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@marxindo
58+5歳女子高生。レコードと昔話と人の悪口。
Helsinki, FinlandJoined March 2016
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「日本の大学を変える」いちばん効果的な方法は単位を厳しくするとか9月入学にするとかではなくて「いちど社会に出た人が大学に戻って学ぶのをもっと簡単にすること」だと思うラジね,これはまったくまじめな話。
ドイツに行った時にむこうの学者が「わが国には第二次大戦後しばらくは精神障害者福祉の問題は存在しませんでした」と言うので最初意味がわからなかったが意味がわかると怖かった。
「ベルマーク集めるより募金を集めたほうが手っ取り早いし集まる額も多いだろう」と言ったら妻に「お金を集めると必ず横領する人が出る,ベルマークは個人では換金できない」といわれてなるほどと思った。
むかし後輩が不登校中学生のフリースクールを経営していて、ときどき中学校と交流行事をやるんだけど中学生の親から「不登校でフリースクールに行ってる子たちのほうが楽しそうで生き生きしてるのはおかしいのではないか」という「苦情」が出て交流が見直しになっちゃったんだって。
ていうか「翼をください」や「あの素晴らしい愛をもう一度」がふつうの「流行歌」「ヒットソング」だった、というのもすでに若い人には意外らしいのラジよ。最初から学校用に作られた合唱曲くらいに思われている。
「屋上をなくしても(ホームドアをつけても)自殺する人は他の方法で必ず自殺を成功させる」という信念が共有されているけれども実際には「死のうか死ぬまいか悩みながら屋上に出ようとしたら施錠されていてしかたなく家に帰って今日に至る」という人は多いと思う。
「いじめられる側に原因はない」んじゃなくて「いじめられる側に原因があったとしてもいじめてはいけない」の。「原因はない」論だと「いじめられる側に原因がある場合はいじめではない」と言い逃れができちゃう。
もともと制服には「家庭の経済状況が服装の差にならないように」という配慮があったというけれども,今では普通の服がどんどん安くなっているのに対して制服がやたらに高いままなので制服廃止に抵抗がなくなっているみたいラジね。
「自分には価値がわからないからこれは価値がないと思う」というのをみんなが平気で言うようになったのが、教養主義が滅びた最大の弊害ではないか。教養主義は「価値がわからないのは自分が未熟だからではないか」と常に疑わせてくれた。
コロナ拡大期に「よそ者がコロナウィルスを運んでくるかもしれないから自警団を作って町内の見回りをしよう」とか言ってた人がもうマスクをしてない。ほんとに雰囲気で行動しているんだなあと思う。
電気製品がいちばん壊れるのは電源のオンオフの時なので「こまめに電源を切って節電」は節電にはなるかもしれないが機器が早く壊れてコスト的には損だよ、というのは家人にもよく言うが信じてもらえない。
「国立大学のほうが安い」と言ってもいまや国立だって初年度納入金は80万円以上かかるんで、「国立ならバイトで学費が払える」なんてことはコロナ以前からもともとないんですよ。
例によって「自分に課すべき教訓」と「善悪の基準」が混同されている。「泥棒に入られたくなかったら鍵をかけたほうがいいが、鍵がかかってなかったからといって泥棒に入っていいわけではないし、鍵をかけてなくても泥棒に入られたほうが悪いわけではない」というのがわからない人はとても多い。
「尾崎豊の盗んだバイク」の話でも同様に,そういう話に対する今の若者の反応は「盗まれた人は困っただろう」という被害者目線になるのラジよね。若い人と話す時はそういうことを意識したほうがいいよ,という話を地元経済界のおじさんたちにする仕事。
学校の成績というのは基本的には「生活習慣」なんですよ。学歴はその人が「朝ちゃんと起きられる」「スケジュールに従った生活ができる」「健康管理ができる」「毎日決まった時間に決まった場所に通える」「決まりや予定を守れる」ことの大まかな保証になっている。
別の大学にいた時に,同僚が車を盗まれたという話をヤンキー系女子学生に話したら「ふ〜ん,ちょっと聞いてみるわ」と言って数日たったら「石狩川のどこどこの堤防に行ってみな」というので同僚が行ってみたらそこに車が置かれていた,ということがあった。これも20世紀の話。
もう知らない人もいるかもしれないがそもそも昔は教員になったり特定の研究職についたりすると奨学金の返還は免除になったんです。それが2004年だかに廃止になって現在に至るのだけど,その制度を復活させようといま言っているわけです。
1980年頃にはどんな職場も「ときどき仕事がない時があって新聞読んだりお茶飲んだりしている人がいる」のが当たり前だったのラジよね。そういう余裕をぜんぶ削ってしまったから「非常時」に動かなくなる。
「朝の授業を10時開始にすることで中退率や留年率を下げた大学」のことは話題になりましたが追随する大学はなかった。これも「卒業後の就職先は10時始業にしてくれない」からですよね。「大卒」に求められているのは「朝起きられること」だったりする。
よくも悪くもApple製品というのは「なんでも好きなようにできますよ」じゃなくて「これをこういうふうに使ってこういうふうに生きてください」と提案してくるもので、嫌いな人もそこが嫌いなのだと思う。
これは本当に繰り返し書くけれども昭和19年まではプロ野球も大相撲もやってたし洋楽レコードの新譜も出てたんで、われわれがイメージする「戦時中の東京の悲惨な状況」みたいのはおよそ1年くらいの間なのラジよね。
こういう「昔は違法なことが当たり前だった」という話、10年くらい前までは授業などですると学生は笑ったが、今は「ひどいなあ」という感じでみんな顔を顰めて笑わなくなった。「昔はいらない子どもを間引いていた」という話みたいな感じに聞こえているのでは。
音楽系部活の練習がうるさいと苦情が来たときに年配の先生が「この学校ができた頃は周りに民家は少なかった、学校があるのをわかって引っ越してきて文句を言うんだもんなあ」とつぶやいていた。
このミュージシャンとかアーティストを「全人格的に消費しよう」として,音楽あるいは作品だけでなくその人の思想とか政治的志向とか生活信条までが自分の気に入ったものでないと「失望した」とか言っちゃう感覚って控えめに言ってもくそくらえだと思う。
「AIはすごく電気を使う」ということを書いたら「AI産業を潰そうとしている」というコメントがついて笑う。むしろ電気のことをなんとかしないとAI産業が潰れるだろうに。
何度も書くけれども電子メールは「いつ書いてもいい、いつ読んでもいい」のが利点だったのに「メールをつねに受信して通知する仕組み」が一般化してからは電話と同じになってしまった。
「図書館の貸出記録というのがどうして最高レベルに保護されるべき個人情報なのか」というのも説明しないとわからない人が増えたラジね。怖いのはそういうことを知らない人でもネットでは「自分はそれなりに世の中のことが分かっている人間」と思っていること。
「大学は対面授業をやれ」という声の半分かそれ以上は「授業が対面で行われること」そのものではなくて、それに付随して生じる「毎日大学という場所に通って人に会ってコミュニケーションしたりサークル活動したり図書館の本などのリソースを利用したりする生活」を返せ、と言っていたのだと思う。
大学1年生に課題を書かせる時には「あなたの考えは聞いていないので書かなくてよい」と明記しないと必ず「私たちも努力していかなければならないと思います」とかで締めようとする。小論文教育の弊害。
部活に限らず町内会がまさにそうだけど「任意なんだから拒否できる」ということになると存続できなくなるものが世の中にたくさんあって,そろそろそういうものが「いまの形態ではもう存続できない」ということを直視する時が来ているのだと思う。
リアルな日常生活で50過ぎたオヤジが「あなたが間違ってます」なんて言われることはほとんどない(みんな「はいはいわかりましたわかりました,あなたが正しいあなたが正しい」という対応でやり過ごしている)ので,ネットでもそのノリで自説を開陳してボロクソに言われて大混乱に陥るのラジよ。
この「15歳で地域のトップ進学校に入れるかどうかで将来の選択肢がおおよそ定まってしまう」という田舎の恐ろしさは都会の人にはわからないと思う。自分も都会で暮らしていた時には知らなかった。
「男子と女子では平均して男子のほうが身長が高い」と書いたら「自分は女子でも男子より背が高いからそれはウソだ」と言ってくるようなコメントつきRTをたくさん見せられる。
若い女性の先生の授業だと18-22歳の学生でも授業にクレームを入れたり授業評価に失礼な評価や否定的なことを書く例が目立つ。「若い女だからダメ」「若い女に教わるのが気に入らない」という反応は中高年社会人学生でなくてもあるラジよ。
NHKの技能実習生ルポの件,制作側は「これはあくまで一例であって日本中でこういうことが行われていることを考えてほしい」という意図で作っているのだが受け取る側は「悪い奴は誰だ,工場を特定して罰を与えろ」という反応になる。「悪い奴」をやっつけたら解決,すっかり忘れてしまう。
「国立大学の学費があがったのは財政の圧迫とは直接関係がない」というのは大事なポイントです。「国立の学費がそんなに安いのは私立大学の商売を邪魔しているから是正しないといけない」と国が決めた。実際国立大学の学費が急激に値上げされたのは昭和の終わりから平成初めの話です。
「パソナが副業認める」みたいな話だって「したい人ができるようになるだけで,したくない人はしなくていいんですよ」というけど実際には副業しなくちゃ食えないような給料になるわけで,「希望者だけです」というのがどんなに危ういかみんな知っているのラジよね。
自分は大学生のときに障害のある人が働く「福祉工場」でバイトしていたんだけど、そこでいちばんいばってるのは事故などで後天的に障害を負った知的精神的には「健常」な人で、その人たちが先天性障害の人や知的や精神の人をバカにしたりいじめたりがひどくて見てられなかった。
仕事中にコーヒーやジュースを飲むのは不謹慎で水ならいいというので水のように見える透明なコーヒーやジュースが続々発売されているというのを聞いてこの世はもうじきおしまいだなあと思ったラジ。
都会に暮らしてる人は「国鉄民営化でサービスがよくなった」と言い、田舎に暮らしてる人は「国鉄民営化で鉄道がなくなった」と言う。民営化というのはそういうふうに「儲かるところのサービスはよくなり儲からないところは撤退する」というものラジよね。そうなっていいのか、という話。
さっきの「気軽に署名とかするな」と同様に「気軽にWebサイトに寄付やカンパをするな」というのもある。お世話になってるエロサイトにカンパしたら実名が世界に発表された人より。
われわれが大学生の時にはアルバイトなのにプロ精神を発揮してるような人は「おいおいバイトが本業になっちゃうぞw」と心配されたり嘲笑されたりしたものだが、今はそういう人がいないと世の中が回らなくなっているし、「バイトが本業」が普通になってしまった。
「一気飲み」みたいな文化も昔からあるように思われているけど,学生の卒論でOBなどに聞き取りさせたら少なくともうちの大学では「一気飲みのようなもったいない飲み方」が現れたのは学生が豊かになって酒が好きなだけ買えるようになった1980年代に入ってからのようだった。
「マイフェアレディ」はもうダメですね。「ピグマリオン効果」の話で取り上げると学生はもう「キモい」「ありえない」という反応のみです。10年くらい前には「オヤジの幻想ですね」みたいに茶化せば学生の表情は緩んだけど,今はそういうのもかえってダメ。
30年くらい前までは「自分の努力でなんとでも変えられる」というのが癒しや慰めや赦しになっていた。端的に言って「いろいろなことが自分の努力では変えられない時代になった」のだと思う。
けっきょく電気と携帯電波が切れた時にわれわれと世界をかろうじて繋いでくれたのは単三電池で動く小さな中国製のAM/FMラジオだった。電池も24時間以上つけっぱなしで保っている。地上波アナログラジオはなくしちゃダメラジねえ。