京都大学吉田寮(京都市左京区)の「現棟」などの明け渡しを大学側が求めた訴訟の控訴審は8月25日、大阪高裁で和解が成立した。
和解条項には、寮生が2026年3月までに一時退去し、大学側は5年以内に耐震工事を完成させるよう努めることなどが記された。
今回の訴訟の対象となった「現棟」は、1913(大正2)年に建設され、現存する国内最古の学生寮だ。吉田寮は木造2階建ての現棟と木造平屋建ての「食堂」、2015年に建てられた地上3階、地下1階建ての「新棟」からなる。
青色発光ダイオード(LED)の開発で、14年にノーベル物理学賞を受賞した故・赤崎勇さんなど、京大に入学した数多くの学者や作家などが吉田寮で青春を過ごしてきた。
この歴史ある寮を研究対象とし、卒業論文を執筆した寮生がいる。現在、工学研究科建築専攻の大学院1回生、上原雄大さん(22)だ。
※同時公開の後編記事あります
卒業論文で京大吉田寮を研究 暮らしてわかる素晴らしさ
卒業を翌年に控えた24年、「五帝国大学にみる近代の大学寄宿舎の史的研究」の題目で、北海道大学、東北大学、東京大学、京都大学、九州大学の学生寮の研究に取りかかった。
ほとんどの寄宿舎は現存しないため、各大学の文書館に赴いて、寮費など当時の生活の記録などを確認。寮ごとに特徴があったが、一番興味を持ったのは、やはり自身が住む吉田寮だった。
現在の吉田寮では主に3部屋を5人に割り当て、利用方法は寮生たちが話し合い、工夫しながら生活している。しかし、上原さんによると、建設当初は1人1室が与えられており、当時の学生寮としては珍しいという。
京大の前身である旧制第三高等学校の寄宿舎では、自修室と寝室が分かれていた。これは明治期に普及した形式で、テーブルなどが置かれた自修室の他に、畳が9枚並んだ定員9人の寝室が与えられている。これは軍隊的な教育が色濃く反映された影響だが、なぜ吉田寮では大幅に部屋割りが変更されたのか。
上原さんは、菊池大麓(だいろく)3代目京大総長が大きく関係したと考えている。
菊池は明治初期に英ケンブリッジ大に留学。現地では学生と教員が一緒に住む小規模な寄宿舎が主流で、1人1室だった。その文化が吉田寮にも部分的に取り入れられたのではないかと推測している。
終戦後には引き揚げ者や空襲で家を無くした学生がいたため、1室2人にするなど時代に応じて変化。戦前は教育施設として、戦後は福利厚生施設としての性質が学生寮には表れているという。
上原さんは、設計にも歴史が刻まれていることを教えてくれた。
建設当初の計画では、旧制三高から引き継いだ寄宿舎を存続させた上で、もう1棟造る予定だった。だが、1カ所にまとめた方が年間の支出が縮小できることなどから、寄宿舎を解体し、吉田寮の2棟に再利用する計画に変更された。これは寄宿舎の責任者の談話として、日誌に記録されている。
そうしたことから、現棟は管理棟から南寮、中寮、北寮の3棟の寮舎をフォークのように並列する形で建設。階段の手すりの支柱には、三高のものと思われる文様が現在もあるのだ。【山崎一輝】