「オペラ座の怪人」日本版を巡る話:忠実な戯曲の翻訳とは?
これ、台本翻訳のバグが一つの原因ではないかと。原語台本ではクリスティーヌの容姿言及がないのと、オペラ座の怪人は醜い容姿のため「認められない作曲家」として、自分の曲を演奏してもらうためにコーラスガールに希望を託したのがメインテーマで、日本語台本だと恋愛がフォーカスされすぎています。 https://t.co/3KuTGSxmzB pic.twitter.com/X7Vw1xaeyg
— Akiko HARA 原 晶子 (@t_haraaki) August 31, 2025
あれ~、前にも何度も書いたんだけどなあ、という話ですが、今更ながらこんなツィートがバズってしまったので、復習のつもりで「オペラ座の怪人」の和訳と「戯曲の翻訳とは」について書いてみます。
原語に忠実な翻訳は難しい
私は多言語話者なのですが、それぞれの言語にはそれぞれの文化や社会的・思想的背景があり、それぞれの言語世界が異なるので完全対応はしないんです。
ですので、そもそも「原語に忠実な翻訳」はそう簡単にできるものではないのです。それは簡単なキャッチフレーズや商品名、ネットやテレビで耳にする言葉でも、「ん?」みたいなものだらけです。
特に演劇の場合、意味だけではなく、物語や役のニュアンスまでも伝えるということになると、簡単ではない、のは事実で、そうでなければ、明治以来シェイクスピアの日本語訳が次から次へと出てくるわけがないのですね。そして、さまざまな翻訳者たちが、中世イギリスの物語をどうしたら現代の日本人に伝えることができるのだろう、と、格闘してきたわけです。
「オペラ座の怪人」の日本初演を見ました。
なのですが、今回はイギリスのミュージカル「オペラ座の怪人」の話をします。イギリスミュージカルの中心的な人物であるアンドリュー・ロイド・ウェバーの代表作で、私は日本で公開される前から、ロンドンキャストのサウンドトラックを聴いて、楽しみにしておりました。
日本の公演を見たのは日本初演、大阪で見ました(年齢がわかりますね)。主演が市村正親の時代です。
なのですが…ん?というモヤモヤしたものがありました。
「なんか違う」というのが第一印象でした。作品のレベルが、とか、そういうことではなくて、「物語が違う」と感じたのです。帰宅後、パンフレット(歌詞がついている)を見て、「やっぱりおかしい」と思いました。原文と内容が違う、と、思ったのです。
その後、ブロードウェイでも見たのですが(当たり前ですが、原文でやりますので)、こちらは違和感なく楽しめました。ブロードウェイとウェストエンドを見比べると、文化の違いというかやはり完全に同じではなくて、それぞれの国のテイストがあります。ただ、「物語が違う」とまで思ったのは日本版を見た時なんですね。
「オペラ座の怪人」(原文)とは
一応、私の理解で物語を説明しますと…。
主人公のオペラ座の怪人は生まれつきの醜い容姿のために社会から排除され、パリのオペラ座の地下でひっそりと作曲をしていたが、自分の音楽を認めてもらうために、オペラ座のコーラスガールのクリスティーヌをオペラ座に誘いこみ、自作の曲を発表する機会を待っていた。クリスティーヌは作曲家だった父を亡くしており、オペラ座の怪人に父の面影を見ていた。やがてクリスティーヌがデビューし、観客の目にさらされると、幼馴染の貴族ラウルが彼女を見つけて楽屋を訪問し、二人は恋に落ちる。しかし、クリスティーヌが自分のものだと思っていたオペラ座の怪人は激怒し、オペラ座で次々と事件を起こし、自作のオペラを上演させようとする。一方クリスティーヌは父親とは違う、醜い幼稚な男の本性を知るが、怪人は彼女を拉致し、結婚しようと迫る。そこへラウルが助けに来るが怪人につかまってしまう。ラウルを助けるために怪人との結婚を承諾しようとするクリスティーヌに怪人はあきらめ、二人を逃し、怪人は自分の創作を助ける人はもういないと悟る。
「こんなセリフ、原文にない!」その1:パパ
で、日本版の印象です。まず「原文にない情報が加わっている」が第一印象でした。日本語というのは英語に比べて音節が多くなるので、情報量は減るのが普通なのですが、増えてるんですね。
たとえば…
Christine: (原文)Father once spoke of an angel I used to dream he'd appear Now as I sing, I can sense him And I know he's here
(日本版)パパが送ってくれた音楽の天使が教えてくれたの私に歌を
この時点で、クリスティーヌは「私の父が以前に話してくれたことがある天使がいるのを感じる」といっているのに、日本版ではいい歳をして「パパが」「教えてくれた」という言い方をしているんですね。英語の幼児語で父親はdaddyとかpapaというのですが、クリスティーヌは一貫してfather(父)といいます。結果的に英語版に比べて日本版のクリスティーヌは未熟で幼稚な印象になっています。
「こんなセリフ、原文にない!」その2「愛を与えた」
そもそもオペラ座の怪人とクリスティーヌはどういう関係なのでしょうか。
Phantom:(原文)I gave you my music, made your songs take wing
(日本版)愛を与えた、音楽を与えた
「不細工のくせに若い女に恋しやがって」ではなくて、これは「作曲家ファントムがコーラスガールに歌わせた」ことに物語の意味があるんじゃないかと思うんですよ。だから、原文版は「音楽をあげた」といっているのに、日本語では「愛を与えた」っていってるんですね。ところが、一幕では怪人は一度も「愛」ということはいっていなくて、あくまでも作曲家として歌手に自分の音楽を託すというのがコンセプトなんですよ。原文の物語としては、怪人は最後まで「愛する」とはいわなくて、「自分を必要としてほしい」と望み、最後に彼女を「愛していた」と気づく(しかし、彼女にはいわない)という展開なんですね。このセリフで物語がだいぶ変わってしまっています。
「こんなセリフ、原語にない!」その3「僕のいうとおり」
日本版ラウルのセリフで一番気になるのが「僕のいうとおり」です。こんなセリフ、原典にはありません。
Raul:(原典)Christine...Christine...You don't have to...they can't make you...
(日本版)クリスティーヌ、クリスティーヌ、任せてくれ、恐れず僕の言うとおりに
原典版のラウルは相手を尊重しています。クリスティーヌも自立した女性としていいたいことをいい、ラウルは指示というか支配的なことはいわないのです。なぜこのセリフが加わっているのか、以前からずっとひっかかっています。男性像も女性像もこのセリフでだいぶ変わってしまうと思うんですよ。
消えたセリフ…その1「お前、だましたな!」
一方で、日本語の特性(英語よりも音節数が多いために一音に入る情報量が減りやすい)のため、多くの部分が削られる…こと自体はある程度やむをえないものがあります。しかし、「このセリフが消えたのは意図的じゃないのか」という部分がいくつかあるんです。
Christine:(原語)Angel of music, you deceived me. I gave my mind blindly.
(日本版)エンジェルオブミュージック昔は心捧げた。
クリスティーヌは「お前、だましたな!」っていってるんですね。このセリフをなぜ消したのか?
要するに、「攻撃的な女性はかわいくない、ヒロインにふさわしくない」という翻訳者の意図があったんじゃないんですかねえ…。原文のクリスティーヌめちゃくちゃ怒ってます。ところが日本版になると「ああ、なんでこうなっちゃったんでしょう」って誰も責めないんですね。
消えたセリフ:その2「かわいそうな生き物」
クリスティーヌの最後のセリフ、これ、訳しにくいだろうなあとは思うんですよね。なのですが、クリスティーヌは「怪人を選んだ」と解釈するのはちょっと違うんですね。
Christine:(原典)Pitiful creature of darkness, what kind of life have you known? God, give me courage to show you, you are not alone.
(日本版)絶望に生きた哀れなあなた、今見せてあげる、私の心。
前述のとおり、クリスティーヌはめちゃくちゃ怒ってます。じゃあ、なぜ怪人を選ぶかというと、「恋人の命を助けるために自分が犠牲になるため」なんですね。creatureっていってます、相手のこと。「化け物め」というニュアンスかと。
消えたセリフ:その3「私の音楽は終わりだ」
はい、バズったのがこれなんですが、私は以前から「物語変わるじゃん」とさんざんいっていたところなんですね。
怪人の最後のセリフは「振られちゃった、あーあ」じゃないんです。自分が作曲した音楽を奏でてくれる人を喪失してしまう、もう音楽を創造できない、だから「音楽が」終わるんです。その時に初めて怪人がクリスティーヌを「愛していた」ことに気づく、っていう状況なんですよ。
看板俳優を失った劇団の劇作家とか、そんな感じではないのか。歌手がいなくなって音楽を「飛翔」させられなくなっちゃう、って話なんです、もともとは。
Phantom:(原典)You are can make my songs take flight. It's over now, the music of the night.
(日本版)わが愛は終わりぬ、夜の調べとともに。
「日本の観客」が求めるヒロイン像
…ということで、「オペラ座の怪人」の日本版というのは「幼稚で依存的で、運命に翻弄されるが怒りもしない、男性に守って助けてもらう」という原典にはないヒロイン像と、「不細工のくせに若い女性に求愛する」という怪人像が作られているんですね。しかし、原文を見ると、怪人はあくまでも「グロテスクな容姿のために社会で排除された作曲家」が無名のコーラスガールを使って自分の音楽を演奏してもらい、世に出してもらう、その思いがこじれて独占欲になってしまった、というように読めるんですね。
では、なぜ、物語がこんなに矮小化されたのか。これは二つ考えられることがあって、これを翻訳した浅利慶太という演劇人の持っている女性観がそうだった、という可能性に加え、「そもそもそういう物語でないと観客が受け入れない」という可能性もあるのです。
だから、「劇団四季が悪い」という風には私は考えていなくて、「そういう物語を求める日本人がいる」ことがこうした翻訳の背景にあるんだろうと思います。
戯曲の訳って難しい
私は戯曲はできるだけ原典に近いところで読みたいなあと思っているのですが、それは翻訳というものの限界も知っているからなんですね。時にはうまく訳せないところや、大きな意訳もやむをえないところがあると思います。
その一方で、この戯曲のように、いってみれば、人物像や物語の矮小化につながるようなバイアスというのは違和感として残りやすいです。
最近のことですが、あるワークショップでイプセンの戯曲を取り上げた時、ご一緒した演出家も、俳優さんたちも「いい訳だ」といっていたのに、私だけがもやもやしていたことがありました。やはり女性像の描き方が日本語訳で変わっていた印象があったからです。イプセンの描く女性はもっと生き生きした、自立したニュアンスがあるんだけどなあ、って思ったのですが、プロの演出家でも「いい訳」といってしまえば、たぶん、俳優も観客もそういう女性像を受け入れざるをえなくなってしまうんだろうと思います。
印象的な翻訳劇のラストシーン
ラストシーンとして有名な訳としてはこんなものがあります。
Roxane: Vous avez sauvé ma vie. Vous n'êtes pas mon amant ; vous êtes mon roman.(あなたは私の人生を救ってくれた。あなたは私の恋人ではなく、私の物語だ。)
Cyrano:C'est mon panache!(それは私の心意気だ)
Panacheの訳、悩むところですねー。直訳すると「羽飾り」なのですが、要するに「プライド」みたいな比ゆなんですよね。
女性観ということで私がおお、と、思ったのは、こんなのがあります。
Othello:Cold, cold, my girl! Even like thy chastity.(冷たい、冷たい、かわいい子、その貞操のように。)
松岡和子はMy girlの意味について相当悩んでこの訳にしたようですが、非常に「訳」として印象的です。
かように翻訳というのは難しいものだとは思いますが、物語を受け止める時には、翻訳だけでなく、演出だったり、俳優だったり、いろいろな要素で物語って作られるものですので、そこを含みおきするのは大切かな、という話でした。


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