小説は「あるある」である
ある芸人が「すべてのお笑いは『あるある』である」と言っていました。「あるある」とは、多くの人が見たり聞いたりした頻繁に起こる状況のことです。
よく言われる「あるある」は、「校庭に犬が侵入して大騒ぎになった」とか「関東と関西ではエスカレーターの立つ位置が異なる」とかですかね。
どうして「あるある」が面白いのでしょう。
ひとつは、「共感」できるからだと思います。自分が知らないこと、未経験なことは状況を想像しにくく、共感できません。わからなければ笑えません(まったくわからなくても動きやリズムで笑わせる手法もありますが)。
もうひとつは、「落差」です。「お笑いとは緊張と緩和である」と言った芸人がいました。張り詰めた空気の中で、一気に緊張が解ける瞬間に人は笑ってしまいます。よく使われる例えが、「お葬式の緊張した場面でお坊さんがヘマをすると笑ってしまう」ですかね。
「あるある」で語られることは、「ちょっとした異和」です。誰もが知っている当たり前の日常は「あるある」にはなりません。
「アイスクリームは甘い」と言っても、誰も笑いません。当たり前だからです。
「たまにとんでもなく酸っぱいミカンの房がある」は「あるある」になります。「ミカンは甘い」という常識から少しずれているからです。
常識からの「落差」が笑いを生みます。この落差が大きければ大きいほど、大きな笑いになります。でも、誰も知らないことだと「あるある」にならないので、言われると「ああ、あった、あった」と思い出せることが「あるある」になり、笑いに繋がります。
お笑いの話をたくさんしちゃいましたが、小説にも「あるある」が必要だと思います。
誰もが知らないことを文章で表現されても、読者は想像しにくいです。現代は、さまざまな風景や物が映像で観られるので、昔ほど詳細な風景描写は不要になったと思います。ちょっとした比喩を使えば、誰でも同じような場面を想像できます。例えば「ハリーポッターの学校みたい」と書けば、多くの人は中世の教会みたいな建物を想像できるでしょう。もちろん、ハリーポッターを見たことがない人には伝わらないので、どこまで多くの人に伝わるか、読者層を考慮して、どの比喩を用いるか読者は判断しなければなりません。
これって、一種の「あるある」じゃないですかね。お笑いで客を見て、この人ならわかって笑ってもらえるだろうと考えて「あるある」を選ぶのと同様に、作者は読者が想像できる、知っているだろうという表現を選ぶ必要があります。
表現だけではなく、物語の展開も同様です。誰もが全く知らない、感じたことがないことを書いても、なかなか共感は得られません。理解してもらうには、多くの文字数とシーンを使って、説明する必要しなければなりません。
例えば「同窓会で久々に会った初恋の相手と話して緊張する」というシチュエーションは多くの人が「あるある」だと思ってくれるでしょう。自分が経験していなくても小説やアニメなどで知っているから、その感情を容易に想像できます。
全く知らないこと、多くの人が感じたことがあるけど埋もれてしまっている感情を表現するには多くの言葉が必要になるので、それだけでしっかりとした物語になります。
このバランスが難しいです。使い尽くされた「あるある」だと驚きがないので、読んでいて面白くありません。ジェンダーやパワハラの問題は、かなり語り尽くされていて、普通に書いても、「どこかで読んだことがある」で終わってしまうので取り上げるなら工夫が必要です。
一方で、誰も知らない物語を読者に理解してもらうには、想像しやすい表現を積み重ね、多くの場面と心理描写を丹念に描かないといけません。
多くの人が理解できる「あるある」を積み上げて、その先に埋もれている共感を掘り出せると、その物語は傑作になるとは思いますが、それが難しいんですよね。
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