【歴史】ポイント解説 (2/5)
1855年 日魯和親条約が下田で締結。これによって両国間の国境線が初めて画定された。ウルップ島(得撫島)以北はロシアに、ウルップ島以南(イトゥルップ、クナシル、シコタン、ハボマイ)は日本に帰属することが決められた。サハリン(樺太)は 国境を画定せず、共同利用の状態を維持する。同条約の締結前は日露間に明確な国境線は存在しなかった。
1875年 樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルグ条約)が締結。ロシアは日本にクリル諸島(千島列島)の全島を譲り渡すかわりに、日本はロシアに対して樺太全島を放棄した。
1945年2月 ヤルタ会談でスターリンは連合国に対し、対日参戦を約束。連合国はその代わりにソ連のサハリン南部およびクリル諸島の帰属権を認めた。
1945年8月 ソ連が対日宣戦を布告し、クリル諸島に上陸作戦を開始。この過程で南クリル諸島(イトゥルップ、クナシル、シコタン、ハボマイ)を含むクリル諸島の全島を攻略していった。
重要なのは1951年のサンフランシスコ講和条約で、日本は「千島列島並びに」「樺太の一部及びこれに近接する諸島」に対する権利をすべて放棄したが、ソ連は同条約を調印していないという事実。条文には、これらの領土に対するソ連の主権は記されていない。これがゆえに条文の法的拘束力はあいまいになってしまった。
これは「千島列島」の範囲について両国の定義が異なることに起因する。日本の解釈では千島列島とはウルップ島以北の諸島を指し、南クリル諸島(イトゥルップ、クナシル、シコタン、ハボマイ)は千島列島には含まれない。
1956年以降 ソ連と日本は日ソ共同宣言に調印。フルシチョフは国交正常化を目指し、両国が早期に平和条約を締結せんがために、シコタン、ハボマイの2島に関しては、平和条約の締結後に譲渡する構えを示した。
だが、日本が米国と軍事同盟を結んだがゆえに(1960年の日米安全保障条約)、この2島が米軍に渡される事態となれば、ソ連は自国の安全保障が脅かされるとして、平和条約締結後の2島の譲渡という条件の遂行を退けた。