本年、人材育成の一環として、教学の試験が行われます。
そこで、私の教学試験の思い出を語り、受験の参考にしていただけたら、と思います。
私の最初の先生は母でした。何も分からないまま勉強会に連れていかれ、そこで初めて『五重の相対』や『三大秘法』などと言う言葉を知りました。
私は覚えが悪く、頂いた教材や模擬試験の問題集を、すべてノートに書き写しました。暖房事情も良くない、冬の部屋で、火鉢で暖を取りながら、写りの悪いガリ版刷りの文字を、懸命にノートに書き写して行ったものです。
勉強会、と言われるものには、すべて参加したように思います。
その時、先輩が言いました。
「合格にこだわるよりも、真剣に学ぶ事が大事です。学ぶ事が豆腐で、合格は、いわばオカラのようなものです」
この言葉は、その後も何度か、教学試験の時、耳にしました。
確かに教学と言うものは、日々の積み重ねの中にしかない、と今でも思っています。試験のための付け焼刃では、いざと言うとき役に立ちません。日常の中で大変な時、真剣に学んだ御書や教義は、命の力になって、自分を支えてくれるのですが、試験のために詰め込んだだけのものは、頭の片隅にも残っていないようです。
そしてさらに、基本を学ぶ時は、絶対に自義を交えてはならない、と言う事です。
任用試験を受けるような段階で、自義もへったくれもあるか、と言われるかもしれません。
確かに、昔はそうでした。先輩が教えてくれるままに、その通り、と決めて覚えていったものです。
しかし現代は、少し事情が違って来ているように感じます。それは、インターネットの普及によって、アンチと言われる種類のものも含め、勝手な解釈が溢れていて、それをいつでも誰でも目にする事が出来る環境にある、と言う事です。
そして、試験の内容も、深く一つの事を掘り下げずとも答えられるようになってきているのではないか、という現実です。
創価学会ってすごい、と心の底から感じたのは、実はこの教学の勉強に臨んだ事が大きかったように思います。
二十数年も前でしょうか、ある友人との対話の中で、彼女が言いました。
「学会の人たちは、どうしてそんな事まで知っているの?」
「試験があって、そのために勉強するからです」
「私、一度法事の時、お坊さんに聞いた事があるのね。今あげたお経は、誰が何時説いて、どういう意味があって、この場であげているのか、って。そうしたら、信徒はそんな事を知る必要はない、って言われたの。馬鹿にするなって、私その場を立ってしまった事があったのよ」
彼女は、話は良く聞きました。しかしその時すでに七十歳近い事や、子供たちに面倒を見てもらっている事などを理由に、入会には至りませんでした。
主人は四十歳の頃に一度倒れ、それまで覚えていた教学のほとんどを忘れてしまった、と言います。絶対に忘れないのは七文字――題目だけだ、と言うのです。
ある意味すごい、と思います。
二十代後半で御本尊に巡り合い、家業と格闘しながら身で読んだ仏法の、その真髄だけは、何があっても離さなかったのです。
生命に刻んだ教学。
あるいは、それだけが本物の教学なのかもしれません。
昨年、私たち夫婦は、生命次元の大きな体験をしました。教学的に裏付けを持っていたからその意味を理解し、大変な功徳だったと感謝できました。
その、昨年の体験を踏まえて、今年は年頭から具体的な生活での動きがありました。
大聖人の仏法の本当の功徳とは、生命次元の変革の上に花開く実際の暮らしの中での体験、そう実感しています。
そしてそれは、『人間革命』の戦いに他なりません。
今年、更に祈り、生命を磨き、さらに生活の面でも大きな花を咲かせるべく、私も御書を学び、任用試験を受ける友人の子供さんとともに、『青年学会・拡大の年』を勝利して行きたい、そう決意しています。
そこで、私の教学試験の思い出を語り、受験の参考にしていただけたら、と思います。
私の最初の先生は母でした。何も分からないまま勉強会に連れていかれ、そこで初めて『五重の相対』や『三大秘法』などと言う言葉を知りました。
私は覚えが悪く、頂いた教材や模擬試験の問題集を、すべてノートに書き写しました。暖房事情も良くない、冬の部屋で、火鉢で暖を取りながら、写りの悪いガリ版刷りの文字を、懸命にノートに書き写して行ったものです。
勉強会、と言われるものには、すべて参加したように思います。
その時、先輩が言いました。
「合格にこだわるよりも、真剣に学ぶ事が大事です。学ぶ事が豆腐で、合格は、いわばオカラのようなものです」
この言葉は、その後も何度か、教学試験の時、耳にしました。
確かに教学と言うものは、日々の積み重ねの中にしかない、と今でも思っています。試験のための付け焼刃では、いざと言うとき役に立ちません。日常の中で大変な時、真剣に学んだ御書や教義は、命の力になって、自分を支えてくれるのですが、試験のために詰め込んだだけのものは、頭の片隅にも残っていないようです。
そしてさらに、基本を学ぶ時は、絶対に自義を交えてはならない、と言う事です。
任用試験を受けるような段階で、自義もへったくれもあるか、と言われるかもしれません。
確かに、昔はそうでした。先輩が教えてくれるままに、その通り、と決めて覚えていったものです。
しかし現代は、少し事情が違って来ているように感じます。それは、インターネットの普及によって、アンチと言われる種類のものも含め、勝手な解釈が溢れていて、それをいつでも誰でも目にする事が出来る環境にある、と言う事です。
そして、試験の内容も、深く一つの事を掘り下げずとも答えられるようになってきているのではないか、という現実です。
創価学会ってすごい、と心の底から感じたのは、実はこの教学の勉強に臨んだ事が大きかったように思います。
二十数年も前でしょうか、ある友人との対話の中で、彼女が言いました。
「学会の人たちは、どうしてそんな事まで知っているの?」
「試験があって、そのために勉強するからです」
「私、一度法事の時、お坊さんに聞いた事があるのね。今あげたお経は、誰が何時説いて、どういう意味があって、この場であげているのか、って。そうしたら、信徒はそんな事を知る必要はない、って言われたの。馬鹿にするなって、私その場を立ってしまった事があったのよ」
彼女は、話は良く聞きました。しかしその時すでに七十歳近い事や、子供たちに面倒を見てもらっている事などを理由に、入会には至りませんでした。
主人は四十歳の頃に一度倒れ、それまで覚えていた教学のほとんどを忘れてしまった、と言います。絶対に忘れないのは七文字――題目だけだ、と言うのです。
ある意味すごい、と思います。
二十代後半で御本尊に巡り合い、家業と格闘しながら身で読んだ仏法の、その真髄だけは、何があっても離さなかったのです。
生命に刻んだ教学。
あるいは、それだけが本物の教学なのかもしれません。
昨年、私たち夫婦は、生命次元の大きな体験をしました。教学的に裏付けを持っていたからその意味を理解し、大変な功徳だったと感謝できました。
その、昨年の体験を踏まえて、今年は年頭から具体的な生活での動きがありました。
大聖人の仏法の本当の功徳とは、生命次元の変革の上に花開く実際の暮らしの中での体験、そう実感しています。
そしてそれは、『人間革命』の戦いに他なりません。
今年、更に祈り、生命を磨き、さらに生活の面でも大きな花を咲かせるべく、私も御書を学び、任用試験を受ける友人の子供さんとともに、『青年学会・拡大の年』を勝利して行きたい、そう決意しています。
そういえば、私も任用試験は寒い時期に受けた記憶があります。
あなたの文面をたどってみると、ほとんど同じ時期に同じ試験を受けたようですが、「教学試験は合格することではなく、学ぶことに意義がある」の言葉は、私の心につきささります。
当時は、私は男子部でしたので、どちらかというと、合格至上主義で勉強していました。
あの頃は教材も資料も少なく、・・・・そして、アンチだのあるいは御書を歪曲して読むひとも周囲にはいませんでしたが、(見えなかっただけかも)通信網の普及はそれらの負の部分を明らかにしていることも、たしかでしょう。
でも、私は思うのです、通信網の普及は学会正当教学を宣揚する場であると。
「大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」(1300-04)
共々に研鑽してまいりましょう。
私は、鹿児島SGIメンバーで先駆長をしているKontaと申します。
早速の用件で申し訳有りませんが、
http://i-sgi.seo-kit.net/seo-link/sgi-mobile.html
こちらのページに貴サイトを本日登録致しました。
トップページは、 http://i-sgi.seo-kit.net/ です。
3~4日後に、Googlebotによる検索登録が行われる予定です。
もし、可能でしたら相互リンクをご検討頂きたく、お願い申し上げる次第です。
どうぞ宜しく御願い致します。
まずkontaさん、申し訳ありませんが、私は原則相互リンクはしていません。
ブックマークをしているものにしても、一応御本人に了解は取っていますが、相互ではありません。
相互リンクの件、御容赦ください。
今後、私の一存で、貴サイトをリンクするときには、こちらからお願いする事になると思いますが、今はこのままで、と言う事でよろしいでしょうか。
tommyさん、任用試験や、助師・講師時代に身に付けた内容は、やはり教学の基礎となって、事あるごとに自分の支えになってくれるものだと思います。
だからこそ、と言うべきでしょうが、初めて試験を受ける人に対して、教える側の責任は重いと思うのです。
いつだったか、任用の担当をしていた時、ある友人から、
「最も覚えの悪い人を合格させての担当者だ」
と言われた事があります。
その時は、見事にその対象の人が合格出来て、ほっとした事を覚えています。
教学の思い出はたくさんありますので、また話す事もあると思います。
それも、かなりtommyさんの体験と重なる事が多いかもしれませんね。
札幌のうるさいおやじです、懐かしいですね任用試験40年以上前に受験しました。30年かかって教授になっても分からないことばかりです。
家の息子も去年青年1級に合格しましたが、御義口伝も分からず、これで良いのかなと思うこともあります。お体気付けられて頑張ってください。