2024年1月1日。輪島市出身の女性は、関西の旅行先で静かな正月を過ごしていた。
「そろそろ両親に『あけましておめでとう』と電話しようかな」。夕方、かばんからスマホを取り出すと、画面に表示された緊張感のある6文字に目を奪われた。
「緊急地震速報」。震源地は能登地方だった。呼吸が早くなるのを感じながら車に戻り、ラジオのスイッチを入れると、NHKのアナウンサーが鬼気迫る声で叫んでいた。
「高さ10メートルの津波がきます!避難してください!」
訓練された声があまりに恐ろしく、全身の血が引いていった。震える手でスマホを握り、輪島に住む両親に何度も電話をかけたが、全くつながらなかった。
急いで滞在先に戻り、テレビをつけると、震度7の巨大地震に襲われた輪島の街が映っていた。画面の中に、崩れた家があった。
「うそ……。実家だ」。息が止まりそうになった。崩れ落ちた場所は、両親がいつもくつろいでいる居間だった。
「お願い。別の場所にいて」。再び祈るように電話をかけたが、その日は繋がることはなかった。
1月2日夜。ようやく父と電話がつながった。「お父さん、生きていた」。胸の奥で安堵したのも束の間、次の言葉で心を打ち砕かれた。「……お母さんは、ダメだった」。
父は運よく救い出されたが、母は心肺停止の状態で運ばれ、死亡が確認された。母が見つかったのは、1月2日に日付が変わる頃だった。
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ハフポスト日本版の相本啓太記者は7月19〜21日、東京大学大学院情報学環の開沼博准教授や研究室のメンバーと合同で、「能登半島地震における情報災害に関する実地聞き取り調査」を実施した。
今回の災害では、多くの人が甚大な被害に見舞われただけでなく、情報環境において人間が引き起こす「情報災害」が、被災地に不安や混乱をもたらした可能性がある。
調査班は、災害で大きな被害が出た能登半島を巡ったほか、被災者ら12人にインタビューし、その実態を記録した。
今回の女性の話からは、SNSで流布された「渋滞」に関する情報のほか、「自らの活動は特別・例外である」と言わんばかりの政治家やメディアの発信が、「自粛」の呼びかけに従って“苦渋の決断”をした当事者の尊厳を傷つける被害をもたらしていたことが分かった。
※「災害経験」という極めてセンシティブなテーマであるため、取材を受けていただいた方については匿名で表記しています。
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大渋滞。女性は「人命救助」を優先した
「お母さんの顔を見たい」ーー。気持ちの整理がつかないまま、女性はその一心でどうにか能登に入れないかと模索し始めた。
しかし、道は閉ざされていた。能登空港は滑走路の亀裂で使えず、仮に空港まで辿り着いたとしても、輪島の中心部まで歩いて行くことはできない。
さらに1月4日には、石川県や県警が「不要不急の能登入りは控えるように」と呼びかけを始めた。主要道路が寸断され、渋滞が発生し、人命救助や物資輸送を妨げているということだった。
実際、震災から2週間程度は、南北の経路がほぼ全て被災して通行不能となった。国土交通省の資料によると、かろうじて通行できた国道249号(七尾〜穴水)に交通が集中し、震災前は8000程度だった「日交通量」は、1月6日に約1万1000まで上昇。2月3日には1万4000を超えた。
徳田大津IC(志賀町)から珠洲市までも、震災前は1時間5分ほどだったが、1月6日は5時間13分を要した。ようやく2時間を切った(1時間53分)のは、2月21日だった。
東日本大震災でも、長時間の移動によって被災者が衰弱した事例が相次いだ。女性の脳裏には、そんな14年前の震災の記憶も蘇った。
「もし、私が車で能登入りして渋滞の原因を作ったら、助からない命があるかもしれない」
「渋滞していない」。信じられない投稿、そして政治家は…
一方、能登入りを諦めることは簡単ではなかった。なぜなら、母と最後の時間を過ごせない可能性があったからだ。
甚大な被害が出た輪島では、火葬場、葬儀場、寺院も被災した。いつ葬儀を出せるのかもわからない。葬儀社からは「先にお骨にして後日の葬儀としては」と提案された。
通常どおりの葬儀を営むためには、亡くなった母を被災地の外に運ぶしかなかったが、それも道路や渋滞の状況次第では難しいと言われた。
そうなると、最後に母の顔を見ることができない。別れの挨拶を言うこともできない。行き場のない焦燥感が募る中、刻一刻と変わる被災地の状況を確認するため、Xのアカウントを開いた。
すると、目を疑うような投稿が飛び込んできた。
「能登町に入りました」「凍える寒さの中、カレーをいただく」。れいわ新選組の山本太郎参議院議員の投稿(1月5日)だった。
同様に、多くのフォロワーを持つインフルエンサーも「被災地入り」を報告し始め、なかには「渋滞は発生していない」と、事実と異なる情報を流す人もいた。
「なんで……。私は一刻も早くお母さんに会いたいのに。胸が張り裂けそうなくらい輪島入りを我慢しているのに。どうして被災地のお願いを無視できるの?」
1月5日は、人命救助や物資輸送の妨げにならないようにと、国会で与野党6党による「現地視察の自粛」の申し合わせが行われた日だった。
地元出身の立憲民主党・近藤和也衆議院議員(石川3区)も同日、渋滞によって物資輸送や緊急車両の通行に支障が出ているとし、「地縁血縁など関係性の薄い方、一般のボランティアの方は特に穴水以北へ行くことはお控えください」とXで呼びかけていた。
“被災地”を最優先に考えた当事者たちと、外との温度差は、想像以上に深刻だった。
「自粛」に従った女性に、追い打ちの「記事」も
母の葬儀は1月10日、金沢市内で営まれた。女性は能登入りを断念したものの、無事に母を金沢まで運ぶことができ、最後に顔を合わせることができた。
葬儀の場で、女性は父に一冊の雑誌を手渡した。何十年も前に、母が寄稿したエッセイが載っているものだ。父はページをめくりながら、「お母さんが一生懸命書いとったのは知っとった」と、声にならない声を出して泣いた。
葬儀の後、父を避難所に送り、女性は石川県外の自宅に戻る準備をした。正月から怒涛の10日間だったが、翌日からは日常が待っている。
父の仮設住宅入居、実家の解体、母の四十九日法要、そして自分の仕事。やるべきことは山積みだ。無理をしてでも前を向かなければならなかった。
しかし、ほんの一瞬でも立ち止まると、様々な「情報」が女性を無理やり“あの日”へと引き戻した。そして、「自粛」の呼びかけに従い、“苦渋の決断”をした女性の尊厳を傷つけた。
「血管が切れそうなくらいの怒り」を感じたのは、2月4日の朝日新聞の記事だ。識者にボランティアのあり方についてインタビューしたもので、それ自体は特に気にならなかった。
目が点になったのは、記者の「石川県は渋滞で物資の輸送や救援に支障が出るなどとして、一般のボランティア活動を控えるよう呼びかけました。首相の現地入りは発生から13日後でした」という問いに対する、識者の回答だった。
「僕は、ボランティアや一般車両が現地で渋滞を起こして支援車両の妨げになっている、というのが『今回最大のデマ』と言っています」
女性は1カ月前、亡くなった母に会いたいという気持ちを必死に押し殺し、断腸の思いで能登入りを自粛した。その時の葛藤、決断、光景を全て思い出した。
「デマ……? 私は、デマに踊らされていたとでもいうの?」
「せめて震災直後の『今』だけは」
実際、渋滞は発生していた。石川県内から応援職員として奥能登に向かった行政関係者は、筆者の取材に「渋滞が支援車両の走行の妨げになっていた」と語る。
「震災後の1月中旬、国道249号で渋滞にはまり、通常2時間の輪島までの道のりが4時間以上かかった。特に1月はあらゆる支援活動に困難が伴った」
この関係者は、被災者の「2次避難」などを担当。渋滞の影響で、迎えのバスの到着が遅れたり、後任との引き継ぎや撤収に支障が出たりしたという。
また、県警の警察官も「大渋滞が発生し、通常3時間程度の道に10時間以上を費やした」と、震災直後を振り返っている。
さらに、能登で被災した2人も、「自衛隊や消防、トラック、通信会社、電力会社の車両が渋滞に巻き込まれているのを目撃した」と取材に証言し、こう回顧した。
「被災地で“救助を待つ命”が一つでも多く救われてほしい。そのために、せめて震災直後の『今』だけは、どうか不要不急の訪問は控えてほしい。こんな呼びかけは、被災者の声やその家族らを代弁するものでもあった」
一方、女性が目にした新聞記事からは、当事者のこうした切迫感はほとんど伝わってこなかった。
「もし、自分や家族が被災し、助けを待っていたら。お願いが出ているのに、大勢の人が押し寄せたら。自分に置き換えて考えると、絶対に納得できないと思う」
女性の証言を受け、筆者は朝日新聞に取材。①一般車両などによる渋滞が支援車両の妨げになっていたことはデマなのか②筆者が取材した女性はデマに騙されていたのか③記事中の「『ボランティア入るのやめてくれ』みたいなことが行政の初動の遅れのごまかしに使われたんじゃないか」という記述の根拠は何かーーと、3つの質問を送った。
しかし、同紙は「3つの質問にまとめて答える」とし、「震災直後に現地に入った災害ボランティアの専門家の見解。石川県によるボランティアに関する情報発信のあり方について、より柔軟な対応が可能だったのではないかという視点でインタビューに応じていただいた」と説明するにとどめた。
「子どもたちを誘拐」陰謀論も相次ぐ
女性を不快にさせたのは、渋滞を巡る政治家の行動や報道だけではなかった。子どもたちの集団避難を巡って飛び交った「陰謀論」も許せなかった。
震災では、学校の授業継続にも影響が出たため、一部の自治体は別の自治体で授業を行う決断をした。輪島市でも250人を超える中学生が石川県南部の白山市に避難し、約2カ月の間、市内で寝泊まりしながら授業を受けた。
そんなニュースに飛びついたのが、陰謀論者たちだった。「親元に戻れる保証はない」「保護の名を借りた誘拐だ」「治験のために連れ去られる」。そんな荒唐無稽な投稿が、X上に次々と現れた。
馬鹿げた言説でも、震災で心身に傷を負った子どもや保護者が目にすれば、大きなショックを受けてしまう。
「ビルゲイツ別荘か日本版エプスタイン島に連れて行かれ食べられる」という投稿には、2800を超える「いいね」がついていた。
地元の教育関係者たちは、自らも被災した身でありながら、子どもたちの学ぶ場を守ろうと、必死に知恵を絞って行動に移していた。
女性は、陰謀論をばら撒いた人々を心の底から軽蔑した。
被災者を「情報」が疲弊させる
「生き残った父を不幸にせず、健康を見守り、輪島に住んで良かったと思ってもらう」
母の葬儀の日、女性はこう誓った。この言葉は、今も昨日のことのように蘇るが、誓いは決して簡単なものではなかった。
2024年9月、豪雨が能登を襲った。その時ばかりは思わず空を仰ぎ、「神も仏もいない」とつぶやいた。あまりにも過酷な現実だった。
それでも季節は巡り、町は少しずつ歩みを進めていると実感している。
震災や豪雨災害を巡る公費解体は、2025年7月末時点で78.3%(約3万4000棟)が完了。10月末までに全て終える予定だ。災害廃棄物の処理も、26年3月末の完了を目標としている。
女性の実家も解体が終わった。それだけでなく、今年の8月の終わりには、実家があった場所に“新しい柱”が立った。「必ず元の場所に家を再建する」。父の願いを叶えることができるのだ。
一方、これまでを振り返ると、心を削ったのは、災害そのものだけではなかった。
政治家の発信や報道の中には、「自分たちの活動こそが特別に大切だ」と言わんばかりの雰囲気を感じた。SNSや報道に触れるたび、胸に鋭いトゲが刺さるようだった。
「そんな情報はきつくなるから見なければいい」。そう自分に言い聞かせたこともある。一種の“自傷行為”に近いと感じた瞬間もあった。
しかし、それでも黙ってはいられなかった。故郷のことを知らぬ誰かが語り、不確かだったり、誤解を招いたりする情報が、“真実”の顔をして歩き出すことは、当事者として絶対に受け入れられなかった。
報道やSNSの空気は、しばしば現場の温度とかけ離れている。今でも“聖地巡礼”のように、「あの日のまま」の場所を訪れ、写真を撮っては「能登は見捨てられている」と発信する人がいる。
きっと10年後も、能登に呪いをかけたい人たちは「ほらみろ。お前らは国から見捨てられたんだ」と言うだろう。
けれど、この街には今も多くの人が生きている。なんと言われようと、自分だけは能登を見つめ続けたい。呪いをかけられたって、跳ね返していきたい。
そして、前を向いて、幸せに生きる。そう心に決めている。