十二国記、杉本さんと浅野くんはたしかにアニオリすぎて不評な部分あったと思うけど今となればあれはあれで…
感心したところその一
古い家屋を並べて町並みを描くのは非常にうまいやり方だと思う。
これはレイバーという近未来の機械が登場する作品だから有効なのではない。
現代的な建物だけでは作品世界が味気ないものになってしまうからだ。
そういう点でどんな種類の作品にも時間的空間的な背骨となる背景が必要だろう。
パトレイバーでは昭和を感じさせる建物や調度品を描いてそれをおこなっている。
感心したところその二
影をつくることで無駄な画を削減するのは秀逸だ。
小説でも文章を削ぎ落として簡潔にすることが名文を書くのに必要だが、映像も同様のようだ。
負担のない快適な鑑賞ができる仕組みだ。
感心したところその三
登場人物の口数が多いゆえに鑑賞者の気持ちを乱す作品があるが、そのような失態がない。
その時その場の登場人物の心境を鑑賞者が考えられるように配慮してある。
制作者の手つきを隠して世界観を壊さないようにできているのは流石だと思う。
他にもあるが、大きく三つ挙げた。
冗長になるのでこれくらいに留める。
先にGHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊(1995)を先に観ていたが、押井守らしい演出はこの頃からあったのだとわかった。
月並な賛辞となってしまうがパトレイバーは非常に満足感のある映像体験だった。
長くなってしまった。
このあたりで筆を置くことにする。
クェス・パラヤをリアタイしたときは私も若くて、ただいらついてただけだったが、アニメ版の『十二国記』の杉本優香をみて、あの年頃の女の子のなかには、社会への強烈な違和感、あるいは閉塞感を抱いている子がいる、と学習した。
だからあれだ。
おれはミールスがなにかわからないが、ビリヤニは食べられなかった
近所のガチインドで買ってきたそれは、米なら行けるだろうと思っていたが、思った以上に食が進まなかった。
口に入れて噛むことすら最終的に困難になり、生ゴミ行きとなった。
好きではない食べ物はたくさんあるが「好きでも嫌いでもないが喉を通らない」はいい経験だった
何かを嫌うにはそれが何かをある程度形容する必要があるのだが、おれにはビリヤニの構成要素すら見いだせなかった
食の世界は広い。
つまりコンピューターサイエンスが根本的に解ってないんじゃん。向いてないよお前。