛新聞で「殺される直前」の「午後1時半前後に撮影された写真」として8月19日に堰堤前で撮られた1枚の写真が掲載された。

すると19日夜に「私が撮った」という東京都世田谷区に住む「石田」と名乗る男性(自称22歳)が新聞社に電話で名乗り出た。20日の紙面が伝えるには、13日に友人と二人で車に乗って釣りに訪れた石田さんは横川のドライブインで霧積川がいいと教えられて、霧積館に車を停めて少し山に入り、忍の池付近で釣りを始めたという。

そこへKさんらしき女性が現れてカメラ撮影を求められ、「カメラは弱い(疎い)ので」と一旦断ろうとしたが「シャッターを押すだけなので」と言われて2回切ったとされる。時刻ははっきりしないが昼過ぎとされ、20日に友人と谷川岳に登った後、県警に出向いて当時の状況を説明すると話していた。

上毛新聞は20日に「石田」から名乗り出があったことを報じ、前日掲載した写真と、もう一枚同じ場所・似たようなアングルで撮影されたものとの2枚を並べて掲載。「2回シャッターを切った」との証言の信憑性が高いことを匂わせる紙面構成になっている。

しかし結局、石田なる人物は現れず、電話主が語った身辺情報に該当する人物は存在しないことが分かった。

 

残る一枚、Kさんが写った「最後の写真」と呼ばれるものが更なる謎を呼ぶ。

撮影場所の特定のために警察から写真を見せられたという当時の金湯館の主人の話によれば、「被害者が最後に写っていた写真だと聞きました。あれは確か金洞の滝の前で撮った写真でした」と言う。水車前での写真を撮影した元アルバイト従業員も警察から同じように言って見せられたとその証言を裏付ける。

下のストリートビューは金洞の滝付近。

 

しかし『迷宮入り!?未解決殺人事件の真相』(2003,宝島社)の共著者・フリーライター桐島卓氏がKさんの地元を取材しており、すでにKさん家族の住まいはなくなっていたが、写真について異なる証言をする女性が現れた。

警察からKさんの遺留品が家族に返された際、「あの娘が最後に写っているという写真」を見せてもらった。「笹薮の中で女性が独りでぼーっと立っている」「気味の悪い写真」で、「脚の途中から白い煙だか雲みたいなものが出ていて、下の方が切れてる」(映っていなかった)と言い、その表情も生気がなく感じられ「抜け殻みたい」だったとされる。

これを語った女性こそ、Kさんの弟の代わりに旅行に誘われたものの結局行かないことになった人物で、彼女の夫(取材当時すでに他界)アマチュア無線で現地から遺体発見の報を伝えたという、Kさん家族と非常に身近な人物であった。

話を聞いた桐島氏は、その女性が見せてもらったという心霊写真めいた写真こそ真の「第5の写真」ではないかと結論付けた。

「第5の写真」の是非を巡っては、未解決事件ブロガーmaeba28氏による『雑感』に詳しい検討がなされている。要約すれば、桐島氏の記事では上毛新聞に掲載された写真を「1枚」だと誤認していた可能性や出版時にミステリー色を強めるために脚色した可能性があること、女性の証言に心霊写真めいた写真が「5コマ撮影された5枚目」と断定する要素はない(遺留品のカメラにあった写真の中の一枚で霧積温泉以外で撮られていたもの)として、金湯館の主人が見せられた金洞の滝の写真が5枚目か、あるいは5コマの中にKさん本人が撮影したと思われる写真も交っていたのではないかとmaeba28氏は推論する。

筆者も脚色説に同意見である。

ameblo.jp

迷宮入り!?未解決殺人事件の真相: 真犯人たちは、いまどこにいるのか? (別冊宝島Real 53)


事件から先1~2か月は、霧積館からダム工事現場一帯が警官や機動隊員だらけで凶器や遺留品を求めての水中捜査や薮さらいが繰り返されていたという。捜査対象者は当日の旅行者や伊勢崎のKさんの関係者、地元住民5000世帯への二度のローラー作戦、近郊の作業従事者、県内の前科者など拡大の一途を続けた。

旅館では事件当時だけでなく、5年10年分の宿泊者名簿まで遡って提出を求められたと話している。

その一方で、旅館には偽名を使った「お忍び」の宿泊者もいなかったとは言い切れず、霧積川では車で30台前後の釣り人も多く同地を出入りしていたはずだが、特定できないものも多かった。旅先でニアミスした猟奇殺人について余計なことを言って関わり合いたくないという心情も理解できる。捜査班では類似事件の前歴者をふるいにかけて5名リストアップし、昼夜を問わず監視対象としたが、最終的には捜査対象から外されたという。

 

所感

1990年代には下のように心霊スポットのような取り上げ方をされたこともあったが、単なるオカルトには回収されず未解決事件として語り継がれている。

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犯人像としては、強制わいせつ狙いの単独犯。盆休みで山には避暑を求め、名湯を求めて各地から人が押し寄せていたが、刃物や軍手の所持という点から見て「渓流釣り客」が最も違和感なく当てはまる。登山者の装備品でもおかしくはないが、温泉地でもあり単独行で訪れる山という気があまりしない。

現場状況としては、待避所はあるものの車両のすれ違いが困難な山の一本道である。カーブでは人目を避けることができ、川音や夏山の喧騒で声もかき消され、幅寄せすれば逃げ場もほとんどないため車での拉致に適したロケーションと言ってよいかもしれない。

また水筒の有無などは分からないが、被害者は長い道中に備えて霧積館で水分補給などもしていようし、歩き続ければどこかで用便を足したくなるに違いない。そんなところに小屋が見え、トイレを期待してか、あるいは人目を忍ぶ物陰を求めてか、自ら近づいていったことも充分考えられる。

渓流釣りは夕暮れ前に下山の必要があるため、早朝から行動するのがセオリーである。そのため現地に泊りがけで訪れる前乗りも少なくない。ある程度、通いなれた人間であれば人の来ない作業小屋があることを知って宿泊所代わりにしていた者もあったのではないか。

薄着姿の若い女性が小屋の陰で小用をする場を見掛けたり、休憩中に訪ねてきた女性が「トイレを貸してほしい」等と困り顔で声を掛けてきたりすれば、変な気を催す人間があっても不思議はない。

犯人もはじめは刃物を見せて脅迫し、女性に大人しく下着を脱ぐように迫っただろう。しかし傷痕の状況や彼女のそれまでのやりとりから見て、猛烈な抵抗があったことは想像に難くない。ひょっとすると男が切りかかるより先に刃物を奪われそうになったかも分からないし、抵抗を受けて犯人も負傷したとも考えられる。無論、DNA型鑑定のない時代で確かめようもないのだが。

顔を見られ、相手に怪我を負わせれば、もはや生かして逃がすわけにはいかなくなる。口止めしようにも彼女は黙って従う性分でもなさそうだ。小屋中追いかけ回して切りつけても、刺しても、容易に息の根を止めることができず、犯人は恐怖のあまりマウントポジションを取って心臓めがけてとどめを刺さなくてはならなかった。

(「何てことをしてしまったんだ…」)

男は川へ運んで遺棄したり、夜まで待って遠方に移動させることは考えなかった。とにかく死体と血痕を視界から消し去るためベニヤやトタンで覆い、すぐにその場を逃げ出さなくてはならなかった。

男は小心者の変態で、地元民ではなく都市部からよく釣行に通っていた非力な若者ではなかったか。たとえば群馬~長野に地元があり、帰省中で暇に任せて釣りに来た学生などが思い浮かぶ。

筆者は、犯人が写真撮影に関わっていたり、「石田」を名乗ったりしたとは考えていない。犯人がそこまで大胆な人間だとは思えないのである。よほど犯罪慣れした人物ならばそこまで残忍な殺戮には及ばず、カメラや財布など金目の物を奪うはずだが金品被害は聞かれていない。

ゴールデンウィークや盆暮れ正月、人々はいつもと違う行動パターンを採る。無制約な状況が普段ならば起こらないような事件を引き起こしたり、平時ならばすぐ解決できるような事件も一層難しいもの、読みづらいものに変容させてしまう。

だが相手がどんな人物で、その動機が何であれ、人ひとりの命を奪った事実に変わりはない。とりわけ娘の身を案じて駆けつけた父親の心情たるや、想像を絶する苦痛であったことであろう。

 

被害者のご冥福とご家族の心の安寧をお祈りいたします。