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『涼宮ハルヒ』シリーズと総称されるライトノベル群は、いわゆるシリーズもののほとんどがそうであるように、最初っからシリーズとして第一作が書かれたわけではなく、単発作品として誕生した『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品が好評であったがゆえ、「それじゃあ」ということで後日談がどんどん書き足されていった次第のものである。
だからこそ、まず第一に『涼宮ハルヒの憂鬱』という(シリーズものとして後から見れば)第一作にあたる作品は、「その前」も「その後」もなくても成立する唯一の作品である(当たり前)。それに対して、たとえば、小説版もアニメ版も傑作との誉れ高い『涼宮ハルヒの消失』などは、「その前」と「その後」があってはじめて成立する、全体の中の1ピースである(※23)。
また『涼宮ハルヒの憂鬱』というタイトルがそもそもシリーズ化を想定してつけられたタイトルではないから、実は結果的に『涼宮ハルヒの憂鬱』というタイトル自体はキャッチーで意外性があって良くても、後日談群を『涼宮ハルヒ』シリーズと呼ぶのは、いささか無理がある。
今回は、そのあたりの話をしてみよう。
実はネタばらしをしてしまうと、時系列でいう『涼宮ハルヒの退屈』(という作品もあるのだ)以降の大量の後日談群の大部分においては、語り手のキョンが主人公であることは一貫して変わらないものの、タイトルロールのハルヒはメインヒロインではなくなる(※24)。それどころか、キーパーソンとすら言えない場合も少なくない。
そして、これは『憂鬱』の時点で既にそうだったのだが、SOS団と名乗る作中舞台の非公認サークルーキョン、ハルヒ、長門有希、朝比奈みくる、古泉一樹ーにおいて、団長たるハルヒは、なんと驚くべきことに肝心な時にはいつも蚊帳の外なのである。
『憂鬱』においては、ハルヒがすべての中心的キーパーソンでありながら、同時に主人公の見知る驚異の出来事からは蚊帳の外でもあるという逆説こそ、おもしろさのミソだったわけだが、後のシリーズ化されたものでも終始一貫してそれをやられてしまうと、個人的にはまた別の実に素朴な感想も抱いてしまうのである。
すなわち、ハルヒがいつも仲間はずれでかわいそうであると。
もちろん、ハルヒにだけ重要なことを知らせない理由は作品内で明記されているから、理屈としては読み手にとっても理解できるのだが、それでもやはり、やっていることは5人の「仲間」のうち、1人だけ仲間はずれにしているという行為に他ならない。どんなに作中で言い訳しても、そしてその言い訳自体は理解したとしても、結局やっていることは、5人のサークルで1人だけ除け者にしていることに変わりはない。理解と賛同は別である。
そして、ここが眼目なのだが、キョン=作者にとって、ハルヒを疎外した上で、なおかつキョン=自分以外の3人も平等には扱っていない。違うとは言わせない。
一番重要な「仲間」は常に長門有希である。キョン=作者の基準では必ず自分と長門有希だけは情報を共有して、そして状況次第では朝比奈みくるも入れてやって、しかたない場合には古泉一樹も入れてやるが、しかしハルヒは絶対に仲間に入れてやらないのである。
どんなに言い訳しても、この事実からは「ハルヒがかわいそう」という感想を抱くしかない。
キョン=作者の無自覚の深層心理では、ハルヒは舞台装置の脇役、古泉も脇役、朝比奈みくるですら、無意識的引き立て役となる。
そのキョン=作者の長門びいきは、シリーズ化された後日談群でも、最初のうちは目立たない。
たとえば、『涼宮ハルヒの溜息』では、前作『憂鬱』に登場するクラスメイトの朝倉涼子と長門有希を比較して、
「 あの無口な読書娘にハルヒを観察する以外の何があるってんだ。まだ朝倉涼子のほうが消えて惜しまれる存在だったぜ」
などと言っていたりもする(※25)。
※23
たとえば、『消失』は短編『笹の葉ラプソディ』(という回があるのだ)を筆頭にそこに至るまでの時系列の長編・短編をふまえていなければ単体では理解不能である。
「男はつらいよ」でいうと、吉永小百合回も浅丘ルリ子回も、あるいは私のすきな青観先生もワット君も考古学も、単体の映画とは比較しようがない。
※24
例外的にメインヒロインらしい活躍をするのは、短編『ライブアライブ』ぐらいか。
※25
『涼宮ハルヒの溜息』(谷川流/角川スニーカー文庫/2003)p161
ちなみに、『涼宮ハルヒの溜息』は、後日談シリーズとしては最初の長編だが、同時に『涼宮ハルヒの憂鬱』が『がんばれ長門さん』になっていく過渡期とも言える。ハルヒがとりあえず話の中でのキーパーソンではあるが、メインヒロインかどうかがこのあたりから怪しくなってくる。
ここでは朝比奈みくるが言わばストーリー上のメインヒロインで、ハルヒは悪役に近い扱いである。そして一人称主人公キョンの愚痴はこの回がピークだったろう。この回でのハルヒの横暴ぶりは、たしかに「うざい」かもしれないが、それを言ったら、この回でのキョンの愚痴も相当うっとうしい。自分は〈世界〉のために何もせず、ハルヒにいじめられる朝比奈さんを実際には救い出しもしないで、なのに朝比奈さんの味方ポジションに酔っていて、ここでは長門&古泉に感謝の気持ちもろくに示さない。
さらなる余談。『溜息』は実質4日間ぐらいの話が本編の大部分を占めており、『消失』も3日間程度の話がほとんどすべてと言っていい。『憂鬱』は、それよりは長い期間の話だが、クライマックス部分は意外と一週間ぐらいのことでしかない。後日談シリーズの中でも比較的長尺な『涼宮ハルヒの陰謀』(谷川流/角川スニーカー文庫/2005)でさえ、一週間程度の話である。『ハルヒ』シリーズの長編の多くは、どれも長いお話のようでいて、実際はほんの数日の話でしかない『カサブランカ』型である。『風と共に去りぬ』型ではなく。
『涼宮ハルヒ』シリーズと総称されるライトノベル群は、いわゆるシリーズもののほとんどがそうであるように、最初っからシリーズとして第一作が書かれたわけではなく、単発作品として誕生した『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品が好評であったがゆえ、「それじゃあ」ということで後日談がどんどん書き足されていった次第のものである。
だからこそ、まず第一に『涼宮ハルヒの憂鬱』という(シリーズものとして後から見れば)第一作にあたる作品は、「その前」も「その後」もなくても成立する唯一の作品である(当たり前)。それに対して、たとえば、小説版もアニメ版も傑作との誉れ高い『涼宮ハルヒの消失』などは、「その前」と「その後」があってはじめて成立する、全体の中の1ピースである(※23)。
また『涼宮ハルヒの憂鬱』というタイトルがそもそもシリーズ化を想定してつけられたタイトルではないから、実は結果的に『涼宮ハルヒの憂鬱』というタイトル自体はキャッチーで意外性があって良くても、後日談群を『涼宮ハルヒ』シリーズと呼ぶのは、いささか無理がある。
今回は、そのあたりの話をしてみよう。
実はネタばらしをしてしまうと、時系列でいう『涼宮ハルヒの退屈』(という作品もあるのだ)以降の大量の後日談群の大部分においては、語り手のキョンが主人公であることは一貫して変わらないものの、タイトルロールのハルヒはメインヒロインではなくなる(※24)。それどころか、キーパーソンとすら言えない場合も少なくない。
そして、これは『憂鬱』の時点で既にそうだったのだが、SOS団と名乗る作中舞台の非公認サークルーキョン、ハルヒ、長門有希、朝比奈みくる、古泉一樹ーにおいて、団長たるハルヒは、なんと驚くべきことに肝心な時にはいつも蚊帳の外なのである。
『憂鬱』においては、ハルヒがすべての中心的キーパーソンでありながら、同時に主人公の見知る驚異の出来事からは蚊帳の外でもあるという逆説こそ、おもしろさのミソだったわけだが、後のシリーズ化されたものでも終始一貫してそれをやられてしまうと、個人的にはまた別の実に素朴な感想も抱いてしまうのである。
すなわち、ハルヒがいつも仲間はずれでかわいそうであると。
もちろん、ハルヒにだけ重要なことを知らせない理由は作品内で明記されているから、理屈としては読み手にとっても理解できるのだが、それでもやはり、やっていることは5人の「仲間」のうち、1人だけ仲間はずれにしているという行為に他ならない。どんなに作中で言い訳しても、そしてその言い訳自体は理解したとしても、結局やっていることは、5人のサークルで1人だけ除け者にしていることに変わりはない。理解と賛同は別である。
そして、ここが眼目なのだが、キョン=作者にとって、ハルヒを疎外した上で、なおかつキョン=自分以外の3人も平等には扱っていない。違うとは言わせない。
一番重要な「仲間」は常に長門有希である。キョン=作者の基準では必ず自分と長門有希だけは情報を共有して、そして状況次第では朝比奈みくるも入れてやって、しかたない場合には古泉一樹も入れてやるが、しかしハルヒは絶対に仲間に入れてやらないのである。
どんなに言い訳しても、この事実からは「ハルヒがかわいそう」という感想を抱くしかない。
キョン=作者の無自覚の深層心理では、ハルヒは舞台装置の脇役、古泉も脇役、朝比奈みくるですら、無意識的引き立て役となる。
そのキョン=作者の長門びいきは、シリーズ化された後日談群でも、最初のうちは目立たない。
たとえば、『涼宮ハルヒの溜息』では、前作『憂鬱』に登場するクラスメイトの朝倉涼子と長門有希を比較して、
「 あの無口な読書娘にハルヒを観察する以外の何があるってんだ。まだ朝倉涼子のほうが消えて惜しまれる存在だったぜ」
などと言っていたりもする(※25)。
※23
たとえば、『消失』は短編『笹の葉ラプソディ』(という回があるのだ)を筆頭にそこに至るまでの時系列の長編・短編をふまえていなければ単体では理解不能である。
「男はつらいよ」でいうと、吉永小百合回も浅丘ルリ子回も、あるいは私のすきな青観先生もワット君も考古学も、単体の映画とは比較しようがない。
※24
例外的にメインヒロインらしい活躍をするのは、短編『ライブアライブ』ぐらいか。
※25
『涼宮ハルヒの溜息』(谷川流/角川スニーカー文庫/2003)p161
ちなみに、『涼宮ハルヒの溜息』は、後日談シリーズとしては最初の長編だが、同時に『涼宮ハルヒの憂鬱』が『がんばれ長門さん』になっていく過渡期とも言える。ハルヒがとりあえず話の中でのキーパーソンではあるが、メインヒロインかどうかがこのあたりから怪しくなってくる。
ここでは朝比奈みくるが言わばストーリー上のメインヒロインで、ハルヒは悪役に近い扱いである。そして一人称主人公キョンの愚痴はこの回がピークだったろう。この回でのハルヒの横暴ぶりは、たしかに「うざい」かもしれないが、それを言ったら、この回でのキョンの愚痴も相当うっとうしい。自分は〈世界〉のために何もせず、ハルヒにいじめられる朝比奈さんを実際には救い出しもしないで、なのに朝比奈さんの味方ポジションに酔っていて、ここでは長門&古泉に感謝の気持ちもろくに示さない。
さらなる余談。『溜息』は実質4日間ぐらいの話が本編の大部分を占めており、『消失』も3日間程度の話がほとんどすべてと言っていい。『憂鬱』は、それよりは長い期間の話だが、クライマックス部分は意外と一週間ぐらいのことでしかない。後日談シリーズの中でも比較的長尺な『涼宮ハルヒの陰謀』(谷川流/角川スニーカー文庫/2005)でさえ、一週間程度の話である。『ハルヒ』シリーズの長編の多くは、どれも長いお話のようでいて、実際はほんの数日の話でしかない『カサブランカ』型である。『風と共に去りぬ』型ではなく。
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