般若(柳瀬)滑走路跡①(国内資料編)
- 2015/09/22
- 00:03
空襲が激しくなってきた昭和19年末、軍需工場の大々的な疎開が行われ、
民間工場の建屋敷地徴発や地下工場の建設等が進められました。(*・ω・)-ω-)・ω・)-ω-)ゥィゥィ♪
富山県射水市の越中大門駅近くの呉羽紡績大門工場(現:東洋紡庄川工場)もその一つで、
呉羽工場、福野工場、井波工場等とともに、三菱重工業(株)の第11製作所となり、
司令部偵察機の製造が行われました。(´・∀・`)ヘー
100式についてはウィキをご覧ください。m(_ _;)m
(画像はウィキより)
郷土史関係は、どの様な記載があるかというと・・・・
井波町史の記載の他に、「司令部偵察機と富山」という本が出版されています。
(*・ω・)-ω-)・ω・)-ω-)ゥィゥィ♪
井波町史 上巻(井波町史編纂委員会、昭和45年5月30日発行)
P1096
機あれど・・・飛機なし
「機あれど・・・・・・飛機なきを如何にせん」前線航空兵士からよせられたこの悲痛な叫び、これに答えて、銃後を守る井波町民は生活のすべてをささげて、陸海軍へ戦闘機四機を献納した。遊郭の芸妓六〇人ともどもに全町一丸となって献金し「捧げる者、受け取る者皆感涙に咽」んだ。(「町報」一九年三月)
一九年六月一九日、マリアナ沖海戦に惨敗すると、マリアナ島を基地にしたB29爆撃機の日本本土空襲が一一月二四日品川沖からの東京空襲を皮切りにいよいよ本格化し、しだいに熾烈さをましてきた。そこで重要軍需工場は疎開を開始し、砺波市柳瀬にも飛行機工場が疎開してきて、トンネル工事や庄川太田川原にその滑走路の建設を進めた。岐阜市に駐在する東海北陸軍管区が指導にあたって、佐藤組がその工事を昼夜をわかたずいそいだ。このトンネル用坑木として井波閑乗時山の松の大木が大量に伐りだされたのである。航空燃料として松根油の採取命令がくるかとおもえば、今はその松の木を伐採して飛行機の増産に役立てようという。また、砺波平野特有の屋敷林(かいにょ)も軍需用材として供出を強要された。防風林として植えられた杉の大木はことごとく伐採され、大風は容赦なく吹きあたるようになった。
この、町史に出てくる「庄川太田川原の滑走路」(=般若(柳瀬)滑走路)ですが、
これは当初、大門工場で組み立てられた完成機を富山飛行場へ持って行き、
そこから空輸していたものを、より近場から空輸する(離陸させる)ために造られた滑走路です。
※滑走路についてはシリーズ③にてお届けします。m(_ _;)m
司令部偵察機と富山(松本文雄著、2006年7月20日発行)
P26
司令部偵察機の生産部、富山へ移動
司令部偵察機の生産部、富山へ移動
ほとんど機能を失った名古屋航空機製作所を前にして、軍も会社の首脳部たちも、その期間内の生産停止を覚悟で大々的な工場疎開を実行しなければならなくなった。『往時茫茫』(三菱重工名古屋五〇年の回顧第二巻)で児島三郎氏が次のように回想している。
「昭和一九年一二月七日の地震後間もなく、工場疎開の話が立ち始めたが、大部分の疎開先は、上層部の意見では富山県射水郡呉羽工場とのことで、一二月二十日頃、石井工場長ほか主だった人が現地に視察にいかれた。帰って来ての話では『機体組立、艤装は大門工場を使用する。部品工場は呉羽の福野工場を使うことに決まったので、早速打ち合わせに行ってもらいたい』という命令が出た」
(※建設当時の話など、実に興味深い内容が記載されていますが、ここでは割愛します。)
さてさて・・・・
呉羽工場と言えば呉羽紡績の事でやんすね・・・・・(*・ω・)-ω-)・ω・)-ω-)ゥィゥィ♪
そして最終組み立ては大門工場と書かれています。
(*-゙-)ウーン… 呉羽紡績は、現在は東洋紡に吸収されてしまっておりますが・・・・
社史に関して調べるには、この↓HPが便利です。
という事で・・・・・
ウリャーッ!(゚Д゚)ノ⌒ミ(((。< ポィッ
呉羽紡績(株)『呉羽紡績30年 : 1929-1959』(1960.05)
昭和19年(1944)2月10日 呉羽航空機 呉羽航空機ヲ 設立スル. 資本金 20,000,000円. 取締役社長 伊藤忠兵衛、常務取締役 森田茂作.
昭和19年(1944)4月1日 坂祝工場. 川崎航空機エ 2カ年ノ 契約デ カス.
昭和19年(1944)6月1日 紡績工場ノ 第2次 徴発ニ ヨッテ、大門、呉羽、福野ノ3工場ワ 呉羽航空機ニ ウリワタサレル.
昭和19年(1944)9月6日 入善工場. 織機 600台ノ 増設ガ ユルサレル. (大門工場カラ ウツス)
9月12日 大建産業 大建産業ガ 設立サレル.(同日 創立総会 オヨビ 設立登記ヲ オワル.) 資本金 88,631,900円、本社 大阪市 東区 本町 2丁目 28、取締役会長 伊藤竹之助、取締役社長 伊藤忠兵衛、取締役副社長 井上富三 岸本彦衛、専務取締役 田中筧 藤野三一 伊藤太一郎 菅村道太郎、取締役 吉見辰吉 岸本吉左衛門 功力寅次 下村正助 富永能雄、監査役 松本烝治 豊田利三郎 安川第五郎 松岡潤吉 井村荒喜 小林中.
昭和19年(1944)12月14日 呉羽航空機 大門工場ヲ 三菱重工業エ カス.
昭和20年(1945)4月1日 〃[大建産業] 井波工場. 三菱重工業ニ カス.
昭和20年(1945)6月20日 呉羽航空機 第1号機. 試験飛行(富山―立川間)ニ 成功スル.
7月26日 ポッダム宣言ガ 発表サレル.
8月15日 太平洋戦争ガ オワル.
8月15日 太平洋戦争ガ オワル.
昭和20年(1945)- 呉羽航空機 呉羽工業ニ 社名ヲ アラタメル. 福野工場ワ 工作機械、農具、トリコット機、力織機ノ 製造 オヨビ 紡機ノ 修理ナド、呉羽工場ワ 製材、木工業ナド、大門工場ワ 自動車ノ 修理(ノチニ 自動車ボデー ノ生産)ヲ ハジメル.
昭和20年(1945)11月1日 〃[大建産業] 井波工場. 紡績工場ニ モドス コトヲ 申請スル.
昭和20年(1945)12月1日 大建産業 井波工場. 紡績工場ニ モドル.
昭和21年(1946)1月20日 呉羽工業 呉羽工業(呉羽工場、福野工場)ト 三菱重工業 第11製作所 (大門工場、井波工場)ノ 軍需設備ガ G.H.Qノ 賠償施設管理指令ヲ ウケル.
昭和21年(1946) 1月20日 G.H.Q.賠償第1優先施設ト シテ 航空機工場、兵器廠 オヨビ 重要研究所ナド 400工場ノ 管理ヲ 指令スル.
昭和21年(1946)2月1日 〃[大建産業] 井波工場. 民需ニ 転換ヲ ユルサレル.
なるほどです・・・・
書籍を読んで、呉羽紡績から三菱重工業に貸し出されたと思っていましたが、
実際は、呉羽紡績→呉羽航空機・大建産業→三菱重工業という流れだったんですね・・・・
( ・∀・)ノシ∩へぇ~へぇ~
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