しかしながら、依然として日本企業の人件費(賃金)や人材育成への投資は、欧米諸国と比較して低水準にとどまっており、日本での人的資本経営の推進には多くの課題が残されている(図表1)。日本での賃金の低迷は日本特有の雇用慣行、つまり年功序列や終身雇用制度が背景にあると指摘されてきた。欧米では企業が景気変動に応じて比較的柔軟に雇用調整を行うのに対し、日本企業は主に賞与(ボーナス)の削減や昇給の抑制によって対応し、雇用維持を優先してきた。その結果、労働分配率や賃金水準は長期的に抑制され、労働者も雇用の安定と引き換えに低賃金を受け入れてきたという側面がある。
しかし、近年では雇用の流動化が進み、終身雇用制度による雇用の維持に限界が指摘されている。企業は、デジタル技術やAI、脱炭素といった新たな潮流に対応できる人材の確保が不可欠となっており、従来の一括採用・長期育成型の人材マネジメントだけでは変化のスピードに追いつけなくなっている。こうした中、労働者においてもスキルの再構築(リスキリング)が必要とされており、政府・企業・個人それぞれのレベルで人的資本向上への取り組みが求められている。
また、2022年には政府は「人的資本可視化指針」を策定、企業が開示すべき人的資本情報の内容と指標を示した。この指針では、7つの分野にわたる19項目の人的資本指標が提示された(図表2)。人材育成、従業員エンゲージメント、流動性(採用・離職)、ダイバーシティ、健康・安全、労働慣行、コンプライアンス/倫理といった領域ごとに重要な開示事項が整理された。例として研修時間・費用、従業員エンゲージメント指数、離職率・定着率、女性管理職比率、労働災害発生率などが挙げられ、それぞれ企業の価値向上やリスク管理の観点から情報開示が求められている。このガイドラインにより企業は、自社の人的資本に関する強みや課題を「見える化」して事業戦略に活かすことや投資家や取引先との対話において共通の指標での説明・比較が促されている。
また、実質賃金の持続的な向上を実現するためには、単に政府や企業による施策だけでなく、労働者一人一人が自らのスキルアップや働き方の改善に積極的に取り組むことが重要だ。実質所得の向上には生産性向上が必要であり、そのためには一人一人の働き方を変えていくことが求められるためだ。
少子高齢化による労働・雇用環境の変化や次世代産業への転換を背景に人的資本をはじめとした無形資産への投資と活用は重要性を増している。今後の日本の経済成長には従来の日本型の労働慣行から抜け出し、人的資本投資がさらなる生産性向上と経済成長をもたらすという好循環を生み出すことが必要となっている。様々な取り組みが模索される人的資本投資の動向に引き続き注目したい。