橋幸夫さんの訃報 | 武蔵野舟木組 2025

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               さすらい

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食事を終えてパソコンに向かったら、橋幸夫さんの訃報が伝えられていました。

先日から、夢グループの社長が、橋さんの入院を知らせ、かなり状態の悪い事は伝えられていた。何か引退から1年経ってから、人寄せパンダの様にニュースに登場する事には、違和感を感じていたし、大相撲の砂かぶりの席に夢グループの社長と一緒に座っている姿も、痛々しく感じていました。

 

一時代を築いた、歌謡界の大御所の一人ではありましたが、とかく舟木さんにはライバル心を剥きだしいする事もあり、正直、そうした発言には嫌な思いを感じていました。

 

さて、橋さんが「潮来笠」でデビューした時は、股旅ものの曲なのに、子供の私も好きで、唄っていたものです。同じ年に出した「おけさ唄えば」では、大映の市川雷蔵と共演をしました。

「花の兄弟」では、雷蔵さんと橋さんが本当の兄弟のように良く似ていると思って映画を見たものです。

 

「南海の美少年」という歌が1961年に出されました。さすらいが生まれて初めて買ったレコードがこの曲で、このレコードしか持っていませんでしたから、この曲ばかり聞いていた記憶があります。それ程音楽に興味のある家ではありませんでしたから、父が買った村田英雄の「王将」と2枚のレコードしか、しばらくの間はありませんでした。

 

1962年「江梨子」を歌って股旅ものから路線が少し変わり「若いやつ」という青春歌謡を唄います。気持の良い曲だと思って聞いていたものです。吉永小百合ちゃさんとの「いつでも夢を」は大ヒットしてレコード大賞を獲りました。「若い東京の屋根の下」という曲も大好きでした。

 

そしてこの頃に舟木さんがデビューして「高校三年生」が大ヒットします。

それまでは、好きな歌手の一人だった橋さんから、気持ちは舟木さんになり、その後に続く三田明さん西郷輝彦さん安達明さんなど、橋さんより若い、青春歌謡を歌う歌手達に、気持ちが移って行きます。それでも橋さんの唄ったリズム歌謡は調子のよい曲で、今でも好きな曲でもあります。

 

時が経ち、完全舟木ファンにどっぷり浸かったさすらいの所に、届いて来る橋さんの話は、決して気持の良い話ではありませんでした。舟木さんに対して揶揄するような話が多く聞こえて来たからです。極めつけは「舟木一夫の芸名は、私が付けるはずだった名前だ」

それはそれで、そうした話があった事は確かですが、事あるごとに聞かされるのは、やはりファンとしても耐えられません。それと、やはり「霧氷」と「絶唱」のレコード大賞問題ですね。すっかりアンチ橋幸夫になってしまったさすらいでした。

 

そんな事もありますが、いざ、橋幸夫さんが亡くなられたと言う訃報を耳にすると、同じ昭和からの時代を過ごし、芸能界に大きな光を当てさせた橋さんの偉業は、それはそれで素晴らしいものでした。レコード大賞を2度受賞。

 

御三家の一人と呼ばれましたが、西郷輝彦さんが亡くなり、橋さんが亡くなられ、御三家の名前も舟木さん一人になり、消えていきます。

 

橋幸夫さんの訃報に接し、心より哀悼の意を表します。

合掌

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