第1集 大日本帝国のアキレス腱 ~太平洋・シーレーン作戦~
NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争

第1集 大日本帝国のアキレス腱 ~太平洋・シーレーン作戦~では、資源が乏しい日本の物資の補給を支えた輸送船と、アメリカの潜水艦にスポットを当てる。
 太平洋戦争末期、九州近海に出没したアメリカの潜水艦が撮影した海上封鎖の様子やベトナム沖の海底で発見された輸送船の残骸などから、日本の国力の限界と近代総力戦の実態に対して、当時の戦争指導者の認識の甘さを検証する。

  • [1]日本の生命線・海上輸送からみる太平洋戦争04:16
  • [2]貧弱な国力でアメリカと戦うため南方進駐を図る20:59
  • [3]作戦地域の拡大が、国力崩壊のきっかけに04:33
  • [4]アメリカ海軍が日本の海上交通の破壊作戦を開始06:03
  • [5]1943年9月30日 御前会議で「絶対国防圏」が決まる01:44
  • [6]海上護衛総総司令部 新設01:51
  • [7]海上封鎖され、南方からの資源ルートがほぼ壊滅09:52
  • [8]海上輸送の崩壊と本土空襲により終戦へ09:38

太平洋戦争のさなか、アメリカの潜水艦による魚雷攻撃を前に成すすべもなく、海底に消えてゆく日本の輸送船。
ベトナム沖の海底に眠る日本の大型輸送船団ヒ86。昭和20年1月、アメリカ軍機の襲撃を受けて全滅した。この夏47年ぶりに、この船団を発見し船名を確かめることができた。

航空機の生産に不可欠なボーキサイトを積んだ「辰鳩丸(たつはとまる)」。日本への石油を満載していたタンカー「さんるいす丸」。南方からの重要資源の海上輸送は、この船団の壊滅を最後にほぼとだえた。日本の生命線は絶たれたのである。

太平洋戦争の開戦からすでに半世紀が経ちました。この間、日本は驚異的な経済成長を成し遂げて、経済大国として世界のなかに大きな位置を占めるまでになりました。しかしその一方で経済摩擦が起こり、アジアの国々からは従軍慰安婦などの戦後補償の問題と関連して、日本は昔と少しも変わっていないといった批判の声も聞かれます。また国内でも政治改革や行政改革などが叫ばれていながら、一向に進んでいません。いろんな意味で歴史の転機を迎えている日本なんですが、その日本に今何が問われているんでしょうか。今回わたくしたちはその問題を50年前の太平洋戦争で日本が敗れた原因を現代の視点で改めて分析することによって考えてみることにしました。そこには国家とか企業などのあり方について現代に通じる貴重な歴史の教訓が横たわっているからです。この「ドキュメント太平洋戦争」では、そうした戦争の教訓を今日から6回にわたって放送していきます。第一回目の今日は当時の戦争指導者がいかに日本の国力を度外視して戦線を拡大し破綻を招いたか。その膨張し過ぎのつけとも言うべき問題を、今まであまり知られてこなかった海上輸送という戦争の一つの局面に焦点を当ててみていきたいと思います。

アメリカ・カリフォルニア州ノートン基地。この基地の映像ライブラリーに太平洋戦争中、アメリカ軍が撮影した膨大な記録が保管されている。ここに一つの貴重な映像が埋もれていた。終戦直後の昭和21年、アメリカ戦略爆撃調査団が撮影した東京からの報告である。

字幕に出た“終り”とは“戦争の終わり”を意味する。
日本の戦争指導者に自ら敗因を語ってもらおう。

太平洋戦争の半ばまで海軍の作戦の最高責任者であった永野修身軍令部総長。

「われわれの記録では、主力艦艇の36%がアメリカの潜水艦によって失われてしまった。」

開戦の直前、日米交渉にあたった野村吉三郎駐米大使。

「開戦前、日本はアメリカの国力を見積もったが、それは「杜撰(ずさん)」なものであった。アメリカの生産力は日本人の想像をはるかに超えていた。」

日本はなぜどのようにしてアメリカとの戦争を決断したのか。昭和16年7月、日本軍は南部仏印へ進駐。当時日中戦争の泥沼に陥っていた日本軍。

中国を支援するアメリカやイギリスなどの経済的圧迫に、その活路を東南アジアに求めた。

しかし日本の予測をはるかに超えて、アメリカはこれに激しく反発した。ルーズベルトはただちに在米日本資産の凍結と日本に対する石油の全面的な輸出禁止に踏み切った。

大国アメリカを相手に戦争をするのか、それともアメリカに屈して中国大陸から手を引くのか。資源の少ない日本は重大な選択を迫られていた。

当時の日米の国力を比較したデータ。昭和16年、日本の原油生産量は721分の1。しかも戦争に欠かせない石油の90%、くず鉄の100%近くをアメリカからの輸入に頼っていた。

昭和16年10月、発足したばかりの東条内閣は開戦に踏み切るかどうか、国策の再検討に入った。中心は日本の国力判断であった。しかし鈴木(貞一)企画院総裁や陸海軍当局の判断は、開戦を前提とした希望的観測に傾いていた。
当時の日本経済の現状は、むしろ悲観的な材料にあふれていた。長引く日中戦争による軍事費の増大で、国民総生産は昭和14年をピークに下降線をたどり始めていた。

軍需生産に必要な物資の供給と配分の計画さえ行きづまり、国民を動員しての金属回収も始まっていた。
この時、国策再検討会議の資料の作製に携わった陸軍省戦備課の田辺俊雄少佐。

「アメリカの状況を全然分からないんですよね。航空本部辺りに行って、向こうの情報を調べたものを取ってくる。日本の国力、平均生産量はこのくらいで上がっていく。アメリカの生産量は(垂直方向に)こう上がっていくんです。こんなバカなことあるかという風にわたしは考えたんですがね、それは実際だったんですね。それはわれわれがアメリカの底力というものを全然知らなかったわけですよね。」

この貧弱な国力でアメリカとどう戦うのか。日本の戦略は楽観的なものであった。開戦と同時に東南アジアの資源地帯を迅速に攻め打つ。その資源を持ち帰って生産を拡大し、アメリカと長期持久の戦いができる国力を維持する。その間ドイツがヨーロッパで勝利を収めるならば、日本も有利な条件で講和できるであろう。
しかし、この戦略が可能かどうかの鍵は、ただ一つ海上輸送力にかかっていた。その見通しを政府と大本営はどう判断していたのか。

当時日本が持っていた輸送船はあわせて600万トン。このうち、資源や食糧を運ぶためには半分の300万トンの船が最低限必要である。一方で戦争になれば、軍が兵士や武器を運ぶために大量の輸送船が必要となる。これを残りの300万トン以内に抑えることが長期戦を戦う絶対条件とされ、陸海軍もこれに同意した。

開戦の1か月前、企画院の最終報告書。資源輸送用の300万トンの船は確保できる。したがって国力維持のためには、今開戦したほうが有利である。しかし、この結論には大きな落とし穴があった。アメリカ軍の攻撃によって沈没する輸送船の損害をどの程度と見積もるのか。ここで重大な誤算を犯すことになる。

「一体、輸送船の損耗はどのくらいかということが議論になった。その時海軍には調べた資料が何もないんですよ。資料出せ、資料出せって言うもんだから、一夜漬けで数字出して、それでつじつまをあわせて損耗率を出した」

海軍が慌てて引っ張りだした資料には、第一次世界大戦でイギリスが失った船舶の資料だった。その損耗率は10%程度。海軍は、これをもとに日本の損害を1年におおむね60万トン前後と推定した。しかし損害は予想をはるかに超えたのである。

昭和16年11月5日、戦争か和平かを決定する御前会議が開かれた。
この席で資源の輸送を巡って進行役の原枢密院議長が質問に立った。

「南洋の敵艦のために物資輸送に影響はないものと考えてよろしいか」

「海上の輸送は日本の生命線であるので、保護には手段を尽くすが、被害は年に相当あると思う。しかし、防御を強化するので日本の海運には差し支えないと思う」

「イギリス、アメリカ、オランダの海軍から妨害を受けても、日本の物資は差し支えないと考えてよろしいか」

「船舶の損害は陸海軍共同の研究の結果であります」

海上輸送を巡る判断には、なんら化学的・合理的な検討がなされることなく、虫のいい楽観論がそのまま認められた。この日、御前会議はアメリカとの戦争を決意することを決定した。

昭和16年12月8日、太平洋戦争の開戦と同時に、日本軍は一斉に東南アジアに侵攻した。

開戦にあたって、日本は二つの戦争目的を掲げた。第一に「自存自衛」。第二に「大東亜の新秩序建設」。アジアへの侵略を正当化しようというものであった。
インドネシアでは日本軍は植民地支配からの解放者として迎えられた。

日本は広大な大東亜共栄圏の建設を目指した。そこには石油、鉄鉱石、ボーキサイトなど豊かな資源があった。この資源を手に入れることが、植民地支配からの解放を掲げた大東亜共栄圏建設の裏のもう一つの日本の目的であった。

東南アジア各地から日本に、5千キロに及ぶ資源輸送作戦が始まった。後にベトナム沖で沈んだタンカー「さんるいす丸」。昭和17年夏、ボルネオからの石油輸送に加わった。さんるいす丸は海運国・日本を代表するタンカーであった。

「輸送船ってものがなきゃ、海軍陸軍だけじゃね、戦争ってもんは成り立たないですよね。わたしら誇りを持っていましたね。」

しかし輸送船の長いシーレーンをどう守るのか。日本海軍にはその戦略も装備も欠けていた。日露戦争の後、海軍はアメリカを仮想敵国とした。その戦略は相変わらずの大鑑巨砲主義で巨大な戦艦が重んじられていた。開戦当初、輸送船を護衛する艦艇はゼロに等しい状態だった。

アメリカはまったく別の戦いを考えていた。開戦の直前11月26日。アメリカ海軍はアジアの潜水艦部隊にひそかな指令を出していた。日米が開戦した場合には、たとえ武装していない商船でも、警告なしに攻撃してもよい。「無制限潜水艦作戦」の指令である。

当時この戦法は多数の民間人が犠牲になる恐れがあるため、国際法で禁止されていた。しかしアメリカは日本を海上封鎖し兵糧攻めにするため、その最も有効な手段として、この作戦を準備していたのである。

「日本人は実にみごとに戦いました。だが一つだけアキレス腱ともいうべき弱点があったのです。それは日本の生命線である海上輸送の船への攻撃にまるで無力だったということです。」

真珠湾攻撃の3時間後、アメリカ海軍は直ちに全潜水艦に無制限作戦を発令。51隻の潜水艦が太平洋全域に散っていった。しかし、アメリカの潜水艦攻撃はこの時期、意外な欠陥を抱えていた。

トラック島近海をパトロール中のアメリカ潜水艦・ティノーサが単独で航海していた大型タンカーを発見。第三図南丸1万9千トンである。
「ティノーサ」は15本の魚雷を発射。12本が命中した。爆発したのはわずか2本。残りはすべて不発に終わり、図南丸は沈没を免れた。

「魚雷にはまったく頭に来た。ひどくがっかりしたよ。敵に近づくだけでも大変で、ベストの位置から正確な操作で全部命中させたのに、それで不発だったんだから」

「ティノーサ」の艦長はこの失敗を克明に書いた抗議書を海軍省兵器局に送り、魚雷の改善を求めた。
日本軍がアメリカの潜水艦を侮り、輸送船に単独航海を続けさせた。

太平洋戦争中、日本の輸送船はどのような動きをし、戦局に伴ってそのシーレーンはどのように変化したのでしょうか。

わたしたちは当時の輸送の主力であった千トン以上の輸送船700隻について、戦争中に辿った航路を防衛庁や運輸省、船会社などに残された資料をもとに、できる限り克明に調べました。そしてそれをコンピュータに打ち込んで、映像化しました。

戦争の初期、昭和17年の5月から6月にかけての日本の輸送船の主なシーレーンです。占領地域の拡大に伴って、西太平洋の全域に網の目のように広がっています。なかでも、日本からシンガポールにかけてのシーレーンで、輸送船が最も活発に動き、これが資源ルートの日本の生命線でした。この当時は沈められる船の数も少なく、輸送量も順調に伸びていました。

この頃アメリカは、大西洋で潜水艦との戦いに苦しんでいた。ドイツのUボートはアメリカ東部の海岸に現れ、護衛もなく、航行するアメリカのタンカーを次々に撃沈。1942年前半だけで、被害は580隻。300万トンになった。このため都市ではガソリンが不足して配給制に追い込まれ、世論が海軍の無策ぶりを激しく非難した。

1942年夏、アメリカ海軍はキング作戦部長が陣頭に立って、潜水艦対策に乗り出した。キングはまず、護衛船専門の駆逐艦の大量建造を始めるとともに、輸送船の単独航海を禁止し、大船団を組んで航行することを命じた。
さらにUボートの暗号解読を専門に行う部隊を作った。暗号解読によってUボートの作戦海域が分かると、輸送船団には航路の変更を指示、Uボート攻撃専門の航空部隊を現場に急行させた。
わずか半年で、アメリカの輸送船の被害は10分の1に減少した。

アメリカが着々と戦力を整えていったのに対し、日本はもっぱら国民の精神力の高揚を図っていた。

「およそ戦争に勝つためには、物質的な武装とともに精神的な武装が大切であります。ものには区切りがありますが、ただ無限にして無尽蔵なるものが実にこの精神力であります。」

「振るハンマーの一つひとつに、伏してし止まんの闘志が籠る。」

低い技術力も生産力も精神力によって克服できると日本の戦争指導者は国民に説き続けていた。

初戦の勝利に酔った日本軍は昭和17年3月、さらに作戦地域の拡大を決定する。北はアリューシャン列島、東はミッドウェー島、南はフィジー諸島。この大幅な作戦地域の拡大が、日本の国力を崩壊させる引き金となった。

昭和17年6月、日本軍はまずはミッドウェー海戦の敗北でつまずく。それまで日本が優位に立っていた太平洋での制海権、制空権が崩れ始めた。
次いで昭和17年8月、ガダルカナル島で攻防戦が始まった。日本軍の補給基地・ラバウルからガダルカナルまではおよそ千キロ。兵隊や物資を積んだ輸送船はこの長い距離を満足な護衛もないまま、南海の強行突破を図った。しかし船団が島に近づくと、アメリカ軍の攻撃機が待ち受けていた。

ガダルカナルを巡る半年間の戦いで、日本は軍が重用した輸送船30隻あまりを一挙に失った。船舶不足が緊急の問題として浮かびあがった。

大本営は政府に対し資源輸送用の船を新たに62万トン、軍用にまわすことを要求。

作戦優先か国民生活優先か、政府はギリギリの選択を迫られた。東条首相は軍の要求の半分を認めた。

大本営はこれでは戦争はできないと強く抵抗。東条首相は要求を認めれば、国が破産してしまうと断固拒否。

ついには陸軍部田中作戦部長が東条に直談判。田中の吐いた「馬鹿やろう」発言で、政府と大本営の衝突という重大な事態になった。

昭和17年12月10日、船舶問題を巡る大本営政府連絡会議は天皇の出席を求めるという異例の会議になった。結局、政府側は大本営の要求をのんだ。日本が国民生活の維持よりも軍の作戦を優先する道を選んだのである。
この結果、開戦にあたっての国力維持のための最低条件として政府と軍が合意した、資源輸送の船舶300万トンの維持は崩れ、242万トンに落ち込んだ。日本の戦争経済の崩壊の始まりであった。

ここは50年前に日米の戦場になりましたガダルカナルの海岸です。海の近くには、沈没した日本の輸送船がご覧のように今もその錆びた姿をさらしております。このガダルカナルは日本から直線距離にしますと、ざっと6千キロも離れています。こんなに遠くまで占領地域を拡大したこと自体、そもそも日本の輸送能力、ひいては国力をはるかに上回るものであったわけなんですが、開戦からわずか1年足らずで始まったガダルカナルの戦いによりまして、日本はその海上輸送能力の弱点を早くもさらけ出すことになりました。そしてこの後は南方からの資源の輸送もガタガタになりまして、国内の軍需生産だけでなく、日本の国内経済全体を圧迫していくことになります。

船舶の不足はたちまち国民生活を直撃した。南方からの米の輸入が減り、米不足が深刻となる。政府は芋も主食にすることを決定。九州や北海道の石炭輸送も大幅に低下した。石炭が減ると工業地帯の生産力も落ちていった。鉄鉱石の輸入の減少は、船舶事情をさらに悪化させた。造船所にまわる鉄鋼材が減ると、船の外観は薄くなり、エンジンも粗悪品が増えていた。こうしたなかで大量生産されたのが「戦時標準船」であった。ベトナム沖で沈んでいた辰鳩丸もその1隻。これらは速度が遅く故障がちで、輸送力はさらに低下することになった。

100トンクラスの小型木造船まで貴重な輸送力として大量生産された。

日本の船舶の不足は大東亜共栄圏のなかにも深刻な影響を及ぼし始めた。

戦前東南アジアの国々は、資源や物資の不足を貿易によって互いに補いあっていた。しかし日本軍が現地の船舶を次々に挑発していくにつれ貿易が絶たれ、各国は自給自足を余儀なくされていった。インドネシアのジャワ島ではスマトラからの石炭が途絶えたため、日本軍は島内のバヤ(地名)で炭坑と鉄道の開発を始めた。2万人のインドネシア人がここに動員された。食糧不足のうえマラリヤや赤痢が蔓延して、およそ1万人が犠牲になったといわれている。

南方戦領地行政実施要領。太平洋戦争の開戦直前、日本がひそかに策定していたものである。重要資源の獲得を最優先にし、地元住民の生活への重圧は我慢させる方針がしっかりと記されている。それが、大東亜共栄圏の建設という美名の裏の日本の本音であった。

バヤでの大規模な炭坑の開発は、計画のわずか10分の1しか生産できず失敗に終わった。分断された大東亜共栄圏の国々でも、物不足は日増しに募っていった。

昭和18年2月8日、深夜の伊豆沖で突然悲劇が起こった。

日本の豪華客船、竜田丸が魚雷攻撃を受けて沈没。乗っていた軍人、軍族など1,400人全員が死亡した。アメリカ潜水艦の本格的な反撃の始まりであった。

闇夜の海での魚雷攻撃という当時の常識を破る攻撃を可能にしたのは、アメリカ潜水艦の新兵器、SJレーダーであった。SJレーダーは、アメリカ海軍の依頼を受けた電信電話会社デルの、電波技術の技師や研究者を総動員して開発した、精度の高い最新レーダーであった。

アメリカ軍の悩みの種であった魚雷も改善された。これには強力な民間の頭脳が加わった。海軍省兵器局の顧問をしていたアインシュタインである。アインシュタインが兵器局にあてて書いた手紙。今回われわれの取材で初めて見つかった。アインシュタインは魚雷の不発を防ぐために、被爆装置の改善方法について具体的な提案している。
昭和18年秋には、アメリカ潜水艦の戦力は飛躍的に向上している。

アメリカ海軍は、日本の海上交通の本格的な破壊作戦に乗り出します。目標は日本のタンカーでした。タンカーが最も頻繁に行き来していたのは、シンガポールやボルネオ島、日本を結ぶ石油輸送ルートです。このルートにアメリカ軍は、開戦時の2倍を超える118隻の潜水艦を投入し、日本のタンカーを次々に襲いました。

南シナ海フィリピン沖、タンカーを待ち伏せしていた2隻のアメリカ潜水艦が日本のさんるいす丸を発見した。直ちに魚雷を4本発射。

「雷跡右何度ってこう言うわけだね。こうやって見ているとそこまで来てんですよね。ズカーンとね、右船室に貨物を持ってるとこが一つ、そこに命中したんですよ」

さんすいす丸は辛くも沈没を免れた。昭和18年を境に、潜水艦による貨物船の被害が急激に増え始めた。それに伴って物資の輸送も大きく落ち込んでいった。これは日本の戦争経済の根幹を揺るがす大問題となった。資源輸送の実績は予定をはるかに下回り、軍需生産に必要な資材の供給と配分、つまり物資動員計画も立てられない事態に日本は追い込まれていったのである。

昭和18年9月30日、御前会議は日本の勢力圏を守るため、絶対に欠かせない地域を「絶対国防圏」と定めた。ここでアメリカ軍を食い止めようという方針である。しかしこの作戦に必要な船舶もまた撃沈され、日本は太平洋でのあり地獄に陥っていく。会議の席上、原枢密院議長が質問に立った。

「絶対国防圏を確保する自信はあるのですか」

「絶対確保の決意はありますが、勝敗は時の運であります。戦局の前途を確言することはできません」

「統帥部が作戦に自信を持てないのでは困ります。」

「本時戦争は自存自衛のため、やむにやまれず起こったものであります。今後の戦局のいかんに関せず、日本の戦争目的完遂の決意には何ら変更もありません。」

この御前会議では、初めて輸送船の護衛を強化することも決定された。これは、海軍が提出した護衛強化の方策である。潜水艦による被害を抑えるため、対戦攻撃機は2千機、護衛艦を360隻も必要とするというものであった。当時、潜水艦攻撃用の航空隊は海軍、護衛艦も50隻足らずしかなかった。その実情からすれば、海軍の方策は絵に描いた餅であった。

その2か月後、日本海軍はようやく海上護衛総司令部を設立した。

司令長官には及川元海運大臣が就任したが、実態はお寒い限りであった。

「古い駆逐艦ね、漁業保護やったりした船と、だんだんあの頃、海防艦という船ができてきよったよ。それの何隻かな、もう皆あわせても、わたし忘れましたけど、10隻かそこらじゃないかな。協力といったらそれだけですよ。連合艦隊がくれればいいんですけど、連合艦隊の船はくれなしね、向こうは戦しなくちゃいけないから。」

護衛総司令部の主力はこの海防艦と呼ばれる小型の護衛艦であった。排水量は500トンから千トン。速力は遅く、装備していた武器も貧弱なものであった。日本の輸送船も単独航行をやめて、必ず船団を組むことに変わったが、一つの船団に派遣される海防艦は、わずかに1隻から3隻程度。質量ともにアメリカ潜水艦の敵ではなかったのである。

団地の池の中に浮かんでいるこの船は、戦争中海防艦・志賀として使われていた船です。現在は、このように千葉市の海洋公民館に生まれ変わっています。こうした海防艦は戦争が始まった当初、日本にはわずかに4隻しかありませんでした。このこと自体、当時の日本の海軍がアメリカの潜水艦攻撃をまったく頭に入れていなかったことを物語っているんですが、その後も1年に30隻程度しか建造されませんで、ようやく拍車がかかったのが戦争も終盤の昭和19年以降でした。しかも建造された海防艦は浮上してきたアメリカの潜水艦と撃ちあって負けたという証言があるくらいに、その性能は劣っていました。このように日本の戦争指導者が潜水艦から輸送船を守るために重い腰を上げた時にはもう手遅れで、すでに日本の国力では守りきれないことを知らされたわけです。

輸送船にとって潜水艦以上に恐ろしい敵が、中部太平洋に進出してきたアメリカの高速空母艦隊である。昭和19年2月17日アメリカ艦隊の攻撃機が日本海軍の基地・トラック島を奇襲攻撃してきた。一挙に輸送船34隻、20万トンが沈没。このなかには大型タンカー5隻が含まれていた。

昭和19年2月は日本の輸送船にとって記録的な損害の月になりました。トラック島を含め、失った船舶は122隻、54万トン、当時日本が持っていた全船舶の1割以上をわずかひと月で失ったのです。この時点で資源を運ぶ船は開戦の時より100万トン減っています。そのうえ、軍の要求で30万トンが軍用船に引き抜かれます。日本はまだ作戦優先の考えを変えていません。

「太平洋では潜水艦などの攻撃でわが軍が攻勢を強めている。わが軍は日本の船舶を300万トン以上沈めた。日本軍は補給を絶たれ、飢えと降伏を待つだけだ。」

昭和19年の夏、軍需省は今後の国力の見通しについて極秘の報告書をまとめていた。最低限の国民生活の維持もすでに困難になっており、19年の終わりには国力は弾力性を喪失するとして日本経済崩壊の暗い見通しが書かれている。
この頃軍需省総動員課長に転じていた田辺俊雄さんに、ある日突然近衛元首相から呼び出しがかかった。東京の近衛の別荘「荻外荘(てきがいそう)」に来るようにとの指示である。荻外荘には近衛文麿のほか、若槻礼次郎、平沼騏一郎(きいちろう)、岡田啓介、元首相であった重臣たちが顔を揃えていた。

「元総理大臣が4人おりましてね、わたしびっくりしちゃったんですよ(笑)。そうして、国力の状態を説明しろということだったんで、船の状況、鉄の状況、アルミの状況、そういったことをご説明したわけですよ。元総理大臣は黙って聞いておられて、最後まで意見らしい意見はお述べにならなかったですね。憮然とした表情でね、聞いておられたわけですがね」

昭和19年7月、東条内閣が倒れ小磯内閣が成立する。田辺さんはその閣議でも説明を求められた。

「重光外務大臣が国力がそんなひどい状態になっているのかと、われわれは全然知らされてないんでね、と全然知らないんだ。これは驚いた、とこういうようなことでね。あとは時間の問題だと、みんながそう思ったんじゃないかと思いますがね。」

日本の戦争指導者はそれでも戦争をやめなかった。逆に国民を一億玉砕に駆り立てる自滅の道を選んだのである。

アメリカ潜水艦による日本本土への海上封鎖を記録した貴重な映像が残されている。アメリカの潜水艦が日本の沿岸に近づき、輸送船を次々に狙い撃ちしていく。日中堂々と浮上して砲撃する潜水艦まで現れた。日本はすでに大型船の大半を失い、小型の木造船などを動員して米などの輸送に充てていた。この木造船を狙ったのである。日本に持ち込もうとした米は、アメリカ軍によって徹底して海中に捨てられた。

アメリカの潜水艦は遂に日本の港の中まで侵入する。

この映像は昭和20年5月、アメリカ潜水艦・ティランテが長崎市に近い軍艦島を攻撃した時の記録である。この攻撃で石炭の積み込みを行っていた貨物船・白寿丸が沈没。日本の船にとって安全な海はもうどこにもなかった。
この攻撃の時「ティランテ」の副館長だったビーチ大尉。

「日本軍は何の反撃もしてこなかったよ。われわれはまったく自由だった。その後も港の中まで行ったことはあるし、東京湾にだって行けたと思いますよ。味方が仕掛けた機雷が怖かったので行かなかったけどね。」

大東亜共栄圏のアジアの国々も分断された。日本の占領地域はアメリカ軍の絶え間ない攻撃にさらされていた。スマトラやボルネオの石油も運ぶタンカーがなくなり、捨てられるか、アメリカ軍の攻撃で燃えてしまうかのいずれかであった。
昭和19年秋、ベトナム北部は凶作に見舞われた。日本軍への米の供出で人々に備蓄はなく、未曾有の飢饉になった。およそ200万人が餓死したと戦後ベトナム政府は報告している。

網の目のように広がっていた日本のシーレーンは、昭和19年の終わりにはほとんど消えてしまっています。かろうじて残っているのは、南方資源ルートですがこれも切れるのは時間の問題でした。
昭和19年12月30日、タンカー「さんるいす丸」はパレンバンで1万キロリットルの石油を積み込んだ。そして9隻の輸送船と船団を組み、アメリカ潜水艦の目をかいくぐって、日本を目指すことになった。船団の名前はヒ86。どの船もボーキサイトや石油、錫、ゴムなど、日本が待ち望んでいる重要な資源を満載していた。

「自信なんてものはね、そんなもんありっこないですよ、戦争中は。護衛艦がついてますからね、まあ護衛艦に任せるしか手はないんですよ。」

潜水艦攻撃を警戒し海軍は、この船団に異例の6隻の護衛艦をつけた。だがこの時、アメリカの高速空母艦隊が東シナ海に侵入していた。航空機千機を持つアメリカ軍最強のハルゼー艦隊であった。ベトナム南部まで進んでいたヒ86船団は、この情報に接すると北上を急いだ。しかし昭和20年1月12日、アメリカ軍の偵察機により船団は発見された。午前11時攻撃が始まった。戦いは一方的であった。のべ250機に及ぶアメリカ軍の執拗な攻撃で、輸送船も護衛艦も次々に沈んでいった。最後に残った、さんるいす丸。せめて船体だけでも残そうとベトナムの海岸近くに乗り上げた。

「何千メーター先かね、ぱーっと火の手が上がってるんですよ。海岸先に座ってですね、ただ燃えただけだと船が浮くでしょ、鉄板がぽろりぽろりと剥げて行くんですよね。やりやがったと思ってね、腹が立つ。もう南シナ海にはね、日本の商船が一隻もいない。貴重な南方の資源を当てにして、これだけ戦争を広げたでしょ。あぁ、これは負けだと思いましたね」

日本が大きな期待をかけた大型輸送船団は全滅した。これによって、南方の資源ルートはほぼ途絶え、日本の生命線は断ち切られたのである。

ワシントンにある海軍歴史センター。ここには戦争直後、太平洋戦争の原因や影響などをあらゆる分野から調査したアメリカ戦略爆撃調査団の莫大な報告書が保存されている。

輸送部門の報告書は、潜水艦による海上封鎖の効果を裏づけている。昭和20年春には、もはや食卓用の塩さえ欠乏し、飢餓と無力が待っているだけであったと記している。

「わたしは日本を降伏させるには、潜水艦と機雷による海上封鎖だけで十分だと思っていました。日本本土への上陸計画もソビエトの参戦も、そして原爆を使うことももはや必要ないと考えていました。」

太平洋戦争中、日本が失った輸送船は2,600隻。860万トンにのぼった。船員の死亡率はほぼ2人に1人。陸軍や海軍の死亡率をはるかに超え、その数は6万2千人あまりにのぼった。戦争が終わった時、満足な形で残っていた輸送船は、わずかに31万トン。開戦時600万トンの20分の1に過ぎなかった。戦前世界第3位の海運国を誇った日本の商船隊は、太平洋を墓場に壊滅した。

アジアの資源を奪いながら戦争を続けるといった日本の戦争計画は、ご覧のようにまるで穴の空いたバケツで水を運ぶようなみじめな失敗に終わりました。その敗戦から50年近く経った今も、資源や食糧を海外に依存するといった日本の経済構造はまったく変わっていませんし、それどころかますますその度合いを深めています。そういう意味で、戦争中に日本が掲げたあの自存自衛の旗印は身の程を知らないまったくの幻想であったといわざるを得ません。それも思い上がって、現実のものと錯覚したところに日本の不幸の第一がありました。しかし、今の日本にその錯覚に似た、経済大国の思い上がりとか、日本さえよければいいといった独善的な姿勢が果たしてないといえるでしょうか。結局、資源のない日本は自存自衛ではなく、社会との共存共栄のなかでしか生きる道はありません。その厳然たる事実を、あの海の藻くずとして消えていった日本の輸送船団がまさに身を持って、今のわたくしたちに伝えているように思えます。

日本の戦争経済は、海上輸送の崩壊とそれに続く本土空襲によって、完全に息の根を止められた。
昭和20年6月8日、御前会議は今後の戦争方針を天皇制の護持と本土決戦へと変更。太平洋戦争の開戦目的であった自存自衛と、大東亜共栄圏建設の幻想はここに崩れ去った。

瀬戸内海の島影にかくざした日本の連合艦隊最後の姿である。戦艦・日向、35千トン。太平洋戦争中、ミッドウェー海戦やフィリピン沖海戦に参加した、かつての連合艦隊の花形戦艦であった。終戦間近、動かす油さえない、これらの艦船がむなしく本土決戦の砲台として使われ、アメリカ軍攻撃機の標的となったのである。

クレジット
番組名
ドキュメント 太平洋戦争
副題
第1集 大日本帝国のアキレス腱 ~太平洋・シーレーン作戦~
放送
1992年度
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