風船爆弾をつくった 機関銃持ったソ連兵が家に押し入り くぐりぬけた死線 満州で過ごした少女時代
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昭和20年、終戦の8月15日を過ぎても戦争が終結しない地域があった。ソ連が8月9日に現在の中国東北部にあった「満州国」へ侵攻。9月まで戦闘が続き、シベリア抑留や中国残留孤児などその後の悲劇を招いた。戦後80年、当時を知る関係者は年々少なくなっているなか、満州で10代を過ごした90代の女性3人に語ってもらった。長い年月がたったが、現地での暮らしが敗戦で一転した、厳しい現実を忘れてはいなかった。満州の〝生き証人〟の貴重な証言を紹介する。 【写真】少女時代の広沢嘉代子さん=本人提供 参加者 滝田和子さん(98)=兵庫県西宮市 﨑山ひろみさん(95)=高知市 広沢嘉代子さん(92)=大阪市 ■なぜ満州に 滝田 生まれは札幌。父は警察官吏で政府の命令で最初は奉天(現瀋陽)へ渡りました。私が13歳のころです。奉天浪速高等女学校を卒業し、父の仕事のため新京(現長春)に移ったところ、確か挺身(ていしん)隊の一員として兵隊さんのお手伝いで薬をぬったり、縫い物をしたり、食器を洗ったりしたほか、軍需工場で働いて勤労奉仕をしていました。(徴兵されて)男手が足りなくなっていました。銀行に就職した直後に終戦を迎えました。 﨑山 私は撫順(現遼寧省)生まれ。父は関東大震災の翌年、知人の誘いで満州へ渡りました。当時は大不況で、満州で生涯を終えるつもりだったそうです。南満州鉄道(満鉄)に勤務していましたが、労働者の待遇改善を訴えて疎まれたようで、その後は大連に移り、「満州国協和会」に転職した関係で、首都の新京に住みました。 敷島高等女学校に入りましたが、憧れていた制服が物資節約のため地味なものに変わっていました。3年生になって軍隊の仕事をするようになりましたね。学徒動員です。和紙の大きな風船づくり。こんにゃくのりをつけて成形します。 当時は箝口(かんこう)令が敷かれていて、何をつくっているのかわかりませんでした。気球をつくると思っていました…。直径5~6メートルの風船。重労働でした。 後で秘密の兵器だったと知りました。風船爆弾でソ連を標的にし、731部隊(旧日本軍の関東軍防疫給水部)の生物兵器をつけるということも。実際にはソ連の参戦が早まり、使われることはありませんでした。
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