ボカロの始まりとワールズエンド・ダンスホールの衝撃
唐突ですが、この記事はボカロを作るための入門的な手引きを示した記事ではありません。私はボカロを作ったことはありませんし、ソフトすら持っていません。では、誰のためのボカロ入門か。結論から申し上げれば
「ボカロに興味があるけど、どの曲から聞けばいいのかわからない」
「ボカロがどうして人々を魅了するのか知りたい」
「最近TVとかでボカロ曲を聴くけど、どんな歴史を持っているか知りたい」
などなど、ボカロの制作ではなくボカロの文化に興味がある人向けになっています。そのため、「今まで一曲も聞いたことがない」という人でも理解できるよう最大限工夫をしています。また逆にボカロが大好きなファンの方からすれば当然のこと過ぎて物足りなく感じるかもしれませんが、私がボカロを通してボカロファンをどのように見ているかを知っていただきたいですし、違うと思うことなどがあればご意見をいただければと思っています。それでは、前置きを書くのも飽きてきたところですしさっそく本文に移りましょう。
ボカロとは何か ~ボカロが持つ空白感~
さて、ボカロに興味がある方が読むことを前提にしているためボカロの紹介は要らないかとも思いましたが、念のため改めてボカロとは何かを振り返ろうと思います。ボカロとは、YAMAHAが開発した音声合成技術とその応用ソフトウェアを指します。当初はあまりに奇抜な技術であったことからさほど話題にはならなかったそうですが、クリプトン・フューチャー・メディアという会社が「初音ミク」を発売したことをきっかけに大ヒットしました。
また、そんな「初音ミク」のヒットの背景には、今までは自分が歌うか、プロに歌ってもらうしかなかったボーカルパートを、PC1つで簡単に機械に歌わせることができるようになったことが関係しています。つまり、ボカロに歌わせれば自分が歌わなくても自分1人で曲を作れるようになったということですね(YAMAHA Web音遊人「ボカロとはなにか?いまさら聞けない、ボーカロイドの基礎知識」より引用)。
よくわからない、という方は「歌う機械=ボカロ」という認識で大丈夫です。正確には「ゆっくり」なんかが歌っていることもあり、音楽的同位体などもありますから様々議論はあります。が、そこまでのかなり細かいことをボカロ入門の段階で理解する必用は全くありません。
とにかく「歌う機械=ボカロ」と「機械が歌う曲=ボカロ曲」。この2点だけで大丈夫。ボカロを好きになったら、いろいろと調べてみましょう。
そんなボカロですが、特徴は何と言っても「機械が歌っている」ということ。では機械が歌うことと人が歌うことはどのように違うでしょうか。かなりシニカルに回答をするのであればもちろん「歌う主体の違い」です。しかし、歌う主体が機械であること、この人ではないことから生まれる「空白感」が非常に大きな役割を果たします。
例えば、back numberというバンドの有名な曲に「高嶺の花子さん」という曲があります。
この曲は、女性に恋をするけれど弱気でなかなか能動的に動くことができない自信のない男性目線で歌われた曲です。そしてこの曲の中にこのような歌詞があります。
君の恋人になる人はモデルみたいな人なんだろう
そいつはきっと君よりも年上で
焼けた肌がよく似合う洋楽好きな人だ
キスをするときも君は背伸びしている
頭を撫でられ君が笑います 駄目だ何ひとつ勝ってない
私は初めてこの曲を聴いたときに、こう思いました。
「いや、お前バンドとして大成功してるやん。勝ってるところしかないって」
もちろん、「高嶺の花子さん」の主人公はおそらくback numberの誰かではありませんし、そこは切り離して楽しむものなのでしょう。しかし、いわゆる社会的な「成功者」「強者」に、男性的(能動的)であれない、いわゆる弱者男性を歌われても…と思ってしまうのです。エスノセントリズム的な構造を見出してしまうのです。しかしそれは曲というものは必ず単独で存在するものではないからこそであり、作品は必ず単独で存在せず、誰が作ったか、誰が歌うかという作者性に影響を受けるのです。
では、もし高嶺の花子さんを「ボカロ」が歌っていたらどうでしょう。
「ボカロ」は人ではありませんから、その背景も空っぽです。歌い方に関しても、機械ですから抑揚などがなく、「空っぽ」です。しかし、この空白感こそがボカロの持つ最大の強みであり特徴だと考えます。
初音ミクは聴く人の数だけいる ~空白感がもたらす意味~
ではこの空白感にどのような意味があるか。それは繰り返しているように、作者性が失われること。作者性がないからこそボカロは空白であり、空白だからこそ私たちがそこに何かを与えられる空白があります。
例えば、先ほどのback numberの例にあったように、作者性があれば聴いている側際に「お前がそれいう?」とついつい抱いてしまう感想も、ボカロが「空っぽ」だからこそ、そのような感想を抱くことがありません。
そして、例えば初音ミクが歌う曲であれば「初音ミクがどのようなミクか」を聴いている側が決めることができます。
ひとつの曲をとっても、優しいミクが歌っているのか、辛い体験をしてきたミクが歌っているのか、自己肯定感のないミクが歌っているのか、メンヘラなミクが歌っているのか。back numberのように、それ(歌い手の背景)によって歌の受け取り方が変わりますが、それを聴いている側が受け取りたいように想像し、楽しむことができます。だからこそ、1つの曲をとってもミクは聴く人の数だけ、それぞれのミクが存在するのです。
また、もちろん曲ごとにミクが違うのも事実です。例えばAというボカロP(ボカロの作曲家をボカロPと言います)とBというボカロPの初音ミクは別人ですし、AというボカロPのCという曲とDという曲で歌っているミクは別人です。おそらく、この感覚が最もわかりやすく表れているのはDECO*27(でこにーな)さんの8枚目のアルバム、「MANNEQUIN (マネキン)」でしょう。このアルバムは、DECO*27さんが「メンバーが全員初音ミクのアイドルグループがあったら最高だな…」という妄想から作り上げたアルバムです。つまり、DECO*27さんの中にミクはたくさんいるのです。それほどまでにミクは空白感を持っているのです。
「1つであり1人ではない」これは、人間ではなく機械の空白感だからこそできることであり、作者でありつつも作者性がないこの特異的な存在は、曲の幅広い解釈を可能にしていると言えるでしょう。
ワールズエンド・ダンスホールの衝撃 ~伝われ、当時の勢い~
さて、前置きはこの辺りにして本題であるワールズエンド・ダンスホールという曲の分析に入りましょう。ワールズエンド・ダンスホールとは、2011年にwowaka氏によって投稿された作品で、現在YouTubeでは2347万回再生されています。この再生数自体は他の有名なボカロ曲(シャルル:5678万回再生、千本桜7413万回再生)と比べると劣ります。この再生数の差は、当時はニコニコ動画が主流だったことも影響していそうですが…
ただ、私はボカロを知りたいのであれば他のどの曲よりもまずこの曲を知るべきであると思っています。理由は、ボカロファンの気持ちが体現されていると感じるからです。またシャルルや千本桜は、いわばボカロが世間に認知されるきっかけになった曲であり、ボカロの基礎を築いたわけではありません。しかし、wowakaさんはボカロが世間に認知される前の時代に、その地盤を築いた人です。人気ボカロPのすりぃさん(「テレキャスタービーボーイ」や、「エゴロック」などの作曲者)、ツミキさん(「フォニィ」や、ボカロではありませんが星街すいせいさんの「ビビデバ」の作曲者)の対談でおふたりも似たことを話されてていますし、ボカロの作り手にもボカロらしい音楽を作ったと映るようです。
そのため当時のボカロ界では、wowaka氏とハチ氏(米津玄師さんのボカロPとしての名前です)がいわゆるツートップであり、それほど大きな影響力を持っていた方でした。(急な話で驚きかもしれませんが)wowaka氏は2019年4月5日に亡くなられているのですが、その5日後に米津玄師さんが発表した声明の中で彼はこのように話しています。
wowakaさんと出会ったのは10年くらい前のニコニコ動画だった。当時の自分からすると今まで聴いたことのない鮮烈な音楽を作る人だった。恐らく誰しもそう感じてたと思う。ほとんど同じ時期に投稿し始めたこともあって、彼にだけは負けたくないと勝手にライバル視していた。それ以上に尊敬していたし、多大な影響を受けた。ワールズエンド・ダンスホールを初めて聴いた時は衝撃で飯が食えなくなった。
さてファンでない方にあの当時のファンの中でのwowaka氏の勢いを完璧に伝えることは難しいのですが、少しは伝わったでしょうか…著名な方を引き合いに出して伝えようとするのは少し卑怯だったかもしれませんが、とにかく少しでも伝わっていれば嬉しいです。
ワールズエンド・ダンスホールの分析 ~空間を巡って~
さて、実際に分析をするにあたり、まずは曲を聴いていただきたいと思います。以下のリンクからどうぞ。歌詞はのちのち細かく適宜見ていくので、歌詞に集中しなくても大丈夫、曲の雰囲気を味わってきてください。
さてこの曲ですが、舞台は題名にもあるようにもちろんダンスホール。次のような歌詞で曲が始まります。
冗談混じりの境界線上 階段のそのまた向こう
全然良いこともないし、ねえ その手を引いてみようか?
「冗談交じりの境界線」これは、ダンスホールという空間の密閉性を表したものと思われます。いわゆる「世界」と冗談交じりにも境界線を引き、閉じこもる誰か。一方、歌の主人公はまだ階段を上らず、その境界線を越えずにいる。しかし、「全然いいこともない」ので、その「誰か」が手を引いてみようとする。
私はこの「歌の主人公」と「誰か」はそれぞれ「ボカロを聴くファン」と「ボカロ」ではないかと考えています。つまり、現実世界で全然いいことがなく、現実をまるで「ワールズエンド」したかのように感じてしまう孤独感溢れるボカロファンを、ボカロが「ボカロの世界」という冗談交じりの境界線で閉ざされたダンスホールに、誘っているのです。
そして、このダンスホールへの誘いは続きます。
散々躓いたダンスを、 そう、祭壇の上で踊るの?
呆然に目が眩んじゃうから どうでしょう、一緒にここで!
甲高い声が部屋を埋めるよ 最低な意味を渦巻いて
当然、良いこともないし さあ、思い切り吐き出そうか
この箇所までは、一番初めの歌い出しと同じリズムで歌われていますから内容のみならず、語感も似ていますね。
現実世界で上手くいかず、それでも馴染もうとすること、つまり散々躓いたダンスを祭壇で踊ったところで、呆然としてしまうのだから、一緒にここで踊らないか。この一緒にここでの「ここ」はもちろんボカロの世界、虚構の世界です。逆に考えると、祭壇は現実世界なんです。本来祭壇は神仏や故人をお供えする場所ですから、非現実的です。ただ、現実世界を祭壇のように感じてしまう、ボカロファンの現実世界からの疎外感と、現実世界に対するシニカルな姿勢が見て取れる非常に巧妙なアイロニーです。
そんな現実世界で、甲高い声が部屋を埋めます。しかも、最低な意味を渦巻いて。これは、現実世界で行われる日常会話や話される言説などに嫌気がさし、何事にも最低な意味を見出してしまうボカロファンの自己嫌悪がよく表れていると感じます。例えば私なんかは、活動家のような人が自分の正義や理想を語り、行動するのに対し、「考えが浅い行動主義だ、よく考えてから行動したらどうだ」と本来最低な意味を持たない「甲高い声」に最低な意味を渦巻かせてしまうことがありました。ただ、自分は何もしていない。活動家に賛同できない。そんな自分にさえも嫌気がさしていたんじゃ「当然、良いこともない」です。なにせ、世界を最低で終わったものにしているのは紛れもない「自分自身」なのですから。でも、その癖も辞められそうにない、だからこそ「思い切り吐き出す」のです。
なんだかドストエフスキーの「地下室の手記」を思い出すこれまでの歌詞ですが、次の歌詞からはBメロ。今までとは比べ物にならないほど早口で歌われる箇所です。まさに「思い切り吐き出して」います。
「短い言葉で繋がる意味を 顔も合わせずに毛嫌う理由(わけ)を
さがしても さがしても 見つからないけど
はにかみながら怒ったって 目を伏せながら笑ったって
そんなの、どうせ、つまらないわ!」
「短い言葉で繋がる」「顔も合わせずに毛嫌う」これは間違いなく虚構の世界、つまりインターネットでの人々のコミュニケーションを指しているでしょう。Twitterは140字までしか一度の投稿で書けませんし、ハッシュタグなんて数語ですが、そんな短い言葉で人々は繋がります。また逆に、人は相手と顔も合わせずに毛嫌い、コミュニケーションを取らないこともあります。ボカロの世界もいわば虚構の世界ですから、その世界に没頭する理由は探しても探しても、見つかりません。
ただ、現実世界で「はにかみながら怒った」り、「目を伏せながら笑った」りと、本音を隠して、自分の本音を抑えだましだまし生きていても、「そんなの、どうせ、つまらない」。だからこそ、ボカロファンは必然はなくても虚構の世界に没頭するのです。この歌詞はボカロファンのメンタリティが非常に精巧に描かれていると思います。
ファンは、それが「虚構」で「本物」ではないことを知っています。けど、本物(現実世界)を追求するより、本物を諦めて虚構に没頭する方が、それが例え誰かにバカにされたとしても、バカげたことだと知っていても、本物を信じるよりはるかに良いのです(大澤真幸さんはこの姿勢を「アイロニカルな没入」と表現しています)。
ホップ・ステップで踊ろうか 世界の隅っこでワン・ツー
ちょっとクラッとしそうになる終末感を楽しんで
パッとフラッと消えちゃいそな 次の瞬間を残そうか
くるくるくるくるり 回る世界に酔う
さて、いよいよサビです。ここで注目したいのはやはり「世界の隅っこでワン・ツー」という箇所。これは紛れもなくダンスホールの場所を、ボカロの世界の居場所を指しています。今でこそボカロは世間にも認知され始めていますが、当時はまだ「世界の隅っこ」だったのです。そして、ボカロファンも「”現実世界”の隅っこ」に位置しています。前述の通り、世界になじめず、世界を穿った目線で見てしまい、上手くいかない、馴染めない。だからこそ世界の隅っこで踊るのです。
そして、時たま現実世界を思い出し虚構に没頭する自分がみっともなくなって、「クラッ」としてしまう。けど、そんな「終末感」を楽しんで。そう、ここで初めて終末という言葉が出てきます。そしてこの終末は文脈通り理解すれば虚構の世界で起きていることです。現実世界を終末のように感じ、希望を見いだせないでいたファンが虚構の世界に見出したカーニヴァルも、その自己破壊的な終末感から生まれるものなのです。虚構の世界に没頭することは、私に言わせれば自虐的である意味で自傷行為とさえ言えると思います(近年のオタク文化はすっかりその自傷的な意味合いが消え、薄いサブカルになってしまいましたが、その傷痕は今なお各所に見られます)。
さて、私がここで「カーニヴァル」という言葉を選んだことに違和感を覚えた方もいると思いますが、これはミハイル・バフチンの受け売りです。彼はロシアの文学者で思想家(前述のドストエフスキーの文学を研究しています)なのですが、「カーニヴァル化」という概念を提唱します。カーニヴァル化は「リオのカーニヴァル」のように観客と演出者が一体化し、普段存在する秩序や社会規範、言説を笑い飛ばし全く逆転させてしまう空間状態のこと。普段は神聖なものとされるものを怪我し、穢れをまとうこと。虚構の世界から現実のありとあらゆる物事を笑い飛ばし、終末感を味わう。ボカロファンは、ボカロは、まさにカーニヴァルと言えるでしょう。
傍観者だけの空間。 レースを最終電車に乗り込んで、
「全然良いこともないし、ねえ、この手を引いてみようか?」
なんだかいつもと違う。 運命のいたずらを信じてみる。
散々躓いたダンスを、 そう、思い切り馬鹿にしようか
「つまらん動き繰り返す意味を 音に合わせて足を踏む理由(わけ)を
さがしても さがしても 見つからないから
悲しいときに踊りたいの 泣きたいときに笑いたいの」
そんなわがまま疲れちゃうわ!
ポップにセンスを歌おうか 世界、俯いちゃう前に
キュッとしちゃった心の音をどうぞ。 まだまだ忘れないわ。
なんて綺麗な眺めなんでしょうか! ここから見える風景
きっと何一つ変わらないから、 枯れた地面を這うの。
ホップ・ステップで踊ろうか 世界の隅っこでワン・ツー
ちょっとクラッとしそうになる終末感を楽しんで
パッとフラッと消えちゃいそな 次の瞬間を残そうか
さよなら、お元気で。
終わる世界に言う―――
これは2番の歌詞+ラスサビの歌詞、ですが基本的に表現していることは1番で話したことと同じだと私は思います。現実世界を嫌い、現実世界を嫌う自分を嫌い、虚構の世界に没入する。ただ、かなり長くなってしまうので私が1番を分析したように1フレーズごと見ることはここではしません。論文や研究書であればするところですが、ここはそうではありませんし、皆さんの感じ方を全て説明し切ってしまい損うのでは面白くありません。皆さんが初めて聞いた曲の感想と、私の1番の歌詞分析を受けて、今一度歌詞に注目しながら聴いて見てください。
ワールズエンド・ダンスホールから見るボカロファン像 ~嫌悪と自己矛盾の視点から~
まず、申し上げておきたい点はここでいうボカロファンは必ずしも全体を反映するものではないということ。ワールズエンド・ダンスホールがはやった当時であればおおよそのボカロファンは今から述べる傾向にあったかもしれませんが、ボカロが表舞台にここまで出てくるようになった現在、そうではない特徴を持つ方もかなり多くボカロ文化に参入する機会はありそうですから。
では、前置きはここまでにしてボカロファンの特徴を考察します。キーワードはタイトルにもある通り「嫌悪」と「自己矛盾」。
まず、ワールズエンド・ダンスホールの歌詞に共感するボカロファンの多くは、その歌詞にある通り社会に馴染めない、あるいは社会で本音で語ることができず偽物の自分を演じていることが多いのではないかと思います。そもそも、この記事ではボカロファンという言葉を用いていますが、この言葉をオタクと置き換えてみればそのイメージはよりリアリティを持つかと思います。
つまり、ボカロファンの持つ憎悪とは世界に向けられたものです。しかし、「世界」とは何か。それは自分の見る世界です。例えば、(最近の例ですが)現在最終編が映画化されている「鬼滅の刃」を、普通の人は煉獄さんや炭治郎といったお気に入りのキャラがいるといったように、キャラを「何となく」好きになる。しかし、オタクは作品の中に関係性を見出し、異性同士同性同士に限らず「カップリング」を生み出す。あるいは、作品が言及していない要素に自分で妄想をして作品を楽しむ。つまり、そのように作品に対して想像力豊かなオタクは普通の人が思いもつかない消費の仕方をし、その結果、作品という世界の見方が大きく異なるのです。
しかし彼らはそんな自分の世界の見方のせいで世間に対して馴染めないと憎悪を向ける反面、その世界の見方をこよなく愛してしまう。なぜなら、普通の人が「何となく」好きになるのに対して、「浅い」と思ってしまう。しかし、その「浅さ」こそが世間のニュートラルであり、それ以上深く考えることは「キモイ」のです。
これは鬼滅の刃がBL的な消費をされることを小ばかにしたコラ画像ですが、まさに世間の認識ではそういった「オタク的な深い消費」は嘲笑の対象なのです。
しかし、繰り返しますがここにまた自己矛盾がある。それは自分が信じているものが世間では嘲笑の対象であり、自分が嘲笑しているものが世間ではニュートラルである。そういった状況で世間を憎悪しながらも、ニュートラルになろうと自分の見方を自分自身であざ笑う。BLを愛好する女性を「腐女子」と表現しますが、自分自身で自分を「腐る」と表現するのがまさに良い例でしょう。BLが世間のニュートラルであれば腐る必要はありませんから。腐女子とはつまり、自己矛盾を開き直りで克服した言葉です。しかし、腐女子の台頭はあくまで最近の話。ワールズエンド・ダンスホールが投稿されて直ぐのころ、オタクはそこまでの立場を手に入れていません。ではそんなオタクたち、ボカロファンたちにワールズエンド・ダンスホールはどう受け入れられたか。
ワールズエンド・ダンスホールには頻繁に「世間に合わせた演技をする自分」が描かれます。そしてそれをバカにする。例えば、「はにかみながら怒ったって 目を伏せながら笑ったって そんなの、どうせ、つまらないわ!」「散々躓いたダンスを、 そう、思い切り馬鹿にしようか」などなど。
これは自分の世界の見方が特殊なあまり世間に馴染めず、自分の世界の見方に不安を覚えているファンたちの背中を後押しする、そんな歌詞に見えてこないでしょうか。
「現実ってつまらないよね。バカらしいよね。だからあなたも虚構の世界、つまりワールズエンド・ダンスホールに来ない?」
この曲がファンに届けているメッセージはこの一点なのです。しかし、このたった一点のメッセージが、鋭く当時のオタク・ボカロファンの心に刺さり、多くの共感を得た。これこそがボカロファンの特徴であり、延いてはオタクの特徴と言えるかもしれません(しかしオタクについてはより慎重になる必要があります)。
wowaka氏は神である
数々の名曲を輩出したのはもちろん、wowaka氏が人気絶頂の中亡くなってしまったこともあり、よく神でると表現されます。もちろんほとんどの場合、「とてもすごい」とでも言うべきか、ある種、暴力的な賛美を私たちはよく「神」と表現しますね。神曲だ神作だと。しかし、wowaka氏が楽曲を通してボカロファンに届けたのはある意味で啓示であるのではないでしょうか。現実世界で行われる現象を痛烈に批判し、虚構的な世界の見方を肯定する。現実を軸に置くのであればさながら堕天使の所業ですが、この大胆な聖と堕の逆転をもたらすwowaka氏は、ボカロファンにとっては神以外のなにものでもありません。
そんな彼の啓示はある意味で予言めいてもいます。なぜなら「クールジャパン」に代表されるように日本のサブカルは現在大きな勢いの中にあり、BLなども台頭。加えて、虚構的な楽しみ方を拡張させた二次創作は例年盛んになり続け、数日前にちょうど開催されたコミックマーケットも大盛り上がり。2025年の冬コミでは50周年を迎えます。これは憎悪と自己矛盾を抱えた人々がいなくなっていないこと、またむしろそういった彼の啓示に気付きオタク化人も誕生していることを意味すると言えるかもしれませんし、だからこそ、彼の楽曲はいつまでも色あせず、多くの人の心に刺さるのかもしれません。


コメント