(井の頭事件で司法解剖を担当した、杏林大・佐藤喜宣教授監修の漫画『監察医 朝顔』のワンシーン。井の頭事件でも、被害者の通勤路かその周辺で、交通事故を思わせる「ドーン」という衝撃音が聞かれたという話があるが・・・。)
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(「その1」の最後の部分を、「その2」に移植しました。)
■ 失踪当日(4月21日)の被害者の足取りと、遺体の身元が特定されるまでの流れ
4月21日(木)午前7時30分、川村誠一さん、吉祥寺の自宅を出発。
同日午前8時30分、港区新橋の建築事務所に出社。
(川村さんは約2年前からこの建築事務所に勤務。事件直前に積算部の主任に昇進したばかりだった。)
同日昼ごろ、電話で「今日は飲んで帰る」と自宅の妻に連絡。
同日午後5時30分、勤務先を退社。高田馬場にある以前の勤務先を訪問し、その後、高田馬場時代の元同僚ら5人(6人とも)とJR高田馬場駅近くの飲食店で飲んだ。川村さんの昇進を祝い、元同僚らが飲み会を開いてくれたのだという。
この時のことについて、高田馬場時代の元上司(設計事務所の所長その人と思われる)は、「昇進したというので、お祝いをしようと元同僚たちが集まった。機嫌良くカラオケを歌っていたのに」と振り返っている。
(この日の二次会で入った店で、かつてその店で働いていた上海出身の女性が新宿歌舞伎町でクラブのママになったという話題が出され、川村さんも「へえそうなの」「あの子がママにねえ」などと話に加わっていた、との情報がある)
飲み会がお開きになったのち、川村さんは、高田馬場駅から直に自宅最寄りの吉祥寺駅に向かうことをせず、山手線で新宿駅に行った。
(川村さんが高田馬場駅から地下鉄東西線で自宅方面に直に西進することをせず、いったん山手線で南下し新宿駅に出ている(つまり遠回りした)点について、先述の「歌舞伎町でクラブのママになったという上海出身の女性」に会いに行ったのかもしれない、との見方もあるが、真相は不明)
同日午後11時30分ごろ、JR新宿駅で元同僚2人と別れた。中央本線(以下、中央線)乗り口方面に歩いて行ったのを元同僚らに目撃されたのを最後に、消息を絶った。
(単にここで同僚らと別れて中央線に乗ったのだとすれば、先の上海出身の女性は関係ないものと思われるが、いずれにしても真相は不明。また、「JR新宿駅で元同僚2人と別れ」という部分については、「午後11時半すぎに元同僚1人と(新宿)駅構内で別れ、中央線乗り口方向へ歩いていったのを最後に失跡していた」とする情報もある。
この日、川村さんと最後まで一緒にいた元同僚の話として、「特に変わった様子はなく、楽しい酒でした。川村さんは飲むと顔がすぐに赤くなるので、この夜も赤かったようですが、酔った様子はなかった」
何かに対する不安や悩みを抱えていた様子はなく、飲食中にも他の客とのトラブルはなく、次に約束があったとか、誰かに呼び出されたということもなかった。
飲み会の翌日には大切な会議も入っており、当時の川村さんは、その準備に余念がなかったという。
4月22日(金)夕方ごろ、川村さんの妻が警察に行方不明の捜索願を提出。
この行動がやけに迅速すぎるという印象を与えてしまったようで、妻によると、「捜索願いに関しては、私としては、外泊したことのない主人が(21日朝に家を出てから)帰宅せず、翌日会社でも連絡がつかなかったので、心配になって、その日(22日)の夕方に届を出しただけなんです。それが早いと言われても・・・」(妻談)
4月23日(土)午前11時ごろ、井の頭公園の女性清掃員が、公園内のゴミ箱から遺体の一部(左足首)を発見。
その後の捜査により、池周囲に設置されたゴミ箱から次々と切断遺体が発見された。(頭部と、胴体の大部分は見つからず)
ちなみに第一発見者の女性清掃員によると、4月22日(金)の午後3時のゴミ収集時点では、不審なビニール袋はなかった、という。
「この女性清掃員の証言に間違いがなければ、23日(土)に発見された遺体入りの袋は、22日のゴミ収集が終わった午後3時ごろから翌23日の午前9時ごろまでの間に捨てられていたことになる」との見方がある。
(ここで「午前9時」というのは、公園内のゴミを「回収」して回っていたのがそのくらいの時間、ということかと。左足首の発見と通報は午前11時ごろと言われる)
いずれにしても、川村さんが新宿駅で元同僚(ら)と別れてから、井の頭公園で遺体で発見されるまで、30数時間が経過していた。
また余談ながら、1994年当時、川村さんが居住していた武蔵野市の家庭用「燃えるゴミ」の日は「月・水・金」であり、「午前中」に回収作業を行っていた。
このことから、未発見の頭部や、胴体(の大部分)については、犯人はこれを井の頭公園のゴミ箱に投入したのではなく、4月22日(金曜日=燃えるゴミの日)の朝に家庭用生ごみとして自身の居住地域のゴミステーションに出し、処理が遅れた部分(両手足や胴体の一部)については、次の燃えるゴミの日(4月25日、月曜日)に生ごみとして同じゴミステーションに出したいところだったが、それを待ちきれずに、4月22日(金)の午後3時ごろから23日(土)午前にゴミ回収がなされるまでの間に、井の頭公園のゴミ箱に投棄したのではないか、との見方がある。
4月26日(火)、DNA型の一致により、遺体は公園近くに住む一級建築士の川村誠一さん(当時35)と確認された。
(身元の特定は、DNA型のほか、わずかに判別できた指紋あるいは掌紋の一部によった、との情報もある)
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■ 新宿駅で元同僚と別れて以降の、被害者および不審者の目撃情報
4月21日(木)午後11時30分ごろ、中央線の荻窪~西荻窪間の電車内で、人相や服装、所持していたショルダーバッグが失踪時の川村さんとよく似た男性を見た、との目撃情報があった。(目撃者によると、その男性は吉祥寺駅に着いた時にはいなくなっていたという。)
4月22日(金)午前0時10分ごろ(正確な時刻不明、だいたいこの時間帯)、吉祥寺駅から川村さんの自宅へと向かう道で、何かが車と衝突したとみられる「ドーン」という衝撃音を聞いた、という情報があった。
この音が聞かれた時間帯というのは、川村さんが新宿駅で元同僚と別れた後、そのままJR中央線に乗れば、これくらいの時間に吉祥寺駅に着いたであろうとみられている時間帯だった。
その時間帯に、交通事故を思わせる衝撃音が川村さんの通勤路で聞かれているということで、この事件のいわゆる「交通事故隠蔽説」の根拠となっている。
音を聞いたのは「井の頭通りに面したマンションの住人何人か」であり、そのマンションの住人によると、音が聞こえてきたのは井の頭通りの方向からではなく、井の頭公園の方向からだった、との情報がある。
上の「ドーン」という音が聞かれたのと同じ時間帯のこと、「川村さんに似た男性が、30代とみられる二人の男に殴られているのを見た」という女性の目撃証言があった。
場所は吉祥寺駅そばの近鉄百貨店東京店の「正面玄関」との情報があり、単に「(近鉄百貨店の)脇」とする情報もある。(近鉄百貨店東京店は2001年に閉店し、現在はヨドバシカメラマルチメディア吉祥寺となっている)
(1枚目、ヨドバシカメラマルチメディア吉祥寺を正面から。94年の事件当時は、ここは近鉄百貨店東京店だった。2枚目は同ビルの南側に面した路地)
日付ははっきりしないが、先の「ドーン」という音を聞いた複数の住人が住むマンション近くの井の頭通りの路上に、車のフロントガラスとみられるガラス片が散乱しているのが目撃された、との情報がある。
(1枚目、川村さんが吉祥寺駅への通勤路として使っていた井の頭通り。1枚目の画像向かって左側の道---赤信号のところ---へ折れて真っすぐ見通したのが2枚目の画像。94年当時とは景観が変わっていると思われるが、ここも川村さんの通勤路だった。2枚目画像この地点から300mほど直進した先に井の頭公園がある。)
4月22日(金)午前9時過ぎ、井の頭公園から2kmほど離れた杉並区久我山のコンビニエンスストアで、二人組の男が「東京都推奨」の半透明ゴミ袋10パック(計100枚)を購入していた、との情報が、遺体発見のほぼ半年後(94年10月21日)に、東京新聞によって報じられている。
コンビニの店長によると、「二人組の一人は30歳前後で、Tシャツ姿。もう一人は50歳前後で黒っぽい作業着を着ていました。二人は別々に入店して、ゴミ袋の棚に真っすぐに向かったんです。キョロキョロと周囲を気にするような様子で落ち着きがなく、おかしな感じでした。一人がレジで支払いを済ませている間、もう一人が入り口付近で周囲の様子をうかがっているようでした」
コンビニの店長は、二人組が大量のゴミ袋を買った翌日に井の頭公園でゴミ袋入りの遺体が見つかったというニュースが気になり、レシートと、二人が映った防犯ビデオを保存していた。
しかし捜査本部は東京新聞が報じるまでこの情報をつかめておらず、東京新聞の記事で知った時にはすでに半年が経過していたため、男らの身元特定はできなかった。
「実は、店長は遺体発見の3日後、巡回の警察官にそのことを伝えていたようですが、捜査本部には届いていなかった。事件直後に大量の捜査員を投入して聞き込み捜査に当たりながら、コンビニ情報を得ることができなかった。初動捜査に穴があるのではないか、といわれても仕方のない失態だった」(元捜査関係者談)
4月23日(土)午前4時ごろ(この日の午前11時ごろに、ゴミ箱から遺体が発見された)、ポリ袋を持った30代とみられる二人組の男が井の頭公園内を歩いていた、との目撃情報があった。
この二人組について、男らはベンチに座っている人に出くわすと、方向を変えて逃げるように立ち去るという不審な行動をとった、との情報がある。
服装は、一人は紺色のスーツの上下、もう一人は黒色のジャンパー姿。身長はともに165cm前後。ジャンパー姿の男が白いポリ袋を持ち、公園の別の場所でも、この二人と似た男たちが目撃されていたという。
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■ 捜査の経緯を見てみる
三鷹署に特別捜査本部が設置され、警視庁捜査一課と三鷹署の署員が合同で捜査にあたった。
バラバラ事件の常道で、「犯人は顔見知り、しかもごく身近な人間」との見立てのもと、川村さんの親族、勤務先の同僚や、元同僚、地元で参加していたボーイスカウト関係者、小学校から大学までの同窓生を中心に、数百人を超す関係者を丹念につぶしていった。
「犯人が遺体を切断する目的の一つは、身元の判明を遅らせること。つまり、身元が分かることを恐れる知人や友人が犯人であることが多いんです。だから、バラバラ殺人の捜査は身元の割り出しが勝負なんですが、予想外に早く(身元が)判明したため帳場(捜査本部)は色めき立っていました。一斉に川村さんの家族や知人、友人たちに聞き込みを行いました」(当時の捜査関係者談)
特に川村さんの妻は、「捜索願を出すのが早かった(22日夕方)」とみなされ、かなり疑われたという。
「事件当時は、自分が疑われていることに気がつきませんでした。本当に普通の日常の中で起きた事件だったので、私自身、何が起きたのかよくわからないくらい混乱していたんです。
事情聴取ではいろいろなことを訊かれましたが、捜査の手順として身近な人間から疑っていくという話を聞いて、納得していた部分もあります。
捜索願いに関しては、私としては、外泊したことのない主人が(21日の朝出勤してから)帰宅せず、翌日会社でも連絡がつかなかったので、心配になって、その日(22日)の夕方に届を出しただけなんです。それが早いと言われても・・・」(妻談)
川村さんの知人の談話としては、
「(事件後まもなく、三鷹署の一室で)事件前後のアリバイや(川村さんの)人柄などを聞かれて、指紋も採られました。指紋は、協力者として、という建前でしたが、やはり川村さん周辺の知人が犯人だと思っているのかと、良い気持ちはしませんでした。
(その2か月後に捜査員が自宅を訪ねてきたが、その時には)川村さんの身辺を洗い直すためと言っていました。当時は東京を離れていたのですが、わざわざやって来るのは捜査に行き詰っているのだろうと思いました」(ボーイスカウトの後輩だった会社員の男性談)
しかし、いくら調べても、男女関係や、金銭関係のトラブルなど、怨恨に結びつくような話は出てこなかった。
猟奇的な犯罪を扱った小説やホラービデオにも関心を寄せ、捜査員をレンタルビデオ店に派遣もしたが、成果はなかった。
「最寄りの吉祥寺駅まで帰った後で、事件に巻き込まれたかもしれない」との見立てのもと、喧嘩や交通事故なども幅広く調べたが、犯人に結びつく情報は得られなかった。
解剖を担当した杏林大の佐藤教授は、遺体処理の特異さから、強いマインドコントロールを受けた過激なカルト教団に属する人間たちによる犯行を疑っていた。
実際、佐藤教授は、捜査員にある宗教団体の名前を挙げ、広域捜査体制を敷くことと、犯人のプロファイリングのために、警察庁の科学警察研究所にいるプロファイラーの協力を仰ぐことを提言したという。
捜査員から返ってきた答えは、「いや、先生、あそこは、そこまではやらんでしょう」というものだった。
「これは解決できないかもしれない、と思ったのは、被害者の足取りが途絶えた夜に、被害者の通勤路で『ドーン』という衝撃音が聞こえたという情報に警察が引っ張られていったときです。死因はわからないにもかかわらず、その情報と、遺体の横隔膜にほんのわずかな出血があったことから、被害者を轢いてしまった犯人が隠蔽のためにバラバラにした、という見立てがなされてしまった。しかし単なるひき逃げ犯があんなやり方で遺体をバラバラにするでしょうか」(解剖医談)
事件発生から約1か月で近隣署などの「応援部隊」が去り、人員は三分の一に縮小された。
さらに翌年(1995年)の3月20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。
未曽有のテロ事件の発生に、三鷹署の特別捜査本部に詰めていた警視庁捜査一課の捜査員は全員オウム事件に召集され、三鷹署の署員も全員がいったん引き揚げを命じられ、特別捜査本部は解散した。
オウム事件が、5月に松本智津夫死刑囚(当時40)の逮捕により収束に向かってのちも、警視庁捜査一課が再び井の頭事件に投入されることはなく、三鷹署単独による捜査が続けられた。
捜査一課をはやばやと撤収させたことについて、発生当初に捜査一課員として事件を担当していた浦東寛美さんは、
「急なことで捜査一課が引き揚げることを遺族に伝えることすらできなかった。(中略)オウムという前例がない事態が起きたとはいえ、井の頭事件は、わずか11か月で捜査を打ち切っていい事件ではなかった。地道に捜査していけば、必ず犯人を逮捕できると信じていた・・・」と振り返った。(2009年の公訴時効成立時、浦東さん61歳の時の談話)
1996年1月、三鷹署の捜査本部に、立川消印、差出人不明の封筒に入れられた刃渡り13cmの両刃ナイフが届けられた。しかしそれはプラスチック製のおもちゃであり、たちの悪いいたずらと思われた。
所轄の三鷹署員が日常業務の中で細々と捜査にあたる状況が続く中、なんの進展もないまま、2009年4月23日午前0時に公訴時効が成立した。
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以上が事件の概要となります。
正直、書き漏らしている部分も多いかと。
さらに細かい部分を見てみたいという方は、この事件を扱った書籍や先行サイトで、情報収集してみていただければと。
(現時点で部外者が接することのできる情報をほぼ漏れなく拾えるのは、不思議、オカルト、未解決事件系で有名なオカルトクロニクルさんのサイトだと思われ、ここの3倍くらいは情報量があり、なおかつ鋭い考察が加えられており、非常におすすめです。)
この事件では、犯人像についてこれといった妄想も浮かばず困っているのですが、「その3」以降で、おぼつかないながらも、そのあたり(犯人像)について考えてみたいと思います。