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北朝鮮、処理水巡り韓国で反日扇動…スパイ組織に指令「日韓対立を取り返しつかない状況に追い込め」
【読売新聞】 【ソウル=小池和樹】北朝鮮が韓国内で運営する自国のスパイ組織に対し、東京電力福島第一原子力発電所の処理水放出に関して反日行為を扇動するよう指示する指令文を送っていたことが判明した。大量の指令文を証拠採用した韓国の裁判所

北朝鮮が韓国内で運営する自国のスパイ組織に対し、東京電力福島第一原子力発電所の処理水放出に関して反日行為を扇動するよう指示する指令文を送っていたことが判明した

【主張】処理水と国会審議 「風評」を流す野党がある 
 国会が8日、東京電力福島第1原発処理水の海洋放出に関する閉会中審査を開いた。

立民は誤った風評を拡散させている党所属議員の言動に厳しく対処していないという深刻な問題を抱えたままである。

同党の石垣のり子参院議員は処理水を「汚染水」と呼び放出中止を求めた。7月には阿部知子衆院議員ら複数の立民議員が、韓国の野党とともに放出反対の共同声明を出した。れいわ新選組や社民党の議員も名を連ねた。

福島を傷つける風評を広げる所属議員を厳しく処分、指導しない政党は無責任だ。立民は党を挙げて海洋放出の安全性を内外で説いたらどうか。

民主党政権時の菅直人総理

首相、拉致容疑者の釈放嘆願署名「間違いを反省」 - 日本経済新聞
菅直人首相は14日の衆院本会議で、北朝鮮による日本人拉致事件に関与した容疑で国際手配されている辛光洙容疑者の釈放を求める嘆願書に菅氏が署名していたことについて「民主化運動で逮捕された

菅直人首相は14日の衆院本会議で、北朝鮮による日本人拉致事件に関与した容疑で国際手配されている辛光洙容疑者の釈放を求める嘆願書に菅氏が署名していた

拉致議連、首相の献金問題で調査委員会 - 日本経済新聞
超党派の国会議員でつくる拉致議員連盟(会長・たちあがれ日本の平沼赳夫代表)は29日午前の総会で、菅直人首相の資金管理団体が北朝鮮による日本人拉致事件容疑者に関連

菅直人首相の資金管理団体が北朝鮮による日本人拉致事件容疑者に関連する政治団体に献金していた問題

北朝鮮の発射したロケットのうち、日本列島上空を飛んだもの

北朝鮮によるミサイル発射実験 - Wikipedia
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 北朝鮮によるミサイル発射実験 (きたちょうせんによるミサイルはっしゃじっけん)は、 北朝鮮 による大規模な 弾道ミサイル 発射実験。 1980年代から、北朝鮮は スカッドミサイル の発射実験を行っていた。技術を蓄積し、独自のミサイルを開発。そして1993年、1998年、北朝鮮はミサイル発射を行う。 1999年9月に、北朝鮮はミサイル発射のモラトリアム(一時停止)を発表。その後、ミサイル発射の モラトリアム の維持を誓約。しかし北朝鮮は2006年7月5日にミサイル発射実験を行った [ 1 ] 。 2006年7月15日、 国連安保理 は 国際連合安全保障理事会決議1695 を決議した。 正文 では、"Demands that the DPRK suspend all activities related to its ballistic missile programme, and in this context re-establish its pre-existing commitments to a moratorium on missile launching;"と決議していて、北朝鮮に弾道ミサイル計画に関連するすべての活動を一時停止することを要求している。 日本政府 などは、以降の発射は、たとえ宇宙開発が目的であろうとも国連安保理決議に違反していると見做している。 また、他国は一般的には、ミサイルや ロケット の発射をする際には、船や航空機の安全のために事前通告を行っている [ 1 ] [ 2 ] 。 北朝鮮は発射実験を国際機関へ通告せずに行うことがある。2009年から2016年の 銀河2号 ・ 銀河3号 ・ 光明星 の発射時は事前に 国際海事機関 や 国際民間航空機関 に発射を通告している。北朝鮮は 人工衛星 搭載の打ち上げロケット発射は純粋な平和目的の宇宙開発であると主張している。これに対し、日本・ 韓国 ・ アメリカ ・ 国際連合安全保障理事会 は、仮に人工衛星搭載でも、ミサイル関連技術の一時停止を要求する安保理決議1718と安保理決議1874に違反していると見なしている [ 3 ] 。 日本はミサイル発射のたびに厳重な抗議をしているが、元 東京新聞 論説兼編集委員の 半田滋 によれば「 ファクス で一方的に抗議文を送りつけるだけ」であるとしている [ 4 ] 。 航空自衛隊が捉えたミサイルに関連していると推定されるもの(2023年2月18日) 日本上空を通過した北朝鮮のロケット・ミサイルの弾道(2017年) 日本上空を通過した北朝鮮のロケット・ミサイルの射程と高度(2017年) 北朝鮮の発射したロケットのうち、 日本列島 上空を飛んだもの No. 日時 型 飛翔エリア 予告 北朝鮮の主張 衛星名 推定飛行距離 1 1998年8月31日 テポドン1号 秋田県沖 なし 衛星打ち上げ 光明星1号 2 2009年4月5日 銀河2号 秋田県・岩手県 あり 光明星2号 3 2012年12月12日 銀河3号 沖縄県沖 光明星3号 4 2016年2月7日 光明星1号(銀河3号) 沖縄県 光明星4号 5 2017年8月29日 火星12 北海道沖 なし ミサイル発射 該当なし 6 2017年9月15日 7 2022年10月4日 午前7時22分頃 新型地対地中長距離弾道ミサイル 北海道・青森県 該当なし 約4600 km(過去最高) [ 5 ] 。 国際連合 報告者は、北朝鮮は物資不足で飢餓の恐れがあるなか、ミサイル発射実験を行っていると報告した [ 18 ] 。北朝鮮当局は、2021年4月、国民に対し「 苦難の行軍 」を実施すると公表し、1990年代後半の飢餓の再来を予告している [ 19 ] 。 2021年9月11日、12日、北朝鮮は2度にわたり 日本海 に向けて 巡航ミサイル を発射した [ 20 ] 。また、同月15日12時32分頃と12時37分頃 [ 21 ] 、有蓋 貨車 から [ 22 ] 日本海に向けて 弾道ミサイル を2発発射した [ 23 ] [ 24 ] 。 これについて、 岸田文雄 前 政調会長 は9月13日に外交・安全保障政策について記者会見し、弾道ミサイルを相手国領域内で阻止する「 敵基地攻撃能力 」の保有について「有力な選択肢」と発言 [ 25 ] 、 内閣総理大臣 就任後も、北朝鮮のミサイル基地を先制攻撃して無力化する能力の向上に前向きな姿勢をみせた [ 26 ] 。 高市早苗 もまた、そのための法整備を急ぎたい考えを示した [ 27 ] [ 注釈 1 ] 。こうした流れを受けて、11月12日、日本の 防衛省 では「防衛力強化加速会議」についての会合が持たれた。また、2021年10月17日、 アメリカ国防総省 の情報機関は、北朝鮮の軍事力に関する報告書を発表し、北朝鮮が2021年から 2022年 にかけて長距離弾道ミサイルの発射実験を再開する可能性があるとして、警戒感を示した [ 28 ] 。 東京新聞 は2023年3月19日の報道で国際 NPO 法人グローバル・フィッシング・ウオッチとの共同調査の結果、北朝鮮の弾道ミサイルが日本の漁船にとって脅威であるにもかかわらず、それらに対する情報発信が消極的なことを指摘した [ 29 ] 。
  • 1998年8月31日
  • 2009年4月5日
  • 2012年12月12日
  • 2016年2月7日
  • 2017年8月29日
  • 2017年9月15日
  • 2022年10月4日

江陵浸透事件(韓国)

江陵浸透事件 - Wikipedia
江陵浸透事件 座礁した北朝鮮のサンオ型潜水艦 時 1996年9月17日 – 1996年11月7日 場所 大韓民国 江原道 江陵市 付近の海岸 結果 韓国の勝利。韓国軍は11月7日に掃討作戦終了を宣言 衝突した勢力 大韓民国 朝鮮民主主義人民共和国 戦力 韓国軍 43,000人 サンオ型潜水艦 1 工作員・乗組員 26人 被害者数 死者12人 負傷者27人 死者24人 逮捕1人 行方不明1人 潜水艦1隻拿捕 [ 1 ] 民間人4人死亡 [ 1 ] 江陵浸透事件 各種表記 ハングル : 강릉지역 무장공비 침투사건 漢字 : 江陵地域武裝共匪浸透事件 発音 : カンヌンチヨ ク ムジャンコンビ チ ム トゥサゴン 日本語 読み: こうりょうちいき ぶそうきょうひ しんとうじけん RR式 : Gangneungjiyeok mujanggongbi chimtusageon MR式 : Kangnŭngchiyŏk mujangkongbi ch'imt'usagŏn 英語 表記: Gangneung submarine infiltration incident テンプレートを表示 江陵浸透事件 (カンヌンしんとうじけん)は、 韓国 の 江原道 江陵市 付近の海域において、韓国内に侵入して 偵察活動 を行っていた 工作員 を回収しにきた 北朝鮮 の特殊 潜水艦 ( サンオ型潜水艦 )が海岸に接近したところ 座礁 し、帰還の手段を失った乗組員と工作員26名のうち艦長以下11名が集団自決、他は韓国内に 逃亡 ・潜伏し、 大韓民国国軍 がこれに対し掃討作戦を展開した事件 [ 2 ] [ 3 ] [ 4 ] 。 侵入事件は 1996年 9月18日 に発覚し、韓国はのべ150万人の軍・ 警察 関係者を動員して捜索活動を行い、掃討作戦終了日の1996年 11月7日 までの間に工作員3名を含む乗組員26人のうち24名の死亡を確認、1人を 逮捕 したものの1人は逃走した [ 2 ] 。北朝鮮側が逮捕1名、行方不明1名、射殺13名、集団自決11名であったのに対し、韓国側の被害は、 軍人 12名(事故死4名を含む)、 警察官 1名(事故死)、民間人4名(事故死1名を含む)の計17名が死亡、27名が負傷した [ 2 ] [ 4 ] 。なお、韓国当局は座礁した潜水艦から RPG-7 、 M16 、 AK-47 、対戦車 手榴弾 などの火器類、 地図 、偵察用 カメラ など計327種4012点を押収した [ 2 ] 。 本事件の当事者証言としては、韓国で逮捕された北朝鮮工作員、 李光洙 (イ・グァンス)の『潜航指令』がある [ 5 ] 。 工作任務を帯びた北朝鮮のサンオ型潜水艦は、1996年 9月13日 未明に 元山 近郊の海軍基地を出航すると、すぐに潜望鏡深度に潜航し、 シュノーケル を用いて南下した [ 5 ] 。潜水艦は、軍事境界線を越える際、 エンジン を停止してシュノーケルを下ろし、動力源をバッテリーに移行、深度約150メートルを数ノットの超低速で隠密裏に越境した [ 5 ] 。周辺海域では当時、 韓国海軍 による警備が行われていたが、 ソナー や 対潜哨戒機 に気づかれることはなかった [ 5 ] 。越境の数時間後、潜水艦はシュノーケルを出してエンジンに点火し、潜望鏡深度での南下を続けた [ 5 ] 。 9月15日 、潜水艦は人気の少ない江陵市沖の海域に到着した [ 5 ] [ 注釈 1 ] 。そして、工作員3名が 土台人 への 埋没連絡 および軍事施設の写真偵察のため、艦首のエアロック室から海中に放たれ、泳いで上陸することを指示された [ 5 ] 。その後、艦は沖に出て潜望鏡による海上偵察を行いながら工作員の帰還を待った [ 5 ] 。 しかし 9月17日 、工作員を回収するために海岸に接近したところ、波に押し流されたために座礁した [ 5 ] 。潜水艦内では数時間にわたる離礁作業を実施したが、 スクリュー が破損したため脱出は絶望的となった [ 5 ] 。潜水艦艦長は、艦の放棄を決定し、総員を離艦させた [ 5 ] 。また、潜水艦を遠隔操作で爆発させ、艦内の機材や機密文書等を処分することで証拠隠滅を図ったが、効果は不十分に終わった [ 5 ] 。後日、潜水艦の船体を含め、処分できなかった千点を超える物品が証拠資料として押収された [ 5 ] 。 離艦した乗組員は、全員泳いで海岸に上陸したが、近隣の山野に潜伏せざるを得なくなった [ 5 ] 。 乗組員上陸から約2時間後の 9月18日 未明、海岸沿いの道路を走行していた タクシー 運転手らが潜水艦を発見し、当局に通報した [ 2 ] [ 3 ] 。座礁艦発見の1時間後、韓国軍は対 スパイ 浸透要領である「 珍島犬警報 」に基づく非常呼集(珍島犬1号)を発令、江陵市北方を中心に掃討作戦を開始した [ 3 ] 。北朝鮮に対する韓国世論も硬化し、 金泳三 大統領 は、翌日「武装ゲリラによる許しがたい武力挑発」と断定、強硬な立場を表明した [ 3 ] 。 なお、押収された工作員の カメラ には、 飛行場 、海岸の風景、通信基地の 鉄塔 などが写っていた [ 2 ] 。 9月18日 、現場から約20キロメートル離れた山中で、集団自決した艦長と 政治将校 を含む 北朝鮮工作員 11名の遺体が発見された。検視の結果、自決した政治将校は 青酸カリ を服毒して倒れた10名の頭部を トカレフ で撃ち抜いて止めを刺した後で、自らも青酸カリを服毒した上に頭を撃ち抜いて死亡したことが判明した [ 注釈 2 ] 。 9月19日 、韓国軍は、捜索地域3ヵ所で工作員7名を射殺し [ 5 ] た。そのうちの1ヶ所では、部隊が捜索を実施していたところ、穴を草木や落ち葉で隠した 蛸壺壕 (通称「ピット」)を掘って潜伏していた工作員1名が、機先を制してピットを飛び出して部隊に手榴弾を投擲し、その爆発の混乱に乗じて逃走したが、まもなく韓国軍の増援部隊による ヘリボーン 作戦で退路を断たれ射殺された [ 5 ] 。また、単独行動中だった工作員1名(李光洙)が、民家に侵入したところを駆けつけた警察官に逮捕された [ 5 ] [ 注釈 3 ] 。 9月21日 、逃走中の工作員との銃撃戦が発生し、工作員2名を射殺したものの韓国軍に1名の戦死者が出る。この事件における韓国側初の戦死者である。別件で、自身の小銃を暴発させた韓国軍兵士1名が死亡する事故が発生した。 工作員は道のない山中を時速10キロで移動、その射撃は遠距離から正確に韓国軍兵士の眉間を撃ち抜いており、韓国軍と社会は北朝鮮特殊部隊員の高い能力に震撼した [ 5 ] 。 9月22日 、この日の未明、工作員の予想接近経路と見積もられていた地域で張り込みを行なっていた韓国軍部隊が、工作員2名に遭遇し、銃撃戦となった。銃撃戦の結果、工作員2名を射殺したものの、兵士2名が戦死した [ 5 ] 。同日、民間人の巻き添えも発生。捜索地域の山中で キノコ 採りをしていた民間人1名が、工作員と誤認した韓国軍兵士によって誤射され死亡した。当時は、捜索地域に住む住民に

韓国の江原道江陵市付近の海域において、韓国内に侵入して偵察活動を行っていた工作員を回収しにきた北朝鮮の特殊潜水艦(サンオ型潜水艦)が海岸に接近したところ座礁し、帰還の手段を失った乗組員と工作員26名のうち艦長以下11名が集団自決、他は韓国内に逃亡・潜伏し、大韓民国国軍がこれに対し掃討作戦を展開した事件

侵入事件は1996年9月18日に発覚

韓国側の被害は、軍人12名(事故死4名を含む)、警察官1名(事故死)、民間人4名(事故死1名を含む)の計17名が死亡、27名が負傷した[2][4]。なお、韓国当局は座礁した潜水艦からRPG-7、M16、AK-47、対戦車手榴弾などの火器類、地図、偵察用カメラなど計327種4012点を押収した

九州南西海域工作船事件(日本)

九州南西海域工作船事件 - Wikipedia
この記事は 中立的な観点 に基づく疑問が提出されているか、議論中です 。 そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論は ノート を参照してください。 ( 2023年3月 ) 九州南西海域工作船事件 (きゅうしゅうなんせいかいいきこうさくせんじけん)とは、 2001年 ( 平成 13年) 12月22日 に 東シナ海 で発生した 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) の工作船である 不審船 の追跡事件である。不審船は 日本 の 海上保安庁 の 巡視船 と交戦の末に爆発、 沈没 した [ 4 ] 。 九州南西海域不審船事案 [ 5 ] 、 奄美沖不審船銃撃事件 [ 6 ] などとも称される。 諸外国では 奄美大島沖海戦 ( 英 : Battle of Amami-Ōshima )と呼称される [ 7 ] 。 1999年 (平成11年) 3月23日 、 日本海 で 能登半島沖不審船事件 が発生し、日本の近海で北朝鮮による工作船が暗躍している可能性が認められていた。 本事件における最初の不審船の情報は、 2001年 (平成13年) 12月18日 に アメリカ軍 から情報を受け取った 防衛庁 により、 海上保安庁 (海保)へと伝達された。海保はこの情報を元に、 東シナ海 の 公海 上で 漁船 のような外観の国籍不明の不審船を発見。日本の 排他的経済水域 (EEZ)内において、不審船の乗組員が 排他的経済水域における漁業等に関する主権的権利の行使等に関する法律 第5条第1項の規定に違反する 無許可漁業 等を行っている疑いがあった [ 8 ] として、 漁業法 に基づいて停船を命令、 巡視船 による 立ち入り検査 を試みたが、当該不審船はこれを無視して逃走した。 これを受けて、巡視船は漁業法違反(立入検査忌避)容疑で上空や海面への 威嚇射撃 を行ったが、なおも不審船が逃走を続けたため、警告を発した後に 海上保安庁法 に基づいて、 機関砲 による船体射撃を行った。 22日深夜に、巡視船が不審船に強行接舷を試みたところ、乗員が巡視船に対して突如として 小火器 や 携行式ロケット砲 による攻撃を開始した。これを受けて巡視船側も正当防衛射撃で応射し、激しい銃撃戦が繰り広げられた。 その後、不審船は突如 爆発 を起こし 沈没 した。この銃撃戦で日本側は 海上保安官 3名が 銃弾 を受けて軽傷を負い、不審船側は推定15名の乗組員全員が死亡したものとされている(うち8名の死亡のみ確認)。 事件発生直後は「九州南西海域 不審船 事件」などと表現されていたが、沈没した不審船を 海底 から引き上げた結果、 北朝鮮 の工作船であることが判明し、現在では「九州南西海域 工作船 事件」と称される。 2001年 (平成13年) 12月18日 頃に、 在日米軍 から 不審船 に関する情報が防衛庁に提供され、それを受けて各 通信所 に北朝鮮に関する 無線 の傍受を指示、翌 12月19日 に 喜界島通信所 が不審な通信 電波 を捕捉したため、 海上自衛隊 機は 喜界島 近辺海域を哨戒した。 12月21日 16時32分に、 鹿屋航空基地 所属の ロッキード P-3C 対潜哨戒機 が、 東シナ海 の九州南西海域(奄美大島の北北西150キロ)において、船体に「 長漁3705 」と記された、漁船に似た不審船を発見した。一報は17時30分に 中谷元 防衛庁長官 に、18時頃には 内閣総理大臣秘書官 、 内閣官房長官 秘書官 、 内閣官房副長官 秘書官 にも伝えられた。 防衛庁 は、18時30分頃に鹿屋航空基地に帰投したP-3Cが撮影した画像を 解析 し、対象船舶は北朝鮮の工作船の可能性が高いと判断、翌 12月22日 1時に防衛庁長官に「工作船の可能性が高い」との分析結果が報告され、1時10分、内閣総理大臣秘書官、内閣官房長官秘書官、内閣官房副長官秘書官、海上保安庁に通報した。通報を受けた 井上義行 内閣官房副長官秘書官は 安倍晋三 内閣官房副長官 らと、 首相官邸 別館にある 危機管理センター で対応策を協議した結果、 特殊警備隊 (SST)の投入が検討された [ 9 ] 。 通報を受けた海上保安庁は、これを捕捉すべく追尾することとし、 第十管区 ( 鹿児島 )、 第十一管区 ( 那覇 )本部の稼動可能な 航空機 および 巡視船 艇を出動させた。 海上保安庁は、事件発生後まもなく、第十管区( 鹿児島 )及び鹿児島海上保安部に 捜査本部 を設置し、事件の全容解明に向けた捜査を開始した [ 4 ] 。また、第七( 北九州 )、第八( 舞鶴 )管区などにも警戒態勢をとらせた。現場に向かった巡視船艇は24隻、航空機は14機に及んだ [ 10 ] 。 海上自衛隊も、情報を受けて 佐世保地方隊 の一部に緊急出航を命じた。11時20分に 佐世保基地 から 護衛艦 「 こんごう 」、「 やまぎり 」( 第2護衛隊群 所属)を現場へ向かわせている。 日本国政府 からは、海上自衛隊の 特別警備隊 (SBU)に出動待機命令が発令された。 同日6時20分、 奄美大島 の北西240キロで西進する船影を海上保安庁の ビーチ350 が確認、12時48分には、まず 180トン型巡視船 「いなさ」(当時長崎海上保安部所属)が不審船を視認した。約20分後、「漁業法励行」のため、船尾に 国旗 を掲揚していない不審船に対して航空機と巡視船から最初の停船命令が発せられた。 不審船はこれを無視して逃走を続けたため、 拡声器 と 無線 による多言語、 旗りゅう信号 、 発光信号 、 汽笛 などによる音響信号、 発炎筒 による度重なる停船命令を行った。しかし、不審船はさらに逃走を続け、15時ごろにはEEZの 日中中間線 を超えてなおも西進を続けた [ 10 ] 。 この時点で「漁業法違反容疑(立ち入り検査忌避)」が成立したため、巡視船は「停船しなければ銃撃を行う」という意味の旗りゅう信号を マスト に掲揚し、 朝鮮語 などの多言語で同様の射撃警告を行った後、逃走防止のため、 海上保安庁法 第20条1項を遵守しながら、14時36分から RFS 付 20mm機関砲 による不審船の上空および海面への 威嚇射撃 を行った。以後、45分間にわたって断続的に計5回、段階的に警告度を高めつつ威嚇射撃を実施したものの、不審船はいずれも無視して逃走を続けた。 不審船側は立ち入り検査と威嚇射撃を止めさせるためか、乗組員が甲板上で 中国の国旗 のような赤い布を振って見せた。なお14時15分の時点で、縄野海上保安庁長官は、船体を狙った射撃も含めた威嚇射撃を許可していた。またこの間に、350トン型巡視船「 あまみ 」(当時名瀬海上保安部所属)、180トン型巡視船「 きりしま 」(当時串木野海上保安部所属)も現場に到着していた [ 10 ] 。 海上保安庁法第20条によると、危害射撃が可能な基準(海上保安官が武器を使用して相手に危害を加えた場合に 免責される基準 )は 警察官職務執行法 第7条を 準用 し、 正当防衛 、 緊急避難 、重大凶悪犯罪(懲役3年以

1999年(平成11年)3月23日、日本海で能登半島沖不審船事件が発生し、日本の近海で北朝鮮による工作船が暗躍している可能性が認められていた。

巡視船が不審船に強行接舷を試みたところ、乗員が巡視船に対して突如として小火器や携行式ロケット砲による攻撃を開始した。これを受けて巡視船側も正当防衛射撃で応射し、激しい銃撃戦が繰り広げられた。

死亡者 15人(北朝鮮側)

負傷者 3人(日本側)

北朝鮮による日本人拉致事件

北朝鮮による日本人拉致事件 - Wikipedia
拉致被害者家族と内閣総理大臣の 安倍晋三 ・アメリカ大統領の ドナルド・トランプ ( 2017年 11月6日 、 迎賓館赤坂離宮 ) 北朝鮮による日本人拉致事件 (きたちょうせんによるにほんじんらちじけん)とは、 北朝鮮工作員 などによって多くの 日本人 が、 日本 国内や ヨーロッパ から北朝鮮に 拉致 された事件である。 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 (通称、「救う会」)では、それぞれの拉致事件を次のように分類している [ 1 ] 。 (1) 工作員日本人化教育の教官とその配偶者にさせるために拉致されたケース (2) 拉致した日本人を工作員として使おうとしたケース (3) 実行犯工作員が当人になりすますために拉致する、いわゆる「 背乗り 拉致」 宇出津事件の 久米裕 (1977年) 辛光洙事件の 原敕晁 (1980年) (4) 以上にあてはまらない、もしくは拉致目的が不明なケース 2002年 (平成14年)9月、内閣総理大臣の 小泉純一郎 が北朝鮮を訪問したことで実現した 日朝首脳会談 において、北朝鮮の最高指導者である 金正日 は、 1970年代 から 1980年代 にかけての 拉致事件 の背景として、 被害者の身分を利用した韓国への不正入国( 日本旅券 の取得) 特殊機関での 工作員 への 日本語 指導(日本人化教育) の2点を挙げた [ 2 ] 。 元北朝鮮工作員で 脱北 した 安明進 は、日本人拉致の原点は北朝鮮の掲げる最高目標「朝鮮半島の赤化統一」にあり、「最高目標のためには手段を選ばず実行」する方針にもとづき、工作員を南の分断国家である 韓国 へ送り込んで、韓国各界に協力者をつくり、増殖させながら革命に向けた工作活動を展開することにあると指摘している [ 2 ] 。 平壌 留学の経験もある 関西大学 の 李英和 は、 1950年代 から 1960年代 にかけては、日本から 在日韓国・朝鮮人 が拉致されたケースが少なくなかったと述べ、具体例として、平壌留学中に出会ったある在日男性から次のような告白を聞いたことを証言している [ 2 ] 。 中学生のとき、アメリカの 遊園地 に行こうと誘われて日本を出たが、着いたのは北朝鮮。そのまま日本発行の再入国許可証と 外国人登録証 を取り上げられ「代わりの人間が日本へ渡ったから、もうお前は戻れない」と宣告された [ 2 ] 。 李英和は、在日が忽然と姿を消しても日本人ほどの騒動にはならないという計算も働いていただろうと分析している [ 2 ] 。なお、李英和は帰国直前の1992年11月に朝鮮社会科学院の教官から、詳細な「 拉致講義 」を受けている [ 3 ] 。 しかし、 1974年 の在日韓国人による 韓国大統領 暗殺未遂事件 、すなわち 文世光事件 で状況は一変する [ 2 ] 。 金正日は、小泉に対し、以下のように 特殊機関 の一部が日本人拉致した事実を認め、謝罪した [ 4 ] 。ただし、1977年、北朝鮮の工作員たちに対し「マグジャビ」(手当たり次第)に外国人を誘拐するよう命じたのは金正日その人であった [ 5 ] 。 70〜80年代に特殊部署が妄動主義、英雄主義に駆られ、工作員の 日本語 教育と、日本人に成りすまして韓国へ侵入するために日本人を拉致したが、このような誤った指示をした幹部を処罰した…。 工作船 は軍部が訓練の下でした。私は知らなかった…。再びないようにする。 そして、処罰したとされるのが、 チャン・ボンリム と キム・ソンチョル であった [ 4 ] 。2人は 1998年 、職権濫用を含む6件の容疑で裁判にかけられ、チャンは 死刑 、キムは15年の長期教化刑に処せられたという [ 4 ] 。しかし、この2人は 対外情報調査部 の副部長であって、 作戦部 副部長ではない [ 4 ] 。チャンとキムは 1997年 8月の「調査部事件」で粛清された2人であって、拉致問題とはまったく関係のない人物であった [ 6 ] 。また、対外情報調査部は工作船を有しておらず、工作船を用いた拉致は労働党作戦部でなければ実行不可能である [ 4 ] 。したがって、日本人拉致問題の責任を負うべきは、拉致の指示を出した金正日自身以外では、作戦部長の 呉克烈 だったはずである [ 4 ] [ 注釈 1 ] 日本側の安否確認に対しては、北朝鮮側は 地村保志 、 浜本富貴恵 、 蓮池薫 、 奥土祐木子 の4人の生存を明らかにし、 横田めぐみ 、 田口八重子 、 市川修一 、 増元るみ子 、 原敕晁 、 松木薫 、 石岡亨 、 有本恵子 の8人を「死亡」と発表した [ 7 ] 。 さらに、日本側も把握していなかった 曽我ひとみ の拉致・生存と、横田めぐみの娘の生存も明らかにした [ 7 ] 。 久米裕 、 曽我ミヨシ については入国自体を確認できないとした [ 7 ] 。 日本政府が認定した拉致被害者は 久米裕 、 横田めぐみ 、 田口八重子 、 浜本富貴恵 、 地村保志 、 蓮池薫 、 奥土祐木子 、 市川修一 、 増元るみ子 、 曽我ひとみ 、 曽我ミヨシ 、 松木薫 、 石岡亨 、 有本恵子 、 原敕晁 、 田中実 、 松本京子 (肩書・年齢は当時、敬称略。被害者家族の決断により実名報道されている)の17人。このうち、浜本、地村、蓮池、奥土、曽我ひとみの5名は日本に帰国している。 2007年 (平成19年) 4月12日 、 警察庁 はこれに加え北朝鮮工作員と結婚した日本人女性の子供2人(当時長女が6歳と長男が3歳)が 1974年 (昭和49年)6月中旬に行方不明になった事案について、複数人の工作員関係者からの証言などから「北朝鮮による拉致被害者と断定した」と正式発表した( 2児拉致事件 )。よって同事案は政府認定拉致被害者にかかる拉致事件と同様に政府認定の拉致事件であるが、被害者たる子供2人が 朝鮮籍 であり、 日本国民 であることを要件とする 拉致被害者支援法 の認定基準には該当しないため、子供2人は拉致被害者としては認定されていない [ 8 ] [ 9 ] [ 10 ] (2020年12月現在)。 1977年(昭和52年) 9月19日 拉致 被害者: 東京都 三鷹市 役所勤務 警備員 男性、 久米裕 ( 1925年 2月17日 - 当時52歳) 実行犯: 金世鎬 (国際手配中)、 李秋吉 石川県 宇出津海岸付近にて 失踪 北朝鮮側は久米の入国を完全否認しているが、北朝鮮工作員に包摂され土台人にされた在日朝鮮人の 李秋吉 が「45歳から50歳位の日本人独身男性を探せ」との指示を受け、かねてから知り合いであった久米を海岸に連れ出し、 工作船 で迎えに来た別の北朝鮮工作員に同人を引き渡した事実が判明している [ 11 ] 。この1件だけでも「拉致したのは13人だけ」との北朝鮮の主張は嘘であることが分かると指摘されている。 警視庁公安部 と 石川県警 は主犯格の キム・セホ を 国際手配 し、北朝鮮に対し所在確認と身柄の引き渡しを要求している。なお、この事件で石川県警 警備部 は押収した 乱数表 から 暗号 の 解読 に成

北朝鮮工作員などによって多くの日本人が、日本国内やヨーロッパから北朝鮮に拉致された事件である。

富山県アベック拉致未遂事件(日本)

富山県アベック拉致未遂事件 - Wikipedia
富山県アベック拉致未遂事件 (とやまけんアベックらちみすいじけん)とは、 1978年 8月に 富山県 の海岸で若い アベック (男女の2人連れ)が襲われ、拉致されそうになった事件 [ 1 ] 。新聞記者 阿部雅美 による取材・報道を通じて、一連の 北朝鮮による日本人拉致事件 が発覚するきっかけとなった [ 1 ] 。 1978年 ( 昭和 53年) 8月15日 夕方5時すぎ、 富山県 高岡市 の 雨晴海岸 (島尾海岸)で松林のなかを散歩していたアベックが4人組の男性に襲われる事件が起こった [ 1 ] [ 2 ] [ 3 ] 。男性は当時27歳の会社員、女性は当時20歳の家事手伝いで2人は婚約していた [ 2 ] [ 4 ] 。アベックの家族が初めて一堂に会して集まり、周囲が気を利かせて若い2人を残して散会した直後のことであった [ 5 ] [ 6 ] 。浜辺には2人以外は男性数名が残っていただけであった [ 7 ] [ 注釈 1 ] 。2人が帰ろうとして、浜辺と松林の境目に駐車していた男性の自動車のドアを開けようとしたとき、男たちが横一列になってアベックに接近、海辺に向かって逃げたがすぐにつかまった [ 2 ] [ 5 ] 。場所は、海水浴場と海水浴場のあいだの海岸で、ひと気が少なく、松林があるため見通しがきかないところだった [ 2 ] [ 6 ] 。アベックは、足を縛られ、後ろ手を拘束され、口にタオルを詰められた上で特製の 猿ぐつわ をはめられ、頭から体ごと布袋に入れられた [ 2 ] [ 3 ] [ 5 ] 。ちょうど近くを通った 犬 の鳴き声を聞いた男達はアベックを置き去りにして 逃亡 した [ 2 ] [ 5 ] [ 8 ] 。2人はそれぞれ付近の別々の民家に助けを求め、警察がかけつけて事件は未遂に終わった [ 2 ] [ 5 ] [ 6 ] 。犯人はいずれも35歳前後で、1人は ステテコ 姿に白い肌着、1人は めがね をかけ、頭髪はパーマネント、ほかの2人が青色で底の白いズック靴を履いていた [ 4 ] 。海水浴客や地元の人間とは到底思えないような格好だったこと、そしてアベックの近くでずっと座ったまま身を潜めて待機していたこと、これらのことを当日不審に感じた人もいたことから、土地勘のない人間による犯行の可能性が考えられた [ 2 ] [ 5 ] [ 6 ] 。なお、この犯行で被害者男性は手首にかすり傷を負っている [ 4 ] 。 1978年 7月7日 に 福井県 小浜市 で 地村保志 ・浜本富貴恵 [ 9 ] [ 注釈 2 ] 、 7月31日 に 新潟県 柏崎市 で 蓮池薫 ・奥土祐木子 [ 10 ] [ 注釈 3 ] 、 8月12日 に 鹿児島県 日置郡 吹上町 (現、 日置市 )で 市川修一 ・ 増元るみ子 [ 11 ] [ 注釈 4 ] の、それぞれカップル3組6名が相次いで失踪する事件が起こった [ 12 ] 。事件がいずれも海岸で起きていること、 家出 、 心中 、 自殺 など行方不明者に失踪する動機が見当たらないこと、一般事件である可能性もきわめて低いこと、海岸まで乗ってきた 自動車 ・ 自転車 などが放置されたままであることなどが共通していた [ 13 ] 。また、鹿児島でアベックが失踪したのと同じ8月12日、新潟県 佐渡郡 真野町 (現、 佐渡市 )では曽我ミヨシ・ 曽我ひとみ の母子が行方不明となっている [ 14 ] 。富山県での誘拐未遂事件は、この直後に起きた。 なお、一連の失踪事件に先立つ同年6月、 池袋 の飲食店に勤めていた 東京都 豊島区 在住の 田口八重子 が幼い子ども2人を ベビーホテル に残したまま、動機のない状態で失踪している [ 15 ] 。 1979年 (昭和54年)当時、 産経新聞 社会部に所属していた 阿部雅美 は 警視庁 担当の事件記者であった [ 1 ] [ 16 ] 。当時31歳だった阿部は、この年の秋、夜回り先で「 日本海 の方で変なことが起きている」という噂を偶然耳にした [ 1 ] [ 16 ] 。そこで、阿部は 千代田区 日比谷 にあった 東京都立図書館 に通い詰めて日本海沿岸各府県の 地方新聞 を北から順に読むことにした [ 1 ] [ 4 ] 。「変なこと」といってもそうそうあるものではなく、阿部の調査は徒労になりかけたが、1978年 8月16日 付「 北日本新聞 」(本社、富山県 富山市 )朝刊社会面の「高岡の海岸 4人組が若い男女を襲う 手錠をかけ寝袋覆う」の記事が目に留まり、 高岡警察署 では悪質な逮捕監禁・暴行傷害事件として捜査していることを知る [ 1 ] [ 4 ] 。生きた人間を頭から袋をかぶせて手錠をかけるというのはあまりない手口であると思い、犯人たちがそのまま逃げたということはどういうことなのかが不思議で、また犯人たちが袋詰めにした男女をどうしたかったのか、疑問に思った阿部は現地での取材を開始した [ 1 ] [ 4 ] 。 事件のあった 雨晴海岸 (富山県高岡市) 雨晴海岸の松並木 富山県警察 本部を訪れたときは、事件から1年余を経過していた [ 17 ] 。ここで阿部が最も興味を寄せたのは多種で異様な遺留品の数々であった [ 17 ] 。報道には、「 おもちゃ の手錠、 寝袋 、猿ぐつわのようなもの」とあったが、実際には、 モスグリーン の布袋、紐、 タオル 、猿ぐつわ、 サンバイザー 、 バスタオル 、手錠、その連結金具であった [ 17 ] 。手錠は玩具ではなく本物だった [ 3 ] [ 18 ] 。 男性が救助された民家の家人は阿部に、当日の夜7時前、男性が うさぎ跳び をして「助けてくれ」と叫びながら家の 風呂場 の戸に体当たりしてきたので戸外に出たが、そのときの被害者男性の姿はまるで 漫画 の「 おばけのQ太郎 」のようだったと証言した [ 1 ] [ 19 ] 。被害者男性は猿ぐつわと手錠をさせられており、家人に「彼女も襲われた」と告げたので、家人は息子と一緒に浜に出かけた [ 1 ] [ 19 ] 。女性の方は後ろ手を紐で縛られ、タオルで口を封じられていたが、男たちの気配がなくなったことに気づいて自力で袋から脱出し、 線路 ( 国鉄 [ 注釈 5 ] 氷見線 )を越えた別の民家に駆け込んでいた [ 6 ] [ 19 ] 。男性を助けた民家の住人が警察に通報すると、 パトカー 5台がかけつけた [ 6 ] [ 19 ] 。 アベックを襲った犯人たちは、2人に袋をかぶせたあと袋を担いで30メートルも歩いて松林に運び、別々の場所に転がし、 カモフラージュ のため松の枯れ枝を袋にかけたという [ 3 ] [ 5 ] [ 6 ] 。彼らは赤銅色に日焼けしており、屈強な体つきをしていた [ 3 ] [ 5 ] [ 6 ] 。男性を助けた家族のなかには、当日の夕方5時半から6時頃にかけて犯人グループと思われる男性数人が浜を徘徊しているのを目撃した人物もおり、日本人らしからぬ風体だと感じたという [ 5 ] [ 6 ] 。男のなかの1人はまた、事件前、近くの釣り人にたった一言「釣れますか」と日

1978年8月に富山県の海岸で若いアベックが襲われ、拉致されそうになった事件

1980年(昭和55年)1月7日、『サンケイ新聞』は1面トップで「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」と報じ、国名は出さなかったものの暗に北朝鮮による犯行であることも示唆した[28][注釈 8]。しかし、阿部のスクープは「虚報」「誤報」としてほとんど黙殺され、いわゆる「後追い報道」は1件もなかった

1988年(昭和63年)3月26日の参議院予算委員会での梶山静六国家公安委員長(竹下登内閣)による「梶山答弁」であった[35]。日本共産党議員の質問に対して、未遂事件をふくむ一連のアベック失踪事件が「北朝鮮による拉致による疑いが濃厚」「人権侵害、主権侵害の国家犯罪であることが充分濃厚」であり、「警察庁がそういう観点から捜査を行っている」ことを明確に述べた梶山の答弁は、日本政府が初めて、北朝鮮による日本人拉致事件を認めた画期的、歴史的な答弁であった[35][36]。これはもとより警察組織の確証があっての発言であり、トップニュースになってしかるべき内容をそなえている[36]。しかし、NHKも民放も一切この答弁をテレビニュースとして報じなかった[36]。サンケイ新聞と日本経済新聞がほんのわずにか触れただけで、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞はまったく報道しなかった[35][36]。

アベック失踪事件 - Wikipedia
アベック失踪事件 (アベックしっそうじけん)とは、 1978年 (昭和53年)夏に 日本 で起きた、多数の アベック が行方不明となった一連の事件を指す。その多くは、 北朝鮮による日本人拉致 であったことが後に判明した。 1978年 7月7日 に 福井県 小浜市 で 地村保志 ・浜本富貴恵 [ 1 ] [ 注釈 1 ] 、 7月31日 に 新潟県 柏崎市 で 蓮池薫 ・奥土祐木子 [ 2 ] [ 注釈 2 ] 、8月12日に 鹿児島県 日置郡 吹上町 (現、 日置市 )で 市川修一 ・ 増元るみ子 [ 3 ] [ 注釈 3 ] の、それぞれ3組のカップル6名が相次いで失踪する事件が起こった [ 4 ] 。事件がいずれも海岸で起きていること、行方不明者に失踪する動機が見当たらないこと、海岸まで乗ってきた交通手段( 自動車 など)が放置されたままであることなど、当初から不可解な点が目立った。 これらの事件の直後、1978年8月15日、 富山県 で海水浴中のアベックが4人組の男性に襲われる事件が起きる( 富山県アベック拉致未遂事件 ) [ 5 ] [ 注釈 4 ] 。アベックは 猿ぐつわ をはめられ、体ごと袋に入れられたが、ちょうど近くを通った犬の鳴き声を聞いた男達はアベックを置き去りにして 逃亡 した [ 5 ] 。アベックは近くの民家に助けを求めた。場所は海岸で、 海水浴場 の一角でもあった [ 5 ] 。しかし、4人が ステテコ 姿にズック靴で海水浴客とは到底思えないような格好だったこと、そしてアベックの近くでずっと座ったまま身を潜めていたこと、これらのことをちょうど救助先の民家も当日海水浴場にいて不審に感じていたことから、土地勘のない人間による犯行の可能性が考えられた [ 6 ] 。さらに、4人組が現場に残した遺留品を鑑定した結果、猿ぐつわや 手錠 等の品質から、工業力に劣る外国製の物であることが判明した [ 5 ] [ 6 ] 。 なお、新潟県 佐渡郡 真野町 (現、 佐渡市 )の自宅近くで曽我ミヨシ・ 曽我ひとみ の母子が、同じ1978年の8月12日に拉致されている [ 7 ] 。これは、鹿児島でのアベック拉致と同日であり、富山での拉致未遂もほぼ同時期で、北朝鮮の工作機関の活動がきわめて大規模であったことを示している [ 7 ] 。 産経新聞 社会部記者の 阿部雅美 は、この頃「 日本海 側の各地でおかしなことが起きている」という地元の噂を耳にし、取材を進めていたところ、3件の失踪事件と富山での誘拐未遂事件にたどりつく [ 6 ] 。阿部は3件の失踪事件に共通点が多いこと、誘拐未遂事件の遺留品が日本製でなかったこと、またその時に4人組がアベックを袋に入れたことに着目し、「袋に人間を入れて運ぶという発想は日本人では考えられない」と疑問をいだいた。また、1978年夏には外国を発信源とする怪電波が多くキャッチされていたことが、 警察庁 の調査で明らかになっていた情報も入手する。これらの事実を元に阿部は一連の事件として結びつけていく。 1980年 (昭和55年) 1月7日 、産経新聞は1面トップで「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」と暗に 北朝鮮 による犯行であることを示唆。阿部によるスクープは 世論 にある程度の衝撃を与えたが、当時の日本では 社会党 をはじめ 親北 勢力が政界や、 朝日新聞 や 毎日新聞 など マスメディア 界で幅を利かせており、他のメディアも「産経は 公安 の情報に踊らされている」として、動かなかった。社会党も、友好関係にある 朝鮮労働党 の「北朝鮮は事件と関係ない」とする説明をそのまま信じ、拉致被害の解決や奪還の国民運動まで高まることはなかった。 しかし、 1997年 ( 平成 9年)の「20年前、13歳少女拉致」の阿部のスクープによって 横田めぐみ の北朝鮮拉致報道がなされたのを契機に、 政府 も 世論 もようやく北朝鮮による 日本人 の拉致という現実を知り、あわせアベック3組の失踪も拉致の可能性が高まった。世論による被害者奪還運動も各地で起き始め、その後政府が拉致被害者を正式に公表する流れへとつながっていく。阿部自身も同年、ようやくアベック失踪事件記事の重要性が認められ、17年を隔てた2件のスクープで新聞協会賞を受賞している。 2002年 (平成14年) 9月17日 、 小泉純一郎 内閣総理大臣 の訪朝によって実現した 日朝首脳会談 で、従来「事実無根」としてきた北朝鮮の“最高指導者” 金正日 総書記 が北朝鮮による拉致行為であったことを認め、口頭で謝罪して、拉致被害者の安否情報を日本側に提供した [ 8 ] 。地村保志・富貴恵夫妻、蓮池薫・祐木子夫妻については拉致の事実と生存を認めて、10月には本人たちの帰国が実現した [ 8 ] [ 9 ] [ 注釈 5 ] 。 北朝鮮から示された資料によれば、地村保志は「オ・ソンサム」、富貴恵は「リ・ヨンオク」、蓮池薫は「パク・スンチョル」、祐木子は「キム・グムシル」の朝鮮名をあたえられ、保志・薫はともに北朝鮮の 朝鮮社会科学院 民俗研究所資料室翻訳員の職にあり、女性はそれぞれの妻であり、被扶養生活者であるというものであった [ 10 ] 。 北朝鮮は、市川修一・増元るみ子のカップルについては拉致の事実を認めたものの、市川は 1979年 (昭和54年) 9月4日 に、増元は 1981年 (昭和56年) 8月17日 にそれぞれ死亡したと説明し [ 11 ] 、 植竹繁雄 外務副大臣と 福田康夫 内閣官房長官は、外務省の 麻布飯倉公館 で、北朝鮮の説明そのままに市川・増元の両家族に対し2人の死亡宣告をおこなった [ 9 ] 。しかし、2人には死んだとされる日よりも後の目撃証言があり、北朝鮮側の説明が事実であるとは言えず [ 注釈 6 ] 、事件未解決の状態が今なお続いている。 西岡力 は、 1997年 の著作で、「李恩恵(リ・ウネ)」こと 田口八重子 が失踪したのが1978年6月のことであり、その直後、北朝鮮が立て続けにカップル3組を拉致しているのは、「日本人化教育」という目的があったのではないかと推定している [ 5 ] 。 大韓航空機爆破事件 の実行犯だった 金賢姫 が、日本から拉致された田口八重子から「日本人化」の一対一指導を受けていること、爆破事件の際、金賢姫が 金勝一 と男女でコンビを組まされていることを踏まえての推定である [ 5 ] 。北朝鮮が曽我ひとみおよびアベック拉致の被害者6人(計7人)の「入国経緯」として説明したのが「語学養成(のための拉致)」であった [ 13 ] 。 金賢姫は 金淑姫 とともに 1980年 に召喚され、本人の意思とは関係なく 金正日政治軍事大学 で工作員教育および日本人化教育を受けることとなったが、そこで教官が「初めての試みなので、教材もまともに準備できなかった」と語ったことを証言している [ 14 ] 。これは、北朝鮮の日本人化教育のコースが1980年にスタートし、金賢姫らはその一期生だったことを物語る [ 14 ] 。一期生は男性あわせると合計8名であった [ 14 ]

産経新聞社会部記者の阿部雅美は、この頃「日本海側の各地でおかしなことが起きている」という地元の噂を耳にし、取材を進めていたところ、3件の失踪事件と富山での誘拐未遂事件にたどりつく[6]。阿部は3件の失踪事件に共通点が多いこと、誘拐未遂事件の遺留品が日本製でなかったこと、

産経新聞は1面トップで「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」と暗に北朝鮮による犯行であることを示唆。阿部によるスクープは世論にある程度の衝撃を与えたが、当時の日本では社会党をはじめ親北勢力が政界や、朝日新聞や毎日新聞などマスメディア界で幅を利かせており、他のメディアも「産経は公安の情報に踊らされている」として、動かなかった。社会党も、友好関係にある朝鮮労働党の「北朝鮮は事件と関係ない」とする説明をそのまま信じ、拉致被害の解決や奪還の国民運動まで高まることはなかった。

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不審船発砲事件 - Wikipedia

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)によるスパイ事件、不審船による発砲事件[1][2]。1970年(昭和45年)4月14日発生

大韓航空機爆破事件 - Wikipedia
大韓航空機爆破事件 (だいかんこうくうきばくはじけん、 朝 : 대한항공 858편 폭파 사건 )は、 1987年 11月29日 に 韓国 ・ 大韓航空 所属の 旅客機 が、 北朝鮮 の 工作員 によって飛行中に爆破された テロ事件 である。 ※韓国及び北朝鮮の国内外情勢で、本事件に関連するものを含む。 1985年 ~ 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 事件の被害に遭ったのは大韓航空に所属する 大韓航空858便 (使用機体: ボーイング707-320B 、 登録記号 :HL7406)であった。なお、当時の時刻表によればこの便は本来、 マクドネル・ダグラス DC-10-30 型機で運航されていたが、当日は機材変更によりボーイング707-320B型機で運航されていたという。 フライトプラン としては現地時間午後11時30分( UTC 午後8時30分)にイラク・ バグダード の サダム国際空港 を出発し、 アラブ首長国連邦 ・ アブダビ の アブダビ国際空港 、 タイ ・ バンコク の バンコク国際空港 を経由し、韓国・ソウルの 金浦国際空港 に向かう予定であった。つまり、イラク発UAE、タイ経由韓国行きである。なお、この便はバンコクへの寄港を テクニカルランディング 扱いにしていたため、アブダビ〜バンコク間、バンコク〜ソウル間のみの利用は不可能であった。 乗員は11名、乗客は104名であり、乗客のほとんどが 中近東 への出稼ぎから帰国する韓国人労働者であったという。そして、その内9名は「 デッドヘッド 」と呼ばれる業務に就いていない操縦乗務員(機長、副操縦士、航空機関士各3人ずつ)で、 中東 へのフライトから帰国する途中であった。 事件発生時の機体(再現図) 大韓航空858便は、アブダビを 協定世界時 日曜日の午前0時01分に離陸、 インド 上空を横断し、 ボンベイ からアンダマン海へ抜けて上空の航空路R468を飛行し、離陸から4時間半後の現地時間午前10時31分(UTC4時31分)にビルマの航空管制空域に差し掛かった。 インドとビルマの国境である"TOLIS"ポイントから ラングーン の航空管制官に対し「現在37,000フィート(およそ10,700m)を飛行中。次の"VRDIS"には午前11時01分、"TAVOR"(ビルマ本土上陸地点)には午前11時21分に到達の予定」と報告したのが、大韓航空858便の最後の通信となった [ 1 ] 。ここで858便は航空路ロメオ68を飛行しており、ほぼ定刻通りにバンコク国際空港に到着するはずであったが、ラングーンから南約220km海上上空の地点で、 午前11時22分に旅客機内で爆弾が炸裂 し、機体は空中分解し墜落した。 機長 は、 遭難信号 や地上の管制機関に緊急事態を宣言する間もなく、爆発の衝撃で即死した [ 2 ] と見られる。乗客・乗員115人全員が、行方不明(12月19日に全員死亡と認定)となった。 定時報告交信が途絶え、 レーダーサイト のモニターに機影は無く、タイの領空に入ると予想された時刻に、航空管制当局とのコンタクトが無い事態から、858便の異常発生が発覚した。タイ航空管制当局は858便へ通信を試み、大韓航空本社には事態一報と、同時にタイ政府内の関連には報告から状況の把握に努めた。858便から通信応答は無く、バンコク国際空港に858便から着陸許可をもとめる連絡アクセスは無く、着陸予想時刻を過ぎる、韓国標準時午後2時05分(タイ標準時午後12時05分/UTC午前5時05分)タイ航空管制の連絡から大韓航空が再度試みていた社内無線交信(カンパニーラジオ)に応答が無いことから、858便の遭難が確定した。 大韓航空機の捜索には、ビルマとタイの両政府当局が当たる事となった。 タイ軍 は捜索隊を組織し、858便が消息を絶つ迄の気象状況や経過から「泰緬国境付近のジャングルに墜落」と推定しその一帯に派遣されたが、実際には アンダマン海 上に墜落していた。 衛星測位システム や当時のアンダマン海近辺の航空レーダーサイトの整備が貧弱であったことで、迅速に事故発生地点を把握することが出来ず( 2014年 の マレーシア航空370便墜落事故 で再び問題となった)、さらに墜落地点と推定されたビルマ側は、ビルマ政府と対立している カレン族 が支配する 紛争 地帯であるため政府による捜索は不可能、またカレン族が 国境 を越えて 武装闘争 を繰り広げていたため、捜索隊を編成指揮したタイ側も十分な捜索活動は尽せなかった。 12月10日 になってアンダマン海から事故機の機体と思われる残骸が、海上や海岸の漂着物などで次々発見、洋上の遭難が確実視されたが、墜落地点の特定は外交関係から 1990年 まで持ち越された。後述「被疑者の拘束」で、実行犯が確保される一方で、機体が確認されていないにもかかわらず『爆破』と断定したことは、捏造・陰謀説が一部から指摘される一因になった。 改めて推定された遭難地について、ビルマ国内紛争地帯沿岸に近い海域で、外交関係事情から捜索は限定的なものに留まり確定されないまま長期化し、漂着や現地の漁船により、858便の遺留品は救命筏や機体の部品、乗客の手荷物と遺体、バラバラになった機体の一部が偶発的に回収された。これらにボーイング707と確認できる構造原形をとどめたものは数多く、機体の残骸が大韓航空858便であることは明らかであったが、 ブラックボックス は発見できず、事件から3年後の 1990年 3月10日 に海底から回収した胴体上部外板一部に、大韓航空がオフィシャルエアラインとなっていた ソウルオリンピック のエンブレムが記され、これがHL7406号機特有のもので858便の残骸と断定されるまで長時間を要した [ 注釈 1 ] 。 また搭乗者の完全な形での遺体は捜索が後手に回ったことや、他の多くの空中分解事故のケースと同様に完全なものは1人も発見されず、わずかに回収された遺体の一部が DNA 解析され身元が判明した。回収された救命筏などの残骸の多くは高温に晒され強い衝撃を受けた痕跡があり、爆弾起爆から着水までに機体が損壊中何らかの引火から機体の大半が火炎に包まれていたことを裏付けていた。韓国政府の管轄部所では爆弾の位置から機体が空中分解し水上に墜落するまでの過程について、メーカー協力のもと分析を行い報告書を作成、火災の発生と続いて起こった損壊は仮定範囲の記載に留めた。 当初、空中分解の原因は事故機となったボーイング707-320BのHL7406号機( 1971年 製造、製造番号:20522/855)固有の欠陥が原因と見られていた。このHL7406機は当初は 大統領 外遊時の特別機として韓国政府が使用していた [ 注釈 2 ] が、大韓航空に移管され主に国内線で運航されていた。だが事件の10年前の 1977年 9月 に 釜山 で 胴体着陸 事故を起こし、事件の2か月前の 9月2日 にはソウルの金浦国際空港で ランディングギア が出ずにまたしても胴体着陸する事故を起こしており、修理を終えて運航復帰した直後に発生したためであっ

1987年11月29日に韓国・大韓航空所属の旅客機が、北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破されたテロ事件である。

ラングーン事件 - Wikipedia
ラングーン事件 (ラングーンじけん) [ 1 ] は、 1983年 10月9日に ビルマ (現・ ミャンマー )の首都 ラングーン の アウンサン廟 で発生した爆弾 テロ 事件 [ 1 ] [ 2 ] 。 北朝鮮工作員 がビルマを訪問中の 大韓民国 (韓国)の 全斗煥 大統領 一行の暗殺を狙ってアウンサン廟を爆破。韓国政府の高官が複数死亡したが、全大統領は無事で、ビルマと北朝鮮の国交が急速に悪化する原因となった。「 ラングーン爆破テロ事件 」 [ 3 ] 、「 アウンサン廟爆破事件 」 [ 4 ] とも呼ばれる。 1980年 9月、韓国で全斗煥が大統領に就任した。全斗煥の名前は、1980年5月の 光州事件 で 空挺部隊 を投入した人物として『 労働新聞 』でも取り上げられており、情報機関である国家保衛部(現・ 国家保衛省 )の幹部は「愚直で暴虐無比な人物」「 オオヤマネコ ( 朴正煕 )が死んだら獅子が出てきた」と警戒していた [ 5 ] 。 韓国は 1988年 の ソウルオリンピック 招致に成功したが、 東側諸国 や北朝鮮と親密だった 非同盟 中立諸国はオリンピック参加を表明していなかった。 1980年モスクワオリンピック では西側諸国によるボイコットがあり、逆の立場からこれらの国々が不参加となる可能性があった。このため、これらの国々に閣僚を派遣し韓国での オリンピック 開催や、その際の参加を熱心に説得して回っていた。 [ 要出典 ] 1982年 8月、全大統領は アフリカ を歴訪( ケニア ・ ナイジェリア ・ ガボン ・ セネガル )したが、北朝鮮外交の「 裏庭 」であるアフリカを荒らされることに我慢できなかった 金正日 は、 対南工作 を担当する国家保衛部第3庁舎の 金仲麟 書記に全大統領の暗殺を指示した。金仲麟は狙撃する工作員を編成し、 外交官 を装ってアフリカへ派遣。会談会場に向かう全大統領を狙撃し、 自爆 するよう指示した [ 6 ] 。しかし工作員たちは、狙撃現場に向かう途中 交通事故 を起こして 骨折 する重傷を負い、暗殺に失敗した。さらに、 主席 の 金日成 が外交ルートを通して ソビエト連邦 (ソ連)に暗殺計画を通達したところ、 レオニード・ブレジネフ 政権が本格的な米ソ対立に発展しかねないとして北朝鮮に暗殺の中止を緊急に通達し、金日成は不承ながら全大統領の暗殺を断念した [ 7 ] 。 1982年11月にブレジネフが死去し、対 米 強硬派でもある ユーリ・アンドロポフ が ソ連共産党 中央委員会書記長 に就任すると、金日成は 祝電 を贈り、アンドロポフは朝鮮半島での有事の際にソ連が積極的に支援すると返答した [ 7 ] 。ソ連の後ろ盾を得た金日成は、 偵察局 第711部隊に命じ、 [ 要出典 ] 東南アジア 歴訪中の全斗煥の暗殺し、韓国国内で 共産革命 が起きるか、 韓国軍 が挑発してきた場合、一気に南侵するといった計画を立案した [ 8 ] 。計画の立案は、金日成の長男でもある 金正日 であるといわれている [ 誰によって? ] 。総指揮は、金正日の義弟で側近の 張成沢 の長兄にあたる 張成禹 が取ったとされている [ 9 ] 。 テ・チャンス司令官(北朝鮮の 開城 地区特殊工作部隊)の命令によって、以下の3人から成る暗殺班が組織された。 キム・ジンス 少佐 (逮捕) カン・ミンチョル 上尉 (逮捕) キム・チホ上尉(ビルマ警察との銃撃戦で射殺) 暗殺班は9月9日に北朝鮮の貨物船・東健号で甕津港を出港し、9月16日にラングーン港へ到着した。9月17日から24日までラングーン港内に停泊後、在ビルマ北朝鮮大使館のチョン・チャンヒ参事官宅に滞在した [ 注 1 ] 。暗殺計画の司令部は、工作員が多数配置されていた クアラルンプール の在 マレーシア 北朝鮮 大使館 とされる [ 10 ] 。アウンサン廟に爆弾をしかけたのは、10月7日夜10時頃で、指揮官のキム少佐が見張りにあたり、カン上尉が廟の屋根にのぼり、キム上尉から爆弾を手渡され [ 要出典 ] 、大統領一行が訪れるアウンサン廟の屋根裏に遠隔操作式の クレイモア地雷 を仕掛けた [ 8 ] 。 全斗煥大統領一行は1983年10月8日夕方、 南アジア 太平洋 地域6か国 [ 注 2 ] 歴訪の最初の訪問国であるビルマの首都・ラングーンに到着し [ 注 3 ] 、 サン・ユ 大統領 らの出迎えを受けた。 [ 要出典 ] 翌日の10月9日、大統領一行はアウンサン廟へ献花に訪れようとした [ 1 ] [ 注 4 ] 。 事件当日、アウンサン廟に近いウィザヤ映画館付近に潜伏した指揮官のキム少佐が、遠隔操作によって地雷を爆破させる予定だった。しかし全大統領の到着が予定よりも大幅に遅れた上に [ 8 ] 、先に到着していた長身の 李範錫 ( 朝鮮語版 ) 外務部 長官を全斗煥と誤認した。さらに、李範錫が到着したのと同時に 軍楽隊 が式典開始の ファンファーレ を演奏し始めたため、 午前10時25分( 現地時間 ) [ 要出典 ] 、キム少佐は遠隔操作のスイッチを押した [ 11 ] 。 爆発で建物の一部が崩落し、アウンサン廟は流血した生存者が悲鳴を上げる中遺体が転がる修羅場と化した。この爆発で韓国側の閣僚など17人 [ 11 ] 、ビルマ側は閣僚や政府関係者4名が死亡し、負傷者は47名に及んだ。 全大統領は乗っていた自動車の到着が2分遅れたために危うく難を逃れ、また全大統領の車に同乗していた大統領警護室長の 張世東 陸軍 少将 も同じく難を逃れた。なお、事件後に張世東警護室長は事態を防げなかったとして辞表を提出したが、全大統領に諫められて留任している。 [ 要出典 ] 事件当日の午後には、大統領外国訪問中の留守を任されている形であった金相浹 総理 によって緊急閣議が招集され、軍と 警察 に非常警戒令と戦闘準備態勢を発令する [ 要出典 ] と共に、北朝鮮の組織的な陰謀であると主張した [ 1 ] 。外遊中の大統領一行は訪問日程を取り消して韓国に帰国、全斗煥大統領は演説で「北の金日成集団に厳しく警告する。もう一度挑発すれば、力をもって報復する。」と警告し、10月13日の午前、 汝矣島広場 で犠牲になった人々の「殉国外交使節合同国民葬」が開催された [ 13 ] 。その後に行われた「ビルマ暗殺爆発事件北傀殺人蛮行糾弾決起大会」 [ 注 5 ] では一般国民の代表が「同族を殺害した金日成を打倒しよう」と演説した [ 14 ] [ 15 ] [ 16 ] 。対して北朝鮮は、全大統領が「強烈な爆弾の洗礼を受けた」と報じると共に、「南が我々を陥れるために起こした 自作自演 の事件である」と関与を全否定し韓国政府の発表に反発 [ 1 ] [ 17 ] 、 軍事境界線 は一触即発の状態になった。 ビルマ警察の捜査と追跡により、北朝鮮工作員3名は追い詰められ銃撃戦の末に逮捕された。キム上尉は射殺され、キム少佐とカン上尉が重傷を負った。2人は警察に対して作戦の全貌を自供し、11月4日にビルマ政府は犯行を北朝鮮によるものと断定して [ 18 ] 3

1983年10月9日にビルマの首都ラングーンのアウンサン廟で発生した爆弾テロ事件

事件は北朝鮮工作員により、ビルマを訪問中であった大韓民国(韓国)の全斗煥大統領一行の暗殺を狙って引き起こされた。

青瓦台襲撃未遂事件 - Wikipedia
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 青瓦台襲撃未遂事件 1.21事態(襲撃未遂事件)の際に被弾した松の木 場所 大韓民国ソウル市鍾路区 標的 朴正熙大韓民国大統領 日付 1968年1月21日 概要 北朝鮮工作員による韓国大統領暗殺未遂 攻撃側人数 31名 死亡者 97名:朝鮮人民軍29名、韓国軍・韓国民間人・在韓米軍 68名 行方不明者 2名 テンプレートを表示 青瓦台襲撃未遂事件 (せいがだいしゅうげきみすいじけん、 朝鮮語 : 청와대 습격미수사건 、 1.21 事態 〈1.21じたい、 1.21 사태 〉)は、 1968年 1月21日 に 朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮)の 特殊部隊 により発生した 大韓民国 大統領 府「 青瓦台 」( 청와대 、チョンワデ)への襲撃未遂 事件 である。 事件を引き起こした北朝鮮特殊部隊で唯一逮捕された隊員の名前から、 金新朝 事件 (キム・シンジョじけん、 김신조 사건 )とも呼ばれる [ 1 ] 。 1966年 1月 に韓国 漁船 が北朝鮮の 魚雷艇 に襲撃されて以来、同年 11月 と 1967年 4月 には、 北緯38度線 で大規模な戦闘が発生し、南北の緊張は一触即発の状態であった。 ソビエト連邦 の情報部の分析では、これらの戦闘を扇動しているのは北朝鮮であった。 北朝鮮は1966年、 朝鮮人民軍総参謀部偵察局 内に 対南工作 を専門とした第283部隊を設立。内部粛清によって1967年 8月12日 に 124部隊 ( 英語版 ) (のちに特殊第8軍団に改称、現在の 軽歩兵教導指導局 )に改編し、 ゲリラ 部隊を韓国に潜入させる準備を進めた。 1968年1月17日、青瓦台の襲撃による 朴正煕 大統領と閣僚の 暗殺 を狙って、第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名は、 韓国軍 第26師団の模擬制服で変装して 休戦ライン を突破し、韓国領内に侵入した [ 2 ] 。この際、韓国市民に偶然遭遇しているが、 身分証明書 などで住所氏名等を教えさせ、「通報すれば一族もろとも消す」等と脅迫して口止めした上で解放した。この市民は、解放された後に 警察 へ通報した [ 3 ] 。 1月21日、 ソウル市 内に入ると、持参した 日本 製の 背広 と レインコート に着替え、青瓦台800メートル手前の 北漢山 まで侵入した。しかし、先の市民の通報による ゲリラ 情報等により警戒中だった韓国当局に検問を受け、その場で 自動小銃 を乱射して逃亡。突入は阻止された。 韓国軍と警察部隊の2週間に及ぶ掃討作戦により、1名を 逮捕 、29名が 射殺 され、1名が 自爆 した。また射殺は27人で、1名から3名が逃亡したともいわれる。2名が重傷を負いながら 軍事境界線 を越えて帰国したという話もある [ 4 ] 。2週間の銃撃戦で韓国側は 軍人 ・ 警察官 と巻き添えの 民間人 の計68名が死亡した。 逮捕されたのは当時27歳の 金新朝 ( 朝 : 김신조 ) 少尉 で、彼の供述により北朝鮮における特殊部隊の存在が明らかになった。また、「 軍事独裁 を敷く朴大統領が殺害されれば、韓国民衆は必ず労働者 革命 を起こす」と分析していたという。また、金は テレビカメラ に向かって「私は朴正煕の首を取りにやってきた」と言い放ち、韓国国民に衝撃を与えた [ 5 ] [ 注 1 ] 。 朴正煕大統領は事件直後、駐韓 アメリカ 大使 に「北の奴等が私を殺しにきた」「北を攻撃しなければならない。2日で 平壌 まで進める」と、憤りをあらわにした。事件を北朝鮮が謝罪しない場合は、報復攻撃を行うべきとの書簡を リンドン・B・ジョンソン 大統領 に送った。 ところが、直後の 1月23日 に プエブロ号事件 が発生する。 アメリカ軍 は報復のために 空母 を派遣するが、すでに ベトナム戦争 を戦っている中で、新たに 朝鮮半島 で軍事行動を起こす余力が無く、また北朝鮮と同盟関係にあったソ連と直接戦争に至る可能性を考慮して、ジョンソンは外交交渉を選んだ。アメリカ軍の援助を受けられないと知った朴は、軍の北進を断念した。 しかし朴は「われわれは日夜、このようにやられてばかりいるのか。何か方法はないのか。報復する方法が」と北朝鮮への対抗策を求め、政権内部での発言力を強めたかった 大韓民国中央情報部 の 金炯旭 部長が、 金日成 暗殺部隊の創設を決意した これによって1968年 4月 に創設された 空軍2325戦隊209派遣隊 は、創設年月から通称「684部隊」と呼ばれ、青瓦台を襲撃した 北朝鮮工作員 の人数と同じ31人の隊員から構成された。部隊は 仁川 沖合の 実尾島 で訓練を受けることになったが、 1970年 以降南北融和の流れが加速したため、金日成の暗殺は現実的でなくなり、 1971年 に計画は撤回された。 完全に宙に浮いた存在となってしまった684部隊の待遇は悪化し、不満が増大した部隊員は1971年 8月23日 に叛乱を起こす。バスを乗っ取ってソウル市内に向けて進み、軍・警察との銃撃戦の末に自爆した( 実尾島事件 )。同事件は、後に『 シルミド 』として映画化されるなど、韓国国内で見直しが進んでいる。 工作員が1月21日に身を潜めた、文殊峰と碑峰の間にある紗帽岩V字型洞窟には、工作員の人形が置かれている 韓国侵入時に非武装地帯・米軍2師団の鉄柵を切断する時に使用したペンチ 金新朝らが携帯したPPS短機関銃 金新朝らが携帯したRPG-43対戦車手榴弾 京畿道坡州市積城面沓谷里山55番地「敵軍墓地」にあるゲリラの墓(再整備前) 京畿道坡州市積城面沓谷里山55番地「敵軍墓地」にあるゲリラの墓(再整備後) 青瓦台襲撃未遂事件で被弾した松の木 ゲリラに撃たれ亡くなった崔奎植像(鐘路警察署長) 崔奎植像(鐘路警察署長)の建つ彰義門そばの峠道 ^ 現在は、ソウル市内の 教会 で 牧師 として働いている。 「あゝ有難きこの自由――朴大統領暗殺ゲリラ部隊の唯一人の生存者が語る北鮮の実態 / 金新朝」『動向』第1305号、動向社、1971年7月1日、48 - 55頁、 NDLJP : 2781009/25 。

1968年1月21日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の特殊部隊により発生した大韓民国大統領府「青瓦台」(청와대、チョンワデ)への襲撃未遂事件である。

死亡者 97名:朝鮮人民軍29名、韓国軍・韓国民間人・在韓米軍 68名

日向灘不審船事件 - Wikipedia
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 日向灘不審船事件 (ひゅうがなだふしんせんじけん)は、 1985年 ( 昭和 60年) 4月25日 に 宮崎県 沖の 日向灘 で発生した 不審船 追跡事件を指す。 1985年 (昭和60年) 4月25日 午前9時、 宮崎県 水産課の 漁業取締船 「たかちほ」が「第三十一幸栄丸」 [ 1 ] と標示した不審な動きをする漁船を発見。漁業取締船に乗っていた漁業監督吏員は、漁船を臨検する権限を持っており、立入検査を実施することとした。漁船への立入検査を行うために接近したところ、当該漁船は突如高速で逃走した。速力に劣る漁業取締船は追跡を断念、 海上保安庁 に対して不審船発見を通報 [ 1 ] した。 通報を受けた 第十管区海上保安本部 による調査の結果、この不審船は実際に宮崎県に籍を置く「第三十一幸栄丸」を詐称して背乗りをしたもので、漁船にしては不釣合いな大型の レーダー や方向探知機などの装備、さらに不自然な高速に、十管保安本部は他管区の応援を含め 巡視船 延べ23隻と航空機4機をもって、 4月27日 まで約40時間の追跡を行ったが、最高40ノットもの高速で逃走した不審船に追いつけず、27日未明に中国領海近くの 東シナ海 において、レーダーから見失った [ 1 ] 。これにて事件は終結したが、その後は韓国軍が出動して監視を続け、韓国政府の発表によれば、この不審船は中国の沿岸部を経て北朝鮮の 南浦 港に入港したという。 海保では、当該不審船を 北朝鮮 の 工作船 と推定している。この事件をきっかけに、海上保安庁は高速で機動できる巡視船の必要性を痛感し、不審船対策を目的に最高速度35ノットの みはし型巡視船 を整備した。後に 九州南西海域工作船事件 では「みはし型」の「いなさ」と「きりしま」が活躍している。 「海上保安庁ニュース」『 世界の艦船 』第353集 1985年5月号
加賀市沖不審船事件 - Wikipedia
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 加賀市沖不審船事件 (かがしおきふしんせんじけん)は、 1971年 (昭和46年) 7月31日 夜に 石川県 の 加賀市 で起きた 北朝鮮 の 不審船 及び 工作員 侵入事件である [ 1 ] 。 篠原新町事件 (しのはらしんまちじけん)とも称する [ 2 ] 。 1971年7月31日夜、加賀市篠原新町の 浜辺 から沖を眺めていた地元住民が、 定置網 付近を通る 不審船 らしき船を見つけ、 警察 に通報 [ 1 ] 。間もなく現場に警察が到着し、地元住民と動向を見守った [ 1 ] 。 不審船はゴムボートを降ろし、そこには3人が乗っていた [ 1 ] [ 2 ] 。ボートはまっすぐには着岸せず、いったん進行方向右側に出て大きく膨らむようにして波打ち際に降りた [ 1 ] 。そこから、間もなく 工作員 らしき2名の人影がボートから降り、辺りを詮索するようにしながら警察や地元住民の近くに接近した [ 1 ] 。ここで警察が初めて声をあげ、侵入を気づかれた工作員は慌てて船に戻って逃亡していくが、警官との格闘の結果、地元住民との協力で1人は逮捕した [ 1 ] [ 2 ] [ 3 ] 。残る1人は船に戻り、侵入時以上の速さで沖へ向かった。これは、さらに沖合にとどまっていた母船からロープが装着されていたためであった [ 1 ] 。 逮捕された北朝鮮の工作員は「キム・ナムソン」(29歳)を名乗り、漁船で 清津港 を出港し、「航行に迷った末の不時着」と供述したが、所持品の中から 毒薬 入りの瓶、短刀、 乱数表 などが見つかり押収されている [ 1 ] [ 2 ] [ 3 ] [ 注釈 1 ] 。 一方、船を引き戻した母船は陸地に向かって サーチライト を照らした。その明るさに銃撃される危険性を感じた人々は一斉に テトラポット や 民家 の陰に隠れた [ 1 ] 。しかし母船は間もなくサーチライトを消すと 暴走族 の発するような轟音を出して沖に消えて行った [ 1 ] 。 北朝鮮による日本人拉致問題 を早くから取材してきたフリージャーナリストの 石高健次 は、自著の中で「工作員が侵入するポイントとして 能登半島 が格好の的になっている」とした上で、侵入した工作員を逮捕した事例としてこの事件を取り上げている [ 1 ] 。彼は 横田めぐみ の拉致事案を調査した過程で本事件を知り、この事件と横田めぐみ失踪事件との関係も調査した [ 1 ] 。石高の取材により、横田めぐみが1977年に連れ去られたと思われる時刻より少し後に、加賀市不審船が発したような「爆発音に似たエンジン音」を 横田早紀江 だけでなく失踪場所付近の住民も聞いていた事実が判明した [ 1 ] 。 石高は単純に轟音というだけで 拉致 との直接的な関係は断言できないとしながらも、日本近海でこのような轟音を聞いた人は他にもいるのではないかとしている [ 1 ] 。 なお、逮捕された工作員は出入国管理令( 出入国管理及び難民認定法 )違反で 起訴猶予処分 となった [ 2 ] 。同年、彼は北朝鮮に自費出国している [ 2 ] 。
対南工作 - Wikipedia
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