物語:別れの名をまだ知らない──転軸記録より、ひとつの物語
この手は、まだ離れていない。
でも、言葉にできない予感だけが、空を染めていた──。
その日、夢は来なかった。
眠りは深く、映像も、物語も、何ひとつ現れなかった。
長いあいだ、眠るたびに何かが見えていた。
昼寝さえも、象徴や風景があふれていた。
けれどその日は、ただ沈んでいた。
魂が静まり返ったまま、言葉すら浮かばない。
目が覚めたとき、
胸の奥──みぞおちのあたりに、重くて、切ない感覚が残っていた。
夢を見なかったはずなのに、“何かを受け取ったあとの痛み”だけが、体に残っていた。
やがて、ある気配が蘇る。
夢では何も見えなかったはずなのに、
誰かが、迎えに来ていたような気がした。
それが誰なのか、目覚めたあとにだけ、わかった。
姿かたちは違っていた。
夢の中では知らない顔だったかもしれない。
でもその気配は、ずっと前から知っている何かだった。
それは、あらかじめ約束されていた出会いだった。
“出会う”というより、“戻る”ような感覚だった。
けれど──その記憶とともに、ある問いが浮かぶ。
「じゃあ、今ここにいる“誰か”とは、どうなっていくのだろう?」
その問いは、深く、痛かった。
離れたくない。
ずっと一緒にいたい。
けれど、もうどこかで“終わりの時間”が近づいていることを、
どちらも、無意識に感じているのかもしれなかった。
その人は、表面では甘えん坊で、繊細だった。
だけど、深くに──一気に立ち上がる力を持っていた。
それは、何度かの場面で見たことがある。
忘れられないほどに、強く、美しい立ち上がりだった。
でも、今回は違った。
その力を見せようとしない。
見せられないのではなく、見せない理由があるように思えた。
もしかしたら、
もうどこかで「別れが来る」と知っているのかもしれない。
だから今は、
たくさん甘えていたい。
たくさん愛を受け取っていたい。
そう考えたとき、既に涙は溢れていた。
これは、誰かが去っていく話ではない。
これは、“記憶を完成させる時間”の話なのかもしれない。
「どうなるかは、まだわからない。
でも今だけは、
目の前の人に、できるかぎりの愛を注ごう」
その想いだけが、最後に残った。
📎この物語は、誰の物語でもありうる。
別れの名前をまだ知らない誰かへ──
その名を呼ばなくても、
静かに伝わることを願って。


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