2024年8月-9月雑誌記事等

雑誌記事等記事一覧

週刊文春2024年8月8日号
愛子さま遅刻連発で迫る“母娘シンクロ”の悪夢 「公務選り好み」にも心配の声が…

愛子さまの公務の少なさは、ご両親の方針も大きく影響しているという。
宮内庁幹部が語る。
「秋篠宮家は皇族としての活動を重視され、早いうちからお子さま方を
ご夫妻の公務に同行させてこられた。対して、天皇ご夫妻は愛子さまは、
“普通の子ども”としてお育てになりました。
そうして愛子さまは、アイドルやJ-POPに親しんだり、インスタの投稿を
楽しまれるなど、伸び伸びと成長されました。
いまも天皇ご夫妻は、愛子さまがご興味を持たれたことには背中を押されますが、
一方で『皇族として公務をさせたい』とは一切考えておられないのです」

2024.08.19
「雅子さまのご体調が悪くて…」天皇皇后両陛下の「夏の予定」が決まらなかったウラ事情
両陛下の夏の予定も変更に
7月25日の東北での豪雨や8月8日に発表された南海トラフ地震の臨時情報を受け、
夏休みの予定を考え直した人も多いだろう。天皇皇后両陛下も同様のようだ。
「8月上旬に行くはずだった須崎御用邸でのご静養は、東北の豪雨被害を受けて白紙になりました。
毎年8月下旬には那須でご静養されるものの、こちらも中止になるかもしれません」(皇室担当記者)
本稿執筆時点(8月14日)ではまだ公式発表されていないが、那須には行く方向で調整中だという。
ただ判断が遅れた理由は地震だけではなさそうだ。

なかなか決まらなかったワケ
「もちろん両陛下は災害が相次ぐ現状を憂慮されているでしょう。
しかしそれ以前に、雅子さまが那須行きを決めかねていたと思われます。
実は6月の訪英前後から調子が悪く、ご公務に遅れることもしばしば。
側近たちもご体調を気にして強く言えない状況なのです。
例年ご静養の際は、JRが那須塩原駅まで特別な新幹線を運行していましたが、
今年はいらっしゃる場合でも皇居から車を使われるそうです。
雅子さまの具合が見通せず、新幹線の手配も間に合わなかったのではないでしょうか」(宮内庁関係者)
両陛下の予定が直前で二転三転すれば訪問先の関係者にも影響がおよび、
かつての「皇太子妃バッシング」が再燃しかねない。宮内庁の調整力が求められている。
「週刊現代」2024年8月24・31日合併号より
https://gendai.media/articles/-/135766

雅子さま 新女官に「30年来の恩人女官」の娘が着任!側近人事に秘められた“悲願”
記事投稿日:2024/08/20 06:00 最終更新日:2024/08/20 06:00
79回目の終戦記念日となった8月15日。日本武道館で開かれた全国戦没者追悼式に、
天皇陛下と雅子さまが出席された。正午の黙祷の後、陛下がおことばを述べられ、
続く衆参両院の議長や戦没者遺族代表の追悼の辞に両陛下は耳を傾けられていた。
皇室担当記者は、「戦中生まれで、父親が戦死している尾辻秀久参院議長や遺族代表の言葉に、
陛下は何度も小さく頷かれ、雅子さまは真摯に聞き入られていました。
雅子さまの優しいご表情が印象に残っています。8月に入られてから、15日の追悼式への出席を最優先に、
雅子さまはご体調を整えられていたそうです。いかに終戦記念日で平和を祈り、
戦火に倒れた数多くの御霊に対して、不戦を誓われることを大切にされているかが伝わってきます」
皇室にとって重要な一日に、陛下とともに準備をされてきた陰で、
雅子さまを公私ともに支える側近チームに、新たな人材が加わっていた。
7月26日付の人事で、大久保恭子さん(54)が新たに侍従職女官として着任していたのだ。
「先月12日付で、ご成婚翌年から女官として両陛下や愛子さまを支えてきた岡山いちさん(77)が、
勇退されました。雅子さまが体調を崩されて軽井沢での転地療養を行われたときや、
愛子さまが“登校不安”を訴えられたときも、岡山さんは献身的にお世話にあたってきたのです。
ご一家が絶大な信頼をおく側近が去ったことは痛手だったでしょうが、
スムーズな引き継ぎや新たな人材が加わったことで、雅子さまも安心して
終戦の日に向けてご準備を進められてきたようです」(前出・皇室担当記者)
女官は雅子さまのご日常にとって重要な存在だ。元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんはこう話す。
「侍従と同じく、公私にわたってお世話をしますが、女官はよりプライベートな事柄に関わります。
プライベートに深く関わることからも信頼関係が重視されるつとめであり、
人脈を駆使して適任者を探し、採用しているようです」
だが先月採用された大久保さんの経歴は、ほかの女官と比べて異色ぶりが際立っているという。

■教育分野に従事したキャリアにも期待が
「大久保さんは、20年前まで都内の有名私立小学校で教師を務めた後、塾講師や家庭教師など、
民間で教育分野に関わってきた女性で、ほかの女官とは異なったキャリアの方です。
たとえば2015年に東宮女官長に就いてから、現在も女官長として雅子さまに仕えている西宮幸子さんは、
夫が駐中大使などを歴任した外交官の故・西宮伸一さんで、海外経験が非常に豊富です。
また、元通訳のキャリアがある木本彰子さんや津島南枝さん、
皇太子妃時代から雅子さまの海外ご訪問に随行する箱嶋明美さんなど、
現在の女官の陣容は、歴代でも屈指の国際派ぞろいなのです」(前出・皇室担当記者)
女官の採用にあたっては語学力を優先して選んでいることはないというが、
これまでは宮内庁をはじめとする省庁の幹部、旧華族に連なる人から選ばれるケースがほとんどだったとされる。
この“最強チーム”に大久保さんが起用された狙いは、どこにあったのか。
「そうした人脈から選ばれるので、自然と社会的なステータスやキャリアを持っている方が
選ばれることが多いのです。いっぽうで、大久保さんに白羽の矢が立ったのは、やはり今後のご公務で、
教育や児童福祉といった分野へのアプローチをいっそう強めていきたいという
雅子さまのお気持ちも大きいように感じています」(宮内庁関係者)
雅子さまはご成婚前より、国内外の恵まれない子供たちの生活や教育を支援する活動に強い関心を持たれてきた。
傷ついた子供たちへの温かな慈しみは、皇室に入られてからも揺らぐことなく抱き続けられている。
そしてご体調が優れない時期であっても、子供たちとの交流を懸命に重ねられていた。
前出の宮内庁関係者は、「外務省職員時代から、日本国内のみならず、世界の恵まれない子供たちの存在に
心を痛められてきました。皇室に入られてからも、都内の児童養護施設にたびたび足を運ばれ、
ご体調が優れなくても、子供たちに寄り添うご活動は優先して取り組まれています。
また東日本大震災の後、被災3県の中高生たちとの交流を長く続けられ、
被災遺児への支援にも心を寄せられてきたように、雅子さまの“子供を救う”という使命感は
一貫しておられるのです」
皇后となられて5年あまり。貧困に苦しむ世界中の子供たちの生活や教育環境についての活動を
加速させていきたいお気持ちを、雅子さまは日々募らせているという。

■母娘二代で女官に!継承される信頼関係
「雅子さまは日々さまざまな事柄を女官と相談されています。
国際派の女官たちに、長らく教育の現場に通じた大久保さんがチームに加わることで、
新しい知見がご公務に反映されることを期待されているのでしょう。
子供たちを支援するご活動の幅も、多様な形にシフトしていくはずです」(前出・宮内庁関係者)
子供たちを救うため、新たに側近に加わった“熱血教師”。実は、心強い人材を雅子さまと結びつけたのは、
ご一家に仕え続け、愛子さまも“ばあや”として頼りにされてきた元女官の岡山さんだったのだ。
長年の知人はこう明かす。
「恭子さんは、岡山いちさんのご長女です。岡山さんが東宮女官となってしばらくしたころ、
泊まり勤務もある女官の仕事と、お母さんの介護との両立に悩まれていたことがありました。
そんな岡山さんの姿を見かねて恭子さんは教師を辞め、おばあさんの介護にあたるようになったと……。
岡山さんも、恭子さんへの感謝をよく口にされていました。
雅子さまのご活動やお気持ちを最もそばで見てきた岡山さんだからこそ、
現在の女官チームに恭子さんを推薦されたのでしょう。
母娘の二代で雅子さまにお仕えすることになって、
岡山さんも『ありがたいことです』と感慨深そうな様子でした」
女官の近親者が女官となることはめずらしいことではないと、前出の宮内庁関係者も語る。
「平成のころに女官長を務めた井上和子さんは明治の元勲・木戸孝允の末裔で、
その姪にあたる濱本松子さんも女官長を務めました。上皇ご夫妻も井上さんに信頼を寄せておられ、
濱本さんも女官として井上さんの下で修養を重ね、その後女官長を務め上げることになったのです」
こうした継承の形について、静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんはこう話す。
「終戦直後まで、侍従や女官は旧華族家の子女が多く、互いに親戚関係がある人ばかりでした。
しかし近年は官界や実業界から女官となる人も増えており、たしかに岡山さんのケースはめずらしい形のようです。
しかし女官の採用や育成が親戚関係にある人々の間で受け継がれることは、
皇室の方々との信頼関係が継承されていくこととも言えるでしょう」
楽しいときもつらいときも、30年身を粉にして天皇ご一家に生涯を捧げてきた“ばあや”。
これからはその女官魂を継承した最愛の娘が、雅子さまを支えていく。
https://jisin.jp/koushitsu/2362492/

佳子さま(29)がギリシャ公式訪問で首席随員をホテルの一室に呼び出し…心に残った“30秒のやり取り”とは
2024/8/22
source : 週刊文春 2024年6月13日号
碧色のエーゲ海に、白亜の街並みが浮かび上がる。
南欧の美しい国を訪問中の日本のプリンセスは、首席随員を宿泊先のホテルの一室に呼び出した。
「いったい何事か」。慌てて首席随員が参上すると――。

佳子さまがギリシャを公式訪問
5月25日から8日間の日程でギリシャを公式訪問された、秋篠宮家の次女・佳子さま(29)。
この訪問に首席随員として同行したのが、2013年から17年までギリシャ特命全権大使を務めた
西林万寿夫氏(71)だ。
西林氏が明かす。
「3月10日ごろに宮内庁からギリシャ随行の打診があり、候補地選びなど準備を進めました。
佳子さまが日本国内の専門家からご進講を受けられるのに同席し、その他にも2、3回、宮邸でお会いした。
御用掛を通じてやりとりすることもありましたが、佳子さまから直接メールをいただくこともあった。
複数名でお話をしている時には発言されなくても、後から連絡が来ることも。
いろんな公務の合間を縫って準備をされているお姿からは、
今回のギリシャ訪問にかける思いが伝わってきました」
西林氏が秋篠宮家と接するのは、今回が初めてではない。米NY総領事館で勤めていた1990年代には、
秋篠宮ご夫妻をメトロポリタン美術館へご案内したこともあるという。

佳子さまご一行が約22時間もの移動を終えて、首都アテネのホテルに到着したのは、
現地時間5月26日の午前3時ごろのこと。当日には早速、鮮やかなブルーのニット姿で
パルテノン神殿の修復作業を視察され、日本で勲章を受けた人物らと懇談された。
翌27日には、アクロポリス博物館を視察後、日本とギリシャの外交関係樹立125周年記念式典にご臨席。
日本とギリシャのつながりとして「イソップ物語」を例に挙げ、こう述べられた。

皇室と「イソップ物語」のゆかり
「今回の訪問をきっかけに『北風と太陽』など、
子ども時代に読んだ『イソップ物語』を久しぶりに読み返しました」

西林氏が振り返る。
「『イソップ物語』は佳子さまが深い関心をお寄せになったギリシャ文化の一つ。
スピーチの原稿は、佳子さまご本人を含め大使館員など複数の関係者で作成されましたが、
『イソップ物語』に言及したいという佳子さまの強いご要望が反映されました」
実は、皇室と「イソップ物語」のゆかりは深い。「昭和天皇実録」によると、
子ども時代の昭和天皇は側近に一日何度も「イソップ物語」の読み聞かせをせがみ、
自身でも「裕仁新イソップ」と銘打った物語を創作。
筋金入りの「イソップ物語」ファンであることが明らかになっている。

黄色の振袖姿で大統領府をご訪問
ご滞在3日目の28日には、菊の花などがあしらわれた黄色の振袖姿で大統領府を訪問され、
サケラロプル大統領と面会。大統領側は、今回のために特別に庭に植えた菊をご覧に入れたほか、
分刻みの日程の佳子さまのために短時間で食べられる小さなお茶菓子を供する“おもてなし”を見せた。
懇談で大統領が話題にしたのは、ギリシャ生まれの作家・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について。
「実は佳子さまは小泉八雲に関しても、事前に入念にお調べになっていました」(同前)
直後に向かわれたのは、目の前に位置する首相府。ミツォタキス首相とマレヴァ夫人などが出迎えた。
ここでは思わぬハプニングも。
「首相と10分ほど話をされた後、首相夫人とサロンのような部屋で歓談されたのですが、
首相夫人は日本に縁のあるお友達のアーティストを連れてきていた。
この方が同席するのは事前に知らされていなかったのですが、ギリシャではよくあることです。
このサロンには彫刻などたくさんの芸術作品が置いてありましたが、
佳子さまは壁にかかっていた大きな刺繍の作品について、特に熱心に説明をお聞きになり、
芸術の話題で盛り上がっておられました」(同前)

部屋を退出する際、西林氏が肝を冷やす場面も。
「部屋の扉が開いたときに、首相が飼っている保護犬の『ピーナッツ』が駆け寄ってきたんです。
佳子さまは優しく頭をなでておられましたが、着物が汚れないか、内心ヒヤヒヤしていました。
私も靴を舐められました(笑)」(同前)

「手話、通じたみたいです!」
目まぐるしく公式日程をこなされた佳子さま。29日には聴覚障碍者支援施設に足を運び、利用者とご交流。
手話も交えながら懇談された。
全日本ろうあ連盟に非常勤嘱託職員として勤務され、国内の公務でも手話を披露される機会の多い佳子さま。
だが、ギリシャ語の手話はあまりご存知ではなく、別の国で使われる手話も交えながらの歓談となった。
交流後には西林氏に、
「私の手話でも、通じたみたいです!」
と、嬉しそうに仰ったという。
順調に進んでいた公務だが、この日、“間一髪”の出来事があった。
午後、ご一行はアテネからギリシャ北西部のリゾート地、ケルキラ島に移動。
到着後にぽつぽつと降り出した雨が、しばらくして土砂降りになったのだ。
ビニール傘を差し、島内の孤児院を訪問された佳子さま。そこへ――。

10メートル離れた場所へ雷が落ちた!
「車列の関係で私が先に施設を出たのですが、その時、10メートルぐらい離れた場所へ雷が落ちたのです。
施設は丘の上にあり、その近くの林に落ちたのですが、とても驚きました。
佳子さまはまだ施設の中にいらっしゃったので、事なきを得ました」(同前)
30日には、同島のアジア美術館で「文化観光年」を記念する行事と観光大臣主催の昼食会にご出席。
所蔵されている、江戸時代中期の浮世絵師・東洲斎写楽が描いた肉筆画をご覧になりながら、
「どのように線は描かれていたのでしょうか」
などと細かな質問をされたという。西林氏が振り返る。
「渡航前には佳子さまからメールで、この美術館を扱った10年以上前の番組が見られる
YouTubeのリンクが送られてきました」
メールには、こんな趣旨のメッセージが添えられていた。
「面白いですよ。ぜひご覧になってみてください」
大使経験者の西林氏ですら知らなかった番組で、その探求心に驚いたという。
いくつかのハプニングを乗り越え、8日間の日程を終えられた佳子さま。
滞在中、一度だけ西林氏がホテルの部屋に呼び出されたことがあった。それが冒頭の場面だ。
「何事かと思って参上しますと、佳子さまに『このようなことを発言してもよろしいのでしょうか』
とご相談を受けました。政治的とも解釈できる内容だったため、
『お控えになった方がいいかもしれませんね』とお答えしました。
30秒程度のやり取りでしたが、心に残っています」(西林氏)
帰国から2日後の6月3日、佳子さまは皇居の賢所を参拝。
その後、控室で待っていた西林氏のもとへ直接、挨拶に訪れられた。
佳子さまが携えておられたのは、行きの機内で西林氏が渡した、アクロポリスに関する小冊子。
プリンセスとの旅はこうして終わりを告げたのだった。
https://bunshun.jp/articles/-/72625

愛子さまお留守番のご静養は、いつもの「お出迎え」も「記帳」もなし 
天皇陛下と皇后雅子さまはおふたりでゆっくりと
2024/08/25/ 10:00
天皇、皇后両陛下は8月21日、ご静養のために栃木県那須町の那須御用邸を訪れた。
東京の皇居を車で出発し、夕方に御用邸に到着。敷地内を散策された。
社会人1年目の長女の愛子さまは、勤務の都合で御所にお留守番。今回は夫婦水入らずでのご静養となった。

午後6時前。少し前に降った雨に濡れた那須御用邸の庭を、天皇陛下と皇后雅子さまがゆっくりと散策していた。
「マツムシソウは?」
「前にリンドウはここにはなかったよね」
陛下は青いチェック、雅子さまはストライプのシャツに白い花のイヤリングをつけて、
リラックスした装いで庭の花々を楽しまれていた。
日赤で学生ボランティアを育成する部署に勤める愛子さまは、勤務が忙しく、今回は御所に残ることに。
愛子さま不在のご静養について記者から感想を聞かれた雅子さまは、陛下と顔を見合わせて静かにほほ笑んだ。

「だいぶ久しぶり」
陛下もにっこりと相槌を打ちながら、こう返す。
「久しぶりですね、こういう2人でね。ここの中で少しゆっくりできたらいいなと思っています」
「ここの中で歩ければよいかしらと思って」
「自然が豊富ですのでね。那須の自然を楽しむことができればと思っています」

お出迎えも記帳もカット
今夏は当初、静岡県下田市にある須崎御用邸でのご静養も調整されていたが、
東北の豪雨被害に配慮して中止となり、那須御用邸でのご静養の決定はギリギリになった。
そのため、いつもと違うことがいくつかあった。
ひとつは、皇居から御用邸まで、車での移動となったことだ。
通常、那須御用邸へは東京駅から那須塩原駅まで新幹線に乗り、車に乗り換えて御用邸に向かうのが常だが、
今回は皇居から車で4時間かけて御用邸に到着した。
那須塩原駅では栃木県知事らの出迎えを受け、駅前には歓迎する地元の人たちが集まり、
ちょっとしたお声がけもある。そうしたあたたかな光景が、ご静養1日目のニュースとして流れるのが常だった。
もうひとつの変化は、御用邸での記帳がなくなったことだ。
栃木県などによると、天皇ご一家がご静養のために滞在した際には、
附属邸の事務棟の入り口付近にテーブルを置き、記帳ができるようにする。
あらかじめ希望者を確認したうえで、地元の議員、神社本庁、企業、
那須地域の農家でつくる「那須嚶鳴(おうめい)会」などから40人ほどが御用邸へ行くのが恒例だった。

「那須嚶鳴会」のメンバーのひとりは、
「今年は記帳所の設置はないと連絡を受けました」
と肩を落とす。那須塩原市にある三島神社の相馬秀和宮司も、こう話す。
「天皇ご一家が滞在なさるときは、御用邸にうかがって記帳しておりました。
今年は、両陛下が来られるのに記帳についての連絡が来ないと思っていましたが……」

宮内庁職員を長く務めた皇室解説者の山下晋司さんによると、皇室への記帳は幅広く行われている。
たとえば、皇居・宮殿の長和殿。入り口の車寄せに続く北溜のホールには、両陛下への記帳所が設けられている。
天皇陛下の誕生日や新年の一般参賀では皇居に記帳所が設けられるし、
皇族方のお住まいの宮邸にも記帳台がある。
「天皇、皇后両陛下や皇族方に、直にお会いしてごあいさつしていただくのが好ましいのでしょうが、
お忙しい皇室の方々が全員とお会いすることは無理です。
その代わりとして、簡単な用件と氏名を記載していただくのが皇室の記帳です。
その記帳簿は当然、両陛下や皇族方はご覧になります」
各地で災害が起こったから記帳を取りやめる、という性格のものではないといい、
「これまでと同様に、静養のために滞在されているのですから、記帳を行わない理由はわからないですね」
と、山下さんは首をかしげる。

すこしお痩せになった
今回のご静養は愛子さまがご一緒でないことから、
陛下と雅子さまは外出を控えてゆっくりとお過ごしになるだろうと見られている。
皇室を取材するカメラマンのひとりは、こう話す。
「現場の感覚ですと、雅子さまは公務でもいい表情や笑顔を見せてくれるようになりました。
でも、酷暑が続くこの夏は、お痩せになったような印象です」
コロナ禍が明けて両陛下の公務が本格化し、能登半島地震の被災地訪問や全国植樹祭など宿泊を伴う地方公務、
そして英国訪問といった大型公務を軸に忙しい日々が続いた。
雅子さまもお疲れがたまっているようで、御所のお部屋で静かに過ごし、
陛下が間に入って調整なさることもあるという。
那須御用邸では多忙な日々のお疲れを癒やし、おふたり水入らずでの時間を楽しまれることだろう。
(AERA dot.編集部・永井貴子)
https://dot.asahi.com/articles/-/231772

《まさかの“忍者”》悠仁さまが「国際昆虫学会議」で公開されたポスター発表の意外な中身
《和紙に印刷、写真に“トンボ愛”が…》
2024/8/27
そして、悠仁さまのポスター発表があった26日。
展示場所となったイベントホールには、約270枚のポスターが並び、
世界中から集まった研究者らでごった返した。その様子を参加者が明かす。
「多くの場合、論文の筆頭研究者がポスター前に立ち、質疑に応じます。
悠仁さまたちのチームは、筆頭著者である国立科学博物館研究主幹の清きよし拓哉氏が会場に現れ、
来場者の質問に答えていました」
清氏は、悠仁さまを筆頭著者として昨年公表された別のトンボ論文に、共同著者として名を連ねた人物でもある。
その清氏は、何を語っていたのか。
「研究を始めた経緯として、2000年に入った頃に今の上皇さまから『
皇居には珍しい生き物がいっぱいいるから調べてみないか』と打診があったのだそうです。
実際に調査に入ると、都内でこれほどトンボが多く生息する場所はないとして、
皇居は『トンボの楽園』だと話していました。流動性のある水源がトンボの生育に重要らしく、
皇居のお濠がその重要な役割を果たしているのだそうです」(前出・参加者)
さらに会場では、ポスターの“とある部分”が参加者の間で話題になった。
「『あ、秋篠宮家の……』と、悠仁さまのお名前に注目して立ち止まる方が多かったと思いますが、
他のポスターと比べて、際立ってちがう部分があった。それは、ポスター紙の材質です。
基本的には光沢紙とか普通紙を使っているものが多かったのですが、
悠仁さまたちのポスターは、高級感あるしっかりした材質の和紙を使っていらっしゃった」(同前)
そのため、「この紙、何だろう?」とそっと手で触れている来場者も多かったという。
だが、こだわりが見られたのは、それだけではない。
「他のポスター発表と比べて、写真を大きく掲載しているのが印象的でした。
また、あえてなのか、写真に枠線がない点にも美意識を感じましたね。
他の発表の中には画質が荒い写真もあったのですが、悠仁さまのトンボの写真は、
トンボをはっきり見せるために背景がきれいにボカされていた上、高画質。
『このトンボの美しさを見てほしい!』という“トンボ愛”を感じました」(同前)
「英文の記述内容を読んでるときに思わず笑いを漏らす人がいたのですが、私も目を通して納得しました。
皇居のお濠についての説明で、
『江戸時代、敵の侵入を防ぐ防壁として機能していた。(例えば)忍者とか……』と、
まさかの“忍者”に関する言及があったんです」
会議にはのべ77の国と地域から約4000人が参加している。
もしかしたら海外の研究者らを意識しての“悠仁さま流おもてなし”だったのかもしれない。
https://bunshun.jp/articles/-/73078

雅子皇后に懸念される「新たな症状」 「お召列車」も間に合わず、那須ご静養を巡り“異変”が
2024年08月28日
8月21日から栃木県の那須御用邸で静養されている天皇皇后両陛下。
天皇家にとって夏の那須ご静養は「恒例行事」だが、今年はある「異変」が起きていた。
その背景には雅子皇后のご体調問題があるとささやかれ、
専門家は、皇后陛下が「新たな症状」に見舞われている可能性を指摘するのだった。
月末までのご予定で那須に滞在されている天皇皇后両陛下。
お代替わり後、今回で3回目の那須でのご静養となるが、お仕事の関係で愛子さまが同行されなかったこと以外に
もう一つ、これまでとは異なる事態が生じていた。宮内庁担当記者が解説するには、
「例年、ご一家はJR東京駅から那須塩原駅まで特別編成の新幹線、いわゆる『お召列車』で移動され、
ここから車で御用邸へと向かわれます。お帰りも同じルートをとられるのですが、
今回は往復とも、お住まいの御所から御用邸まで、高速道路を経由し、
お車のみで移動なさる行程となっているのです」

「間に合わなくなってしまった」
車によるご移動では、途中のご休憩を含めて片道の所要時間はおよそ3時間半。
お召列車の場合は従来、両駅を1時間ほどで結んでおり、
「両陛下のご負担を考えれば列車の方がはるかに望ましく、また警備上の観点からも好都合です。
那須塩原駅に到着された際には、お出迎えの市民らと駅頭で交流なさるのも恒例となっていますが、
こちらも今回は行われませんでした」(前出の記者)
というから“イレギュラー尽くし”と言わざるを得ない。さる宮内庁関係者によれば、
「両陛下の乗車される特別列車は、一編成を借り上げる形で、
一般乗客の利用する新幹線とは別のダイヤで運行されます。
ご静養の際には通常、ご出発のひと月以上前に宮内庁からJR側に連絡をするのが習わしです。
というのも、お召列車の運転を担うことができる運転士を手配するなど、
JR側でも調整に時間を要するからなのです」
ところが今回は、
「ご静養の日程を決めるにあたり、両陛下からのご指示が“リミット”を過ぎてしまったため、
侍従職らがJR側とのやり取りを始められず、結果として手配ができなかった。
つまり間に合わなくなってしまったのです」(同)

“ご体調の波”
一体なぜ「間に合わない」という“異変”が生じたのだろうか。
「かねて“ご体調の波”がおありの中、とりわけ6月の英国ご訪問前から、
皇后さまにはお疲れのご様子がうかがえました」(前出の関係者)
それは例えば、
「行事ご出席の際にお支度に時間がかかるなどして、
御所のお部屋から予定通りのお時間にお出になれない状況が続いていました。
本来であれば女官をはじめ、側近らが『そろそろです』などと促すべきところ、
他ならぬ陛下が『(雅子皇后のご様子は)私が見ますから』と、日頃から仰っているため、
周囲はご様子を静かに見守ることしかできないのです」(同)
その“波”のため、ひと月先のご予定が組みづらいだけでなく、
当日になってもコンディションが見通せないまま事に当たるという“綱渡り”のような状況が続き、
それが今回のご静養での“異変”にもつながったのではないかというわけだ。

「『睡眠相後退症候群』ではないか」
予定は分かっていても時間通りに体が動かない、動けない。そうした症状は一般人でも珍しいものではない。
周囲は怠けているとかルーズだとか言いがちだが、そんな簡単な話ではなかろう。
これは、望ましい時刻に休んだり、起床したりといった活動が恒常的に困難になり、
未明や明け方になってようやく入眠できるという状態である「睡眠相後退症候群」ではないかと推察される、
と指摘するのは精神科医の片田珠美氏である。
一般に、こうした状況を改善するのは決して簡単ではないが、
起床すべき時間に強い光を浴びることが効果的だ、と片田氏は語る。
皇后さまの早期のご回復を祈るばかりである。
8月29日発売の「週刊新潮」では、平成時代とは異なる「要因」でご体調を崩されているとも指摘される
皇后陛下のご近況について詳しく報じている。
週刊新潮 2024年9月5日号掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/08281131/

2024.09.03 11:30
女性セブン
三笠宮彬子さまが名誉総裁に就任内定「ツタンカーメン展」で怪しげな人脈がカネ集め
 “事務局長補佐”は執行猶予中の身
約100年前に発見されたツタンカーメンの秘宝。
最も有名なファラオの副葬品が10年ぶりに日本にやってくる企画が進行中だが、
その周辺には盗掘者もびっくりするような怪しげな人脈が見え隠れする。
皇室も巻き込まれた騒動を詳報する──。
「このままでは、三笠宮家や彬子女王のお名前にも傷がついてしまうような事態になりかねません。
エジプト政府との信頼関係を損なう危険性もありますし、
内部からも組織の運営体制を見直すしかない、という声があがっています」
こう話すのは、今年の年末に開催予定の「ツタンカーメンと黄金の太陽王たち展」の企画団体関係者。
世界一有名なファラオにまつわる副葬品の数々を展示するイベントがいま、
皇室を巻き込んだ騒動に発展している。
古代エジプトの王・ツタンカーメンの黄金のマスクが初めて日本にやってきたのは、
前回の東京オリンピックが開催された翌年の1965年のこと。
国内3か所で約295万人を動員し、日本の美術展史上最多の入場者数を記録した。
さらに、47年後の2012年に開催された2度目の「ツタンカーメン展」も約250万人を動員。
ツタンカーメンは日本の展覧会史に金字塔を打ち立ててきた。
「前回の展覧会は当時、皇太子だった天皇陛下も東京・上野の会場に足を運んでくださり、
ツタンカーメンにまつわる数々の品物を熱心にご覧になっていました。
イベント関係者の間では『ツタンカーメン展』は、
開催すれば必ず莫大な収益が見込める“ドル箱”として、認知されています。
今回の展覧会では、中東文化に造詣の深い三笠宮家の彬子さまの名誉総裁就任が内定していると聞いています」
(前出・企画団体関係者)
エジプトの至宝を展示する企画が、日本でたびたび開催されるのはなぜか。
そこには現地との窓口となるキーマンの存在がある。
「エジプト政府と特別なパイプを持つAさんという日本人男性がいます。
もともとは大手企業のエンジニア出身ですが、エジプトで仕事をしているときに、
現地の考古学者と交流を深めたとか。帰国後は映像制作会社を起業し、
『世界ふしぎ発見!』(TBS系)の撮影に協力したりしていました。
Aさんは、エジプトの初代考古省大臣で、前回の展覧会でも監修を務めたザヒ・ハワス博士とは昵懇の仲。
有名な考古学者の吉村作治先生の親戚という話も聞いたことがあります」(別の企画団体関係者)
A氏はアラブ・エジプト地域に強力なコネクションを持つNPO法人とも関係が深い。
そのNPOは前回の「ツタンカーメン展」でも主催者の一員として重要な役割を果たした。
すでにA氏らは開催に向けた“手付金”としてエジプト政府に、億単位のお金を支払っているという。
「過去2回の開催実績から、『ツタンカーメン展』は入場料や展示品の図録の販売収入だけでも
100億円が見込まれるビッグビジネス。
さらに、エジプト政府から許諾を得て、展示品のレプリカを別の国や地域で展示する
“リクリエイト展”を開催すれば、収益はもっと大きくなる。
それだけに、このビジネスにかかわりたい人は大勢いるのです。
今回の展覧会では黄金のマスクは来日しませんが、ツタンカーメンが使用した
黄金のチャリオット(戦車)が世界で初めてお披露目される予定です」(前出・別の企画団体関係者)
遺品発掘にかかわった人物が次々と非業の死を遂げたツタンカーメンの呪いはいまも続いていたのか
──本来は成功間違いなしとされたビジネスに、コロナ禍の影が差した。
「Aさんたちは当初、2020年の東京オリンピックにあわせて3度目の『ツタンカーメン展』を開催するべく、
2018年頃に会社経営者のBさんをプロジェクトの組織委員会事務局長に据え、動き出していました。
Bさんの人脈でTBSから5億円の出資も決まり、会場費や宣伝にもめどがついたと喜んでいたのですが、
コロナで話が立ち消えになってしまったのです」(A氏の知人)

事務局長補佐は「執行猶予中」
大型のイベント事業では、会場を借りるうえで大手マスコミの信用は大きく、
過去2回の「ツタンカーメン展」も朝日新聞やフジテレビが主催となっていた。
TBSの翻意に途方に暮れたB氏らは金策に奔走。その過程で、B氏が出会ったのがC氏だった。
「Cさんは、1年ほど前から《組織委員会事務局長補佐》の名刺を持ち、
プロジェクトの口座や印鑑を管理するようになりました。独自の人脈で出資者を募る一方で、
組織委員会は議事録もなく、どんな計画で展覧会を開催するのかも不透明。
出資金の金銭管理もBさんやCさんが自由に差配しているようで、
すでに一部が使途不明金になっているのではないかという話もあります。
BさんやCさんは、彬子さまが名誉総裁に就任してくれることで、
大企業からの協賛金も集めやすいと考えているようで、
協賛を募る企画書にはすでに彬子さまのお名前が記されています」(前出・企画団体関係者)
今年2月にはエジプト政府の要人を招き、ホテルで大々的に記者発表も行っている。
「来日したのは、エジプトの次期首相とも噂される大物で、展覧会の企画に感謝し、
日本との経済協力にも言及していました。組織委員会としては、彬子さまだけでなく、
今度の自民党総裁選への出馬が取り沙汰されている大物政治家を顧問に迎える準備もあるそうです」
(前出・別の企画団体関係者)
しかし、C氏の手腕に疑問を持つ前出の企画団体関係者が言う。
「もともとは、女子高生ビジネスでベンチャー経営者として頭角を現したという触れ込みでしたが、
実は数年前に不正な株取引などによる金融商品取引法違反で逮捕され、現在は執行猶予中の身だったのです。
彬子さまが名誉総裁となり、エジプトの至宝がやってくる国家規模の展覧会の金銭管理や
資金集めにCさんが関与するのはいかがなものかという声があがっています」
彬子さまの祖父・三笠宮崇仁さまは、中近東の文化研究に思い入れが深く、出光興産の創業者の協力を得て、
中近東文化センターの設立に尽力。その志を継ぐ彬子さまが、名誉総裁に就任するのは自然な流れだったが、
100億円イベントに群がる不可解な人脈に、三笠宮家の名前が利用されてしまわないか、
周囲の心配は募るばかりだ。
はたして、当事者たちはどのように答えるのか。
A氏やB氏の自宅を訪ね、携帯電話を何度も鳴らしたが、取材に応じることはなかった。
NPO法人の理事長も「何も答えないことにしている」と繰り返すのみ。
宮内庁に彬子さまの名誉総裁就任や経済事件で執行猶予中の人物の関与について見解を尋ねたが、
回答はなかった。
幾度の盗掘危機を逃れ、現代によみがえったツタンカーメンの副葬品の数々。
3000年以上の時を超えた現代で繰り広げられる騒動に、ファラオも王家の谷で泣いている。
※女性セブン2024年9月12日号
https://www.news-postseven.com/archives/20240903_1987591.html

女性セブン2024年9月19日号
天皇家の長女・愛子さまが5月に、最初で最後の単独公務に臨まれてから早くも4か月が経とうとしている。
大学院への進学や海外留学などではなく、日本赤十字社(以下、日赤)への就職を選ばれた愛子さま。
大学ご卒業を機に、皇室のご活動に本腰を入れられるのでは──
そんな周囲の期待をよそに、愛子さまの公務やお出ましの機会は決して多いとはいえない状況だ。
「就職を決められた時点では皇室のご活動と仕事を両立されるとみられていましたが、
入社日から現在に至るまで、愛子さまは仕事に重きを置かれています。
日赤側は週3日程度の勤務を想定していましたが、蓋を開けてみれば、ほぼ毎日出社されているそうです。
9月中旬にようやく休みを取り両陛下と那須御用邸で静養されるそうですが、
公務の予定ははっきりしていないと聞いています」(宮内庁関係者)

有識者会議の設置から最終報告書の取りまとめまで約1年というスムーズな進行の背景には、
純一郎氏と、当時、皇太子ご一家だった天皇ご一家、
とりわけ雅子さまとの奇縁ともいえるつながりがあったとされる。
純一郎氏は1972年に初当選するまで福田赳夫氏の秘書官を務めていた。
1976年、その福田氏の内閣で首相秘書官に就任し、日中平和友好条約の作成に参加したのが
雅子さまの父・小和田恆さんである。
2人は、当時から親しくコミュニケーションが取れる間柄にあったとされる。
「純一郎氏と恆さんの仲は長く、1993年に雅子さまが皇室に入られるずいぶん前からの関係で、
数十年来の友人と聞いています。小泉家と小和田家の行きつけのスキー場が同じだったのは有名な話で、
旅行の日程が重なった際、スキー場のロッカーで、
純一郎氏が雅子さまに“スキーはやるの?”と声をかけたこともあるそうです。
もちろん、在任期間中も、純一郎氏は恆さんとたびたび面会していました」(前出・政治ジャーナリスト)

「総裁選期間中は、不要なハレーションを避けるためにも、進次郎氏は安定的な皇位継承、
特に、女性・女系天皇に関する内容については強く主張しないとみられています。
しかし、総裁選を勝ち抜き首相になったあかつきには、
純一郎氏の“未練”でもあるこの問題に着手するのではないでしょうか。
進次郎氏は柔軟な考え方の持ち主ですから、国民からの支持を強固にするため国民の希望に寄り添う形で
『女性天皇の容認』に言及する可能性は充分あります」(前出・全国紙政治部記者)
父の代からおよそ20年、くすぶり続ける問題に終止符が打たれようとしている。
https://www.news-postseven.com/archives/20240906_1988592.html

そんなに女性天皇がいやなのか…最近の雅子皇后いじめの裏にあるもの(元木昌彦)
2024/09/08
雅子皇后に“異変”が起きていると週刊誌が騒いでいる。
週刊新潮(9月5日号)によれば、今夏、那須の御用邸へ静養へ行く際、
天皇皇后は珍しくお召し列車ではなく全ての行程を車で行かれたというのである。
その理由は、お召し列車となればJRはダイヤ編成を行わなければならず、
出発の1カ月以上前にJR側に連絡をしなければいけないのだが、それができなかった。
「最も大きかったのは皇后さまのご体調でした」(さる宮内庁関係者)というのである。
今回は仕事が多忙で愛子さんが一緒に行けないということもあったようだが、それだけではなく、
このところの雅子皇后は、体調が優れないため、公式行事への出席も遅れがちになるという。
「大事な行事当日にご体調のピークを合わせられるよう、
皇后さまは数日間かけてコンディションを整えられています。
ただし、そのお出ましが終わった後はお疲れが残ってしまう。なかなかお休みになれないなど、
少なからず生活のリズムが狂ってしまうのです」(同)
先の英国訪問の際にも出発が10分遅れ、帰国後、上皇夫妻に帰国の挨拶に向かう時も5分ほど遅れ、
那須へ向かう日も皇居からの出発時間が20分ほど遅れたと、小姑のごとく言い募る。
いいじゃないか10分20分遅れたってと、私は思うのだが。
女性セブン(9月12日号)も「雅子さま緊迫引きこもり静養深刻急変」、
女性自身(9月17日号)でもほぼ同趣旨の内容を報じている。
雅子皇后の「適応障害」という病は全快が難しいようである。このところ、海外訪問を含めて、
重要行事には天皇と一緒に出席して、にこやかな笑顔ではつらつとこなしているようにみえていたのだが。
しかし、なぜここへきて週刊誌が示し合わせたように雅子皇后バッシングとも思える報道を始めたのだろうか。
彼女が病を発症したのは、皇室という未知の世界に入ってからすぐに、
宮内庁をはじめとする周囲の「お世継ぎを産め」という強烈なプレッシャーのためだった。
2001年12月に愛子さんが誕生してからも、宮内庁は「男の子でなくては」と雅子さんを追い詰め、
心身ともに傷つき、病んでしまったのである。
■週刊誌やワイドショーは、こぞってバッシング
だが、心ない週刊誌やワイドショーは、「公式行事には出ないのに実家には度々帰っている」など、
こぞって雅子さんバッシングをした。それが皇后に即位すると、手のひらを返したように
雅子さんと愛娘の愛子さんを賛美する大合唱を、同じメディアが繰り広げたのである。
そして再び手のひら返し。
なぜか? 私が推測するに、一つは、国民の多くが「愛子天皇誕生」を望んでいることにあると考える。
次期総理が誰になろうとも早急にこの重要課題に取り組まざるを得ないが、
いまだに女性天皇さえ認めないゴリゴリの守旧派議員が自民党の中には多くいる。
その連中の仕掛けではないか。
いま一つは、秋篠宮家の長男・悠仁さんの大学受験が、この秋大詰めを迎える。
東大推薦入学が成功するか否か、その話題ばかりがメディアに出ることを危惧した秋篠宮家の関係者が
“リーク”しているのではないか。
いずれにせよ、今われわれ国民や政治家、メディアが考えるべきは、雅子皇后のこともそうだが、
愛子さんのこれからについてであるはずだ。もうすぐ23歳になる女性が、
自分の人生を自ら決めることができず、どうなるかも見通せない日々を送っているのである。
残酷だとは思わないか。
(元木昌彦/「週刊現代」「フライデー」元編集長)
© 株式会社日刊現代
https://nordot.app/1205265382746866365?c=768367547562557440

2024.09.10
御用邸の周囲はまるで「立ち入り禁止」状態…両陛下の那須ご静養で起きた「異変」
関係者以外立ち入り禁止
8月30日、那須御用邸でのご静養を終えた天皇皇后両陛下は、
雨のなか見送りに集まった地元の人たちに向けて手を振りながら、帰途につかれた。
愛子さまが生まれてから初となるご夫婦水入らずのご静養だったが、
御用邸の周囲は例年と異なりまるで「関係者以外立ち入り禁止」状態だったという。
「例年ならば皇室と付き合いがある地元の農家などが希望すれば、
御用邸にある管理事務所で記帳することができたものの、今年は受け付けていませんでした。
おそらく雅子さまのご体調があまりよくないため、
静かな環境でご静養できるように周囲が配慮したのでしょう」(宮内庁関係者)

新幹線が間に合わなかった
これまで両陛下が那須にいらっしゃるときはJRが特別に編成した新幹線に乗車されていたが、
今年は皇居から車で直行された。これにも雅子さまの体調が関係していたと見る向きもある。
「ご体調に波がありギリギリまで行くかどうか悩んだため、手配が間に合わなかったと見られています。
加えてひょっとすると、駅で大勢の人々に出迎えられるのをご負担に感じているのかもしれません」(同前)
9月中旬には愛子さまも一緒に那須にいらっしゃると見られる。
その際はご一家そろって新幹線に乗車され、恒例の記帳も復活することを願うばかりだ。
「週刊現代」2024年9月14・21日合併号より
https://gendai.media/articles/-/136900

悠仁さま 生クリームワッフルをモグモグ 
「ライブ会場」とヒット曲にノッてジャンプ!18歳の「文化祭」は、「トンボ」のオリジナルTシャツで
2024/09/10/ 07:00
9月7、8日。秋篠宮家の長男、悠仁さまが通う筑波大学付属高校(文京区)では
文化祭「桐陰祭」が開催された。3年生の悠仁さまにとって高校生活最後となる文化祭。
悠仁さまのクラスはピザ屋を出店し、卒業生や生徒の家族など来訪者でにぎわう初日には、
秋篠宮ご夫妻も来場し、息子の青春を見守った。
2日目の「桐陰祭」も終わりに近づいた9月8日の夕方。
高校の前庭に設置されたステージでは、ダンス部によるパフォーマンスが生徒たちを盛り上げていた。

全身でリズムを取りながら、思いきりジャンプ
マイクを手にした女子生徒が、カナダ出身のシンガーソングライター、
カーリー・レイ・ジェプセンのヒット曲『Call Me Maybe』をバックに、
「イチ、ニ、サン、シ‥パン、パン、パン」とリズムを口ずさむ。
舞台上ではダンス部の生徒たちがゆっくりとダンスのお手本を見せて、
観客のみんなも一緒に踊るように呼びかけた。
来場客などによると、同級生たちと店じまいをしたクラスのテントの下で、ステージをみていた悠仁さまも、
ダンス部のマイクに合わせて、腕を挙げ、左右の手を回し、両手をふって練習タイム。
いよいよラストのダンスとなる『Call Me Maybe』が流れ、
ダンス部の生徒たちがステージで熱のこもった踊りを披露。
会場は在校生たちの手拍子と「ワーッ」といった声援で盛り上がる。
椅子に座っていた悠仁さまもお友だちと一緒に立ち上がった。
全身でリズムを取りながら左右の腕を順番に回し、上げた両腕を左右に揺らしてから思いきりジャンプ。
お友だちと高校生活、最後となる「桐陰祭」を存分に楽しむ18歳の悠仁さまがいた。
最終日の悠仁さまは、背中に「HISAHITO 01」のロゴがプリントされた白いTシャツを着用していた。
「桐陰祭」では、クラスごとに作製したオリジナルTシャツがあり、
背中には、銘銘が名前や好きな言葉などをプリントしている。
「HISAHITO」Tシャツは 2年生の文化祭でも着用していたものだ。
初日に着用していたTシャツは、さらに悠仁さまの個性があふれる仕様になっていた。
背中側には、「Anisoptera 1310」のプリントがある。
「Anisoptera」とは、トンボ亜目を指すことから、悠仁さまのトンボ愛があふれるオリジナルTシャツであった。
来場者などによると、2日間の「桐陰祭」では、お友だちと笑顔で過ごす姿があった。
悠仁さまが所属するクラスは、手作り窯で焼きたてのピザを提供する
「ピッツァスモールワールド」の模擬店を前庭に出店。
12等分されたマルゲリータとジェノベーゼが一切れずつセットになって150円と、
リーズナブルで「小さな」ピザ屋さんだ。

悠仁さまは、調理室でピザ作り?
屋台テントの上には、新聞紙と段ボールなどで制作した、熱々のピザの巨大オブジェが飾られており、
生徒の意気込みの高さが伝わる。
「手作り窯で焼きたてがウリだけあって、ミラノ風のパリッとした薄皮にアクセントがついた味で美味しく、
2日間とも早めに売り切れました。悠仁さまは、調理室でピザを作る裏方を担当していたようで、
販売の係では見かけませんでした」(来場客)
2日目、悠仁さまのクラスのピザ屋さんは13時台には売り切れとなり、
生徒たちはそれぞれ他のクラスの催し物を楽しみに校内に散っていった。
悠仁さまが目指したのは、「スィーツ店」。
お友だちの男子生徒と一緒にワッフルの模擬店の列に並び、ほどなく入店。
居合わせた来場者によると、男子生徒と二人で席に座ったのち、
ホイップクリームが添えられた美味しそうなワッフルを手に模擬店から出てきたという。
食べ歩きは禁止のため、屋内のスペースでお友だちとワッフルをモグモグ。

ライブ会場でうちわを手にリズムを 
そのあと向かったのは、体育館の地下で開催される校内の軽音団体による
「TOーIN FES KEION LIVE」の地下会場だ。
「女の子がボーカルを務めるバンドの演奏がちょうど始まり、悠仁さまはうちわでリズムを取りながら、
演奏を楽しんでいました。ライブ会場にいた男性教員が、『どんどんノッて、楽しんで』といった風に、
両手を大きく広げて悠仁さまにコミカルなジェスチャーを送っていた光景が、ほほ笑ましかった。
あたたかな雰囲気で高校生活を送っているのだなと感じました」
と目を細めるのは、居合わせた来場者。
両日ともピザの模擬店が売り切れになったあとは、テント下や木陰で食べ物をつまみながら、
リラックスした様子でお友だちと談笑していたという。
2日目の閉場後に人気投票の結果が発表された「桐陰グランプリ」。
悠仁さまたちのクラスのピザ店は残念ながら受賞を逃したようだが、貴重な青春のひとコマとなったに違いない。
(AERA dot.編集部)
https://dot.asahi.com/articles/-/233436

2024/9/10
【独占】悠仁さまが校内で見せた「友だち思いの優しい素顔」
筑波大学附属高校の文化祭で“ピザ作り”に挑戦
9月7日から2日間、秋篠宮家の長男・悠仁さまが通われている筑波大学附属高校(以下、筑附)で、
年に一回行われる文化祭『桐陰祭』が開催された。
「今年の『桐陰祭』のテーマは“おもちゃトピア”でした。
おもちゃの世界に入り込むという非日常の空間をイメージして、
生徒たちが各クラスごとに企画を考えて展開していたそうです。
悠仁さまが筑府に入学された'22年はコロナ禍のため、生徒の保護者や、
同校への受験を考える中学生のみが参加できるようになっていたのですが、
昨年から制限がなくなり、近隣住民や他校の生徒など、多くの人が訪れていました」(近隣住民)

悠仁さま、ピザを作る
昨年の悠仁さまは、とあるクラスの企画でカジノを楽しまれる様子が目撃されていた。
「ダミーのコインを使って、ダーツやルーレット、ポーカーなどの
カジノゲームを疑似体験できるクラスに足を運ばれていました。
実際に私も体験したのですが、演出や説明がかなり凝っていて、学生の文化祭とは思えないクオリティでした。
悠仁さまは中でもポーカーが特にお気に入りだったようです。友達と悔しがったり笑いあったりしていました。
メディアでは見ることができない悠仁さまの素顔が見られました」(筑府OB)
今年、成年を迎えられた悠仁さまは現在3年生。初日の午前中から高校最後の文化祭を満喫されていた。
「悠仁さまのクラスでは『ピッツァスモールワールド』という企画で、
手作りの窯でマルゲリータやジェノベーゼのピザを作っていました。
悠仁さまはシフト外の休憩時間中、他クラスの焼きそばやチュロスを購入していたのですが、
列に並んでいる間、ご友人と楽しそうにお話しされていましたよ」(同校保護者、以下同)
初日には、ご両親である秋篠宮ご夫妻も訪れ、悠仁さまのクラスに訪れたのだが――。
「ご夫妻がいらっしゃったとき、悠仁さまはシフトに入っておらず、ご不在だったようです。
おふたりは、屋台の前に置かれた顔抜きの看板にお顔をはめ、
記念撮影をされるなど、文化祭を楽しまれていました。
直接会えなかった悠仁さまに顔抜き看板で撮られた写真を送ったのかもしれませんね」(同校保護者)
2日目も午前中から文化祭をエンジョイされた。
「悠仁さまは自分のクラスのテント裏で友達と談笑されていることが多かったそうですが、
近くのステージ上で行われていた生徒同士のラップバトルやダンスなども見ていて、
楽しそうにリズムを取るような仕草も見られました。
悠仁さまのクラスはピザを手作りし、それを販売する屋台だったので、
ピザの生地に見立てたようなものをくるくると回しながら、
お友達と楽しそうに過ごされていました。とても仲が良さそうな印象でしたよ」(他校の女子生徒)

ワッフルを食べライブ鑑賞も
普段は見られない、高校生らしい悠仁さまの姿も垣間見えたという。
「自分のクラスのピザを他クラスの友達のために並んで購入され、手渡しに行く姿も見られました。
別の友達にも渡しに行こうとしていたらしく“○○(友達名)にもあげなきゃ”と話されているなど、
友達思いの一面が見られました」(別の筑府OB)
悠仁さまのクラスのピザはお昼過ぎごろには売り切れに。
「せっかくなら、と悠仁さまのクラスで買おうと思っていたのですが、売り切れで……。
悠仁さまは売り切れ後は自由行動だったそうで、男子生徒ともにワッフルを食べられたり、
軽音団体のライブを見に行ったりしていました。
ライブ中は手拍子をされるなど、終始楽しそうにされていましたよ」(他校の男子生徒)
文化祭前日の9月6日に成年を迎えられ《学校行事を含め、残り少ない高校生活を大切にしたい》
と、話された悠仁さま。高校生活最後の文化祭はかけがえのないものとなったことだろう。
https://www.jprime.jp/articles/-/33467

【紀子さま58歳】休日はコミュ力高めの「ママ友トーク」に、
悠仁さまとスマホで記念写真をパシャリ!秋篠宮さまの「パパ友トーク」は?
2024/09/11/ 11:00
秋篠宮妃の紀子さまが9月11日に58歳の誕生日を迎えた。
皇嗣家の妃として多忙な公務に加え、2女1男の母として子育てにも勤しんできた。
9月7日には、悠仁さまが高校生活最後の文化祭となる、
筑波大付属高校の「桐陰祭」に秋篠宮さまと訪れた。
そこには、同級生の保護者との「ママ友トーク」に笑顔をみせ、
照れくさそうな表情を見せる18歳の息子と一緒にスマホで文化祭の記念撮影をする、
「母親」として休日を過ごす紀子さまの姿があった。
天気に恵まれた「桐陰祭」初日の午後。涼しそうな青緑系のチェック柄の半袖シャツを着た秋篠宮さまと、
薄いピンクのストライプのトップスに白いパンツを合わせた紀子さまが、
来場者や生徒らで混みあう校舎の廊下を歩いていた。
3年生の悠仁さまのクラスは、ピザの模擬店を出店。
校舎内の調理室でピザの準備に勤しんでいる悠仁さまを探していたようだが、
息子を見つけることはなくおふたりは校舎の外へ。
秋篠宮さまと別れた紀子さまは、帽子をかぶりながら悠仁さまら3年生のクラスが
食べ物を出店している中庭のスペースに歩いて行く。

「ママ友」の姿を見つけて小さく歓声をあげる紀子さま
ふと同級生の母親らしき女性を見つけると、お互いに小さく歓声をあげて小走りに歩み寄り、
日差しを避けて木陰でにこやかな表情で「ママ友」と談笑タイムに入った。
3年生は、焼き鳥やたこ焼き、ピザ、チュロスやかき氷、ワッフルなどを自分たちで調理し、
前庭に設けたテントや教室内の模擬店で販売している。
自分の子どもの模擬店のそばで様子を見守ったり、
子どもの休憩時間に声をかけたりする両親や祖父母も少なくない。模擬店の食べ物を購入して舌鼓を打ち、
「あら、美味しいじゃない」と子どもたちの成長を喜ぶ光景も見られた。
悠仁さまのクラスによる模擬店「ピッツァスモールワールド」は、前庭に設置したテント内にある。
紀子さまも生徒に笑顔で声をかけ、ピザを購入する光景が見られた。
「紀子さまは、7、8名の母親や父親らが談笑する輪に入り、
長い時間、楽しそうにお話をしていらっしゃいました。新しい家族が姿を見せると、
お互いに嬉しそうに小さく手をふってあいさつなさるなど、皆さんと仲良しムード。
コミュ力の高さにすこし驚きました」(来場者)
他の生徒の保護者と同じように、紀子さまも模擬店のそばにいた担任らしき教員と長く話し込む場面もあり、
息子を見守るごく普通の「母」としての姿がそこにはあった。
来場者によると、こんなほのぼのした場面もあった。

照れくさそうな悠仁さまとパチリ
教員が木陰で休憩している悠仁さまの肩をポン、と叩き、ふたりは紀子さまが立っている後方に視線を向けた。
どうやら、「お母さまと記念撮影をしてきたらどうか」、といったふうに促している様子。
ちょうど車のかげに隠れる位置。先生に促された悠仁さまは照れくさいのか、
すこしだけ気だるそうに立ち上がって歩くと、紀子さまの隣に並んだ。
先生は、紀子さまのスマホで手早くパチリ、とシャッターを押していたという。
ちなみに、秋篠宮さまが「パパ友」とのトークを展開するといった目撃談は
残念ながら聞こえてこなかった。秋篠宮さまが学校の応接室に滞在する場面もあったものの、
おおむねご夫妻は別行動のご様子だった。
2女1男の母として子どもを育て、皇族としての公務に加え、自身の研究も続けてきた紀子さま。
末子の悠仁さまは、9月6日に18歳の成年を迎えたものの、来春には大学に進学すると見られており、
紀子さまの「母親業」はまだまだ続きそうだ。
(AERA dot.編集部)
https://dot.asahi.com/articles/-/233581

紀子さま58歳に つらいときこそ「オールウェイズ・スマイル」、つらぬきとおす父の教え
2024/09/11/ 11:00
秋篠宮妃紀子さまは11日、58歳の誕生日を迎えられた。
婚約会見で見せた初々しい「紀子さまスマイル」から30年以上たったいまでも、
その笑顔が変わらないのは、紀子さまの父の教えにあるという。

“オールウェイズ・スマイル”(いつでも笑顔で)
学生時代、紀子さまが手紙をしたためたときに文末に書き添える言葉が、
“オールウェイズ・スマイルだったという。この言葉は、紀子さまの父である川嶋辰彦さんから受け継いだものだ。
ご婚約に際し、紀子さまのご両親が記者会見されたときのこと。
川嶋辰彦さんは「いろいろな国で過ごしましたが、
娘は“オールウェイズ・スマイル”でのびのび育ててまいりました」と、笑顔で答えられた。
経済学者でのちに学習院大学の教授になった辰彦さんは、ペンシルベニア大学大学院に留学したことから、
紀子さまは6歳までアメリカ合衆国ペンシルベニア州で過ごされた。また、小学生時代は2年間オーストリアに。
川嶋家の子育ての指針だったといえる“オールウェイズ・スマイル”を、
紀子さまは結婚されて皇室に入られて34年間、58歳になったいまも守り続けられている。

初々しい笑顔は「紀子さまスマイル」と
“オールウェイズ・スマイル”は、婚約の記者会見でも。
1989年9月12日に開かれた皇室会議で礼宮さま(当時)との結婚が正式に決定したあと行われた記者会見では、
礼宮さまと時折見つめ合いながら、微笑みを絶やさなかった。
その初々しい笑顔は、ご結婚後、「紀子さまスマイル」といわれブームに。
そのころから58歳になられたいままで、紀子さまが“オールウェイズ・スマイル”でいられる理由を、
「紀子さまご自身、相当意識なさっているのでは」と話すのは、マナーコンサルタントの西出ひろ子氏だ。
大手企業のマナーコンサルティングやNHK大河ドラマ、映画などのマナー指導も務め、
マナーの研修や講演、テレビ番組などでは自身の体験から「笑顔」の大切さも指導している。
西出氏は紀子さまの笑顔をこう分析する。
「同年代の私もそうですが、還暦まであと数年という年齢まで歳を重ねてくると、
一般的に子どものこと、親のこと、パートナーとのこと、そして、自分自身の体調のことなど、
さまざまな悩みがあるものです。それでも、人前に出るときにはいつでも笑顔でいられるというのは、
相当、意識を高く保っていないとできないものです」
長女・小室眞子さんの結婚に始まり、秋篠宮邸改修工事によって始まった次女・佳子さまの“一人暮らし”、
長男・悠仁さまの進学問題など、ここ何年か、紀子さまを取り巻く状況は、
“オールウェイズ・スマイル”でいるには難しいだろうところもある。
だが、そういうときこそ、“オールウェイズ・スマイル”なのだと西出氏はいう。
「本来の笑顔は、心が微笑んでいるからそれが顔の表情に表れるものではありますが、
一方でつらい時だからこそ、かえって人前に出るときには笑顔でいるようにしよう、
と思う方もいらっしゃいます。自分の心が荒んでいたとしても、それは相手には関係のないこと。
ここに『相手の立場に立つ』というマナーの本質、『相手ファースト』の心、精神があります。
相手が受ける顔の表情である視覚的印象からくる影響は大きいので、相手を心配させないようにしよう、
不快に思わせないようにしようと、笑顔でい続けようとする意識を持ち、
それを実践しようとするお気持ちは素晴らしいことと存じます。
紀子さまはご自身のお立場を考え、紀子さまとして精一杯の微笑みを表現なさっていらっしゃると感じます」
悠仁さまも18歳の成人となり、あとは大学進学で子育てもひと段落となる紀子さま。
肩の荷をひとつひとつおろし、これからも“オールウェイズ・スマイル”でいてほしい。
(AERA dot.編集部・太田裕子)
https://dot.asahi.com/articles/-/233599

三笠宮家・信子さま 別居宅を13億円改修…陰に娘・彬子さまとの修復不能な「20年断絶」
記事投稿日:2024/09/12 06:00 最終更新日:2024/09/12 11:09
「8月30日、宮内庁が来年度の予算の概算要求を発表し、皇室行事で着用される愛子さまのティアラ、
ネックレスを新調する予算は計上されませんでした。
天皇陛下と雅子さま、そして愛子さまは、物価高のために多くの国民が苦しんでいることを憂慮されており、
ティアラ新調を見送ることを決められたのです。
そのいっぽうで、三笠宮家の信子さまのお住まいの改修工事に、
2年間で約13億円も費やされることが明らかになり、宮内庁内でも驚きの声が上がっています」
そう語るのは皇室担当記者。
信子さまは、夫・寬仁親王が薨去する前から、旧宮内庁長官公邸で生活されているのだ。 
宮内庁関係者はこう話す。
「’04年春に信子さまは更年期障害や胃潰瘍と診断され、
同年7月から軽井沢の実姉の別荘で、療養生活を送られました。
2年後に寬仁親王邸に戻られた後も入退院を繰り返され、
結局’09年秋から旧宮内庁長官公邸で生活されることになったのです。
“寬仁親王邸にお戻りになると、ストレス性ぜんそくが再発される恐れがある”という
医師の見解も発表されましたが、夫婦仲の悪化による別居にほかなりませんでした」
今回明らかになったのは、信子さまが旧宮内庁長官公邸だけではなく、
隣接する旧侍従長公邸まで使用されていたことだ。
「“事務棟”として使用されているとのことですが、ほとんどの宮内庁職員もその事実は知らなかったのです。
2つの建物の間に渡り廊下を造ったり、段差を解消したり、
エレベーターを設置するなどバリアフリー化を進めるそうです。
信子さまは寬仁さまが薨去した後も、宮邸にはお戻りになりませんでした。
それは彬子さまと瑶子さま、二人のお嬢さまとの間に深刻な確執が生じていたからです。
しかし皇族とはいえ、“母娘が不仲で一緒に住めないから、
別居宅の改修に13億円の税金を投入する”という事態に、理解を示す国民がどれほどいるでしょうか。
雅子さまも宮家の状況に深く悩まれていると伺っています」(前出・宮内庁関係者)
■アルコール依存症が原因で夫婦関係が悪化
莫大な改修費を生むにいたった三笠宮家内の愛憎劇。その歴史は20年以上に及ぶ。
“ヒゲの殿下”と呼ばれ、国民からも人気があった寬仁さまが、
麻生太郎元首相の妹・信子さまと結婚されたのは’80年のこと。
彬子さまと瑶子さまという二人のお子さまにも恵まれ、幸せな家庭を築かれたのだが、
’91年に寬仁さまが食道がんに……。
食事を6回に分けて召し上がらなければならなくなったが、信子さまは献身的に食事作りに励まれたという。
当時、信子さまは本誌「シリーズ人間」に登場され、看病の日々について、次のように語られていた。
《宮さまが“うまい”とおっしゃってくださるひと言がいちばん嬉しゅうございました》
だが何度もがんを発症されるなか、寬仁さまの酒量は増え続け、夫婦の距離はどんどん開いていった。
関係悪化の原因についてはさまざまな証言があるが、
寬仁さまと長年の親交があった男性は、本誌の取材にこう語っていた。
「お二人の関係が、こじれてしまったのはアルコール依存症の治療が原因だったのです。
その当時は、まだ病名を公表していませんでした。
信子さまは、がんの検査だと寬仁さまに偽って、入院していただいたようですが、
実際は依存症治療のための入院であることを知った寬仁さまが激怒されたのです」
夫婦ゲンカが絶えなくなり、信子さまは’04年から別居生活を始められたが、
このご決断は、彬子さま、瑶子さまとの亀裂を生じさせることになった。
彬子さまはのちに『文藝春秋』(’15年7月号)に掲載された手記で、母と絶縁関係にあることを明かされた。
《最近ある雑誌にも書かれていたけれど、寬仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。
その要因であったのが、長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。
母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、
その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上きちんと母と話をすることができていない》
“十年以上”とは、信子さまが軽井沢でのご療養を始められた時期と一致する。前出の宮内庁関係者によれば、
「’22年に彬子さま監修の寬仁さまの遺稿集『ひげの殿下日記』(小学館)が
出版されたことからも明らかなように、お嬢さま方は心の底から寬仁さまを敬愛されています。
お二方からすれば、“病気のお父さまを置いて、家を出てしまうなんて許せない”
というお気持ちになったのでしょう。
寬仁さまは’12年6月6日、千代田区の杏雲堂病院で薨去。
危篤状態の寬仁さまに会うため、信子さまは何日もタクシーで病院に通われたのですが、
“ご家族の意向”により、ご夫婦の対面は最後までかないませんでした。
ご葬儀も喪主は彬子さまが務められ、信子さまは参列されていません。
結果的に看取ることも、葬儀への参列もできなかった信子さまは、
三笠宮家への態度をより硬化されていったのです」
別居から20年、寬仁さまの薨去から12年……、
母娘の確執は“もはや修復は不可能”とささやかれるほどになっている。
「“寬仁親王家の消滅”もさらに確執を深める原因となってしまいました。
寬仁さまのご両親である三笠宮崇仁さまと百合子さまの後押しもあり、
彬子さまが親王家の当主の座に就かれることになったのですが、
信子さまが絶対に認めようとされず、実現しなかったのです。
彬子さまにとってお父さまのお名前を冠した宮家が、
“母の反対により”消滅してしまったことは痛恨だったことでしょう
。また’13年に信子さまが公務に復帰された際、
“姑”の百合子さまは対話を求める手紙やファクスを送ったそうですが、
信子さまは応じようとしなかったのです」(前出・宮内庁関係者)
■注視されている信子さまの意思表明
信子さまと彬子さま、両サイドの主張はメディアも巻き込んで真っ向から対立している。
’15年、『週刊文春』が“信子さまの現状を知る人物”のこんな証言を報じた。
《(問題の)すべては寬仁殿下のドメスティック・バイオレンス(DV)に端を発しているのです》
この報道直後に、彬子さまは『週刊新潮』の単独取材に応じるという異例の対応を取り、
DV疑惑を次のように完全否定されたのだ。
「私が見ていた限り、父が母に対して手を上げたことは一度もありませんでした」
国民から敬愛を集める皇室で繰り広げられてきた、夫妻、母娘、そして嫁姑の確執……。
「天皇皇后両陛下も、心を痛め続けてこられました。
ただ皇室では、他家の内情に口出しをしないことが不文律になっており、ご仲介もできなかったのです。
彬子さまは留学記『赤と青のガウン』(PHP研究所)がベストセラーになり、
9月16日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)にも出演される予定で、
いまや“皇室のスポークスマン”とも言うべき存在になっています。
いっぽう信子さまは、何かにつけて両陛下のもとにご相談に行かれているそうです。
女性皇族のリーダーである雅子さまとしても、どちらかに肩入れすることもできず、苦悩されているのです。
また、いまのお住まいを大規模改修するということは、信子さまにとって“もう婚家の三笠宮邸はもとより、
自宅だった寬仁親王邸(現・三笠宮東邸)にも戻るつもりはない”という意思表明にほかなりません。
このことが母娘バトルの鎮静化を意味するのか、
さらなる激化を暗示しているのか、関係者は注視しています」(前出・宮内庁関係者)
’92年の「シリーズ人間」インタビューでは、
「厨房は子どもたちとのコミュニケーションの場でもあります」と、語られていた信子さま。
母娘が在りし日のキッチンでの語らいを思い出されることはあるのか。
https://jisin.jp/koushitsu/2370337/

三笠宮家・彬子さま 『徹子の部屋』ご出演も触れられなかった「絶縁母・信子さまとの関係」
記事投稿日:2024/09/16 16:15 最終更新日:2024/09/16 16:15
「親子2代で(番組に)出させていただいて、本当にありがたいな、と思っております」
そう語ったのは、寬仁親王の長女・彬子さま(43)。
9月16日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)にゲスト出演されたのだ。
「皇族のテレビ番組ご出演は、非常に珍しいことです。
しかし、お父様の寬仁さまは、いわば“皇室のスポークマン”といったお立場として
多くのメディアに登場されていましたので、彬子さまもそのご意志を継がれているのでしょう」
(皇室担当記者)
寬仁さまは96年に『徹子の部屋』にも出演されていた。
「9月16日の回でも、ありし日の寬仁さまのお姿が放送されました。
スタジオに寬仁さまが小学生のころの彬子さまの作文を持参され、
黒柳徹子さん(91)がその作文を朗読するVTRが流れた後、
彬子さまは涙ぐまれていたのです」(前出・皇室担当記者)
彬子さまといえば、留学記『赤と青のガウン』(PHP研究所)がベストセラーになっている。
「留学記の執筆に関しても、もともとはお父様のおすすめで、『文章がかたすぎる』
『親しい友人は名前を出せ』などといったアドバイスもしていただいたそうです」(前出・皇室担当記者)
敬愛し続けている寬仁さまとの思い出や総裁を務められている『心游舎』のご活動、
京都でのご生活ぶり、英国でのご留学生活など、話題は多岐にわたったが――。
「放送された番組中で、彬子さまは、お母様・信子さまのお話しは一切されませんでした」
(前出・皇室担当記者)
彬子さまと信子さまは、寬仁さまご存命中から絶縁関係にあるという。
『文藝春秋』(15年7月号)に掲載された手記で、彬子さまは次のようにつづられていた。
《最近ある雑誌にも書かれていたけれど、寬仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。
その要因であったのが、長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。
母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、
その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上きちんと母と話をすることができていない》
夫・寬仁さまや2人の娘、彬子さまと瑶子さまとの関係悪化により、
信子さまはいまも旧宮内庁長官公邸にお住まいだが、25年度から2年かけての改修工事が予定されている。
「信子さまのお一人暮らしは、表向きは“ご療養のため”とされています。
旧宮内庁長官公邸と隣接する旧侍従長公邸との一体化、老朽化した設備の更新、
利便性の向上やバリアフリー化を進めるとのことで、約13億円が費やされます。
しかし、“母と娘が不仲でいっしょに住めないから、別居宅の改修に13億円の税金を投入する”という事態に
宮内庁内でも疑問の声が上がっています」(前出・皇室担当記者)
宮内庁内でもふれることはタブーとされているという三笠宮家内の母娘の確執。
さすがの徹子もお尋ねすることはできなかったのか――。
https://jisin.jp/koushitsu/2372122/

なぜ世間は秋篠宮家をバッシングせずにはいられないのか 
秋篠宮さまと親交の深いジャーナリストが近況をレポート
2024年09月17日
秋篠宮家の長男・悠仁さまは9月6日、18歳の成年を迎えられる。
大学進学を控え、成年式は来春以降に行われる見通しだ。長女・眞子さんの結婚では批判も受けたご一家。
その近況を、秋篠宮さまと30年以上の親交があるジャーナリストの江森敬治氏がレポートする。

「よおく、考えてみましょうね」
現在、筑波大附属高校の3年生である悠仁さまに、私はこれまで2度、会ったことがある。
場所はいずれも東京・元赤坂の秋篠宮邸だった。
最初はお茶の水女子大附属幼稚園時代。私が秋篠宮さまと応接室で話している途中、
紀子さまが悠仁さまを連れて部屋に入って来た。見慣れない顔の大人を見て照れてしまったのか、
悠仁さまは椅子やテーブルの脇をすり抜けて部屋中を駆け回り、少しもじっとしてはいられなかった。
それでも父親は、走り回る息子を目で追うだけで止めはしなかった。
目元は終始緩みっ放し、我が子を慈しむ時の表情とはこういうものかと妙に納得した。
溢れ出す元気にとうとう紀子さまも見かねてしまい、悠仁さまを抱きとめて制止し諭したのが、
冒頭の言葉である。だが悠仁さまもさるもの、母親の手をすり抜けて再び部屋の中を走り出したのだった。

2人の姉の面倒見の良さ
2度目は2015年の暮れ、悠仁さまが9歳の時だった。佳子さまの誕生日祝いの記帳をするため、
私は12月29日の午後、秋篠宮邸を訪れた。すると玄関前で小さい子の声がした。
こうした場になぜ子どもがいるのだろうと不思議に思い、近付いてよく見ると、声の主は悠仁さまだった。
その後ろには、姉の眞子さんと佳子さま。玄関前の車寄せは舗装されており、
3人でローラースケートを楽しんでいたのだ。サイクリングで用いるような頑丈なヘルメットを被り、
キャッキャッと大きな声で姉たちと戯れる姿は、まさしく普通の小学生の男の子であった。
と同時に、当時24歳と21歳だった二人の姉の、一回り以上年の離れた弟への面倒見の良さにも感心した。
偶然とはいえ私は、三きょうだいの「関係性」を目の当たりにすることができたのである。
「令和」の代替わりから間もない19年8月、秋篠宮さまと紀子さまは悠仁さまを連れ、
私的旅行でブータンを訪れた。その年の11月、54歳の誕生日を迎える前の記者会見で秋篠宮さまは、
長男の教育方針などについて次のように語っていた。
〈日本の国内、いろいろな場所を訪ねてほしいと思っています。
これは、日本も地域地域でやっぱりそれぞれの興味深い文化があります。
それから、その文化の背景になる自然環境もあります。そういうものを知っておくということは、
将来的にも非常に有意義なことだと思います〉

「東大ありき」ではない?
その悠仁さまの進路が目下、大いに注目を集めている。
現在、東大をはじめいくつかの大学名が取り沙汰されているのだが、
前述した秋篠宮さまの“願望”も踏まえて察するに、私は「最初から東大ありき」ではないような気がしている。
実際に秋篠宮ご夫妻と親しい人物に尋ねたところ、
「国内を見渡しただけでも、特色のある素晴らしい大学がたくさんあります。
あるいは、海外の大学にまで視野を広げて進路を選択されるのではないでしょうか」
と、私の見立てを補ってくれた。
また今年3月、宮内庁皇嗣職は悠仁さまの進路などに関し、以下のように発表している。
〈ご自身が非常に関心をおもちのものの一つが自然誌で、
昆虫などやそれらの生息環境の観察や調査をされたり、書物を調べられたり、
専門家の話をきかれたりしながら、フィールドワークを行ってこられました。
(略)ご自身が探求されたいことを更に学び、幅広い視野を身に付けることを目指し、
ご関心のある分野を学ぶことができる大学への入学を目標に、
熱心に勉学に励まれているようにお見受けいたします〉

“良き相談相手”
とはいえ、キーワードである「自然誌」は漠然としていて捉えどころがない。
ある自然科学系の研究者によれば、
「私はむしろ『幅広い視野を身に付けることを目指し』という箇所に着目しています。
大学では専門分野にとらわれず、幅広く教養、学問を身に付けよう、
そしてご両親も身に付けさせようとなさっているはずです」
昨年の11月27日、58歳の誕生日を前にした記者会見で、秋篠宮さまはこうも述べていた。
〈本人が何をしたいかということがやはり1番大事なのだと思います。
そういうことができるような場所に行ってくれたらいいのではないか〉
もちろん、最終的には悠仁さま本人が学びたい大学を決めることになる。
しかしその前に、学問の大先輩でもある秋篠宮さまという“良き相談相手”の意見を聴く機会があるはずで、
その考えは十分、尊重されるだろう。

3年連続で出席
ところで同じ会見で、佳子さまの活動について尋ねられた秋篠宮さまは、次のように話していた。
〈いろいろなところから声を掛けていただいているわけですし、
それぞれの、主催している人たちにとっては大変大事な催しが多いわけですね。
ですので、引き続き一つ一つ、声を掛けていただいた仕事に対して
真摯に取り組んでいってもらいたいと思っております〉
佳子さまは7月25日には静岡県御殿場市で開かれた「全日本高校馬術競技大会」開会式に出席、
県立静岡がんセンターも訪問し、子供のがん患者たちと交流。
また8月10日からキャンプ生活を通して障碍者への理解を深める
「日本アグーナリー」参加のため福島県を訪問した。
むろん佳子さまに限らず、ご一家は現在、目の前にある仕事と真摯に向き合っている。
猛暑の最中の7月31日、秋篠宮ご夫妻と悠仁さまは、岐阜市で開かれた全国高等学校総合文化祭
(総文祭)総合開会式に出席した。“文化部のインターハイ”と呼ばれるこの催しに悠仁さまは、
高校1年生の時から3年連続で出席している。

研究者たちと交流
8月25日には、京都市左京区の国立京都国際会館で行われた「国際昆虫学会議」の開会式に
秋篠宮ご夫妻が出席。悠仁さまは、皇居のトンボの生態についてこの国際会議で
ポスター発表を行う研究グループに参加しており、主催者側からの招待を受けて私的に来場した。
開会式後にご一家は、国内外の昆虫学者らから研究内容について説明を受けるなど、
研究者たちと交流を深めた。
宮中祭祀でいえば7月24日、「後宇多天皇七百年式年祭の儀」が宮中三殿の皇霊殿で営まれ、
伝統的な装束姿の天皇陛下と秋篠宮さま、そして紀子さまが拝礼。
明治天皇の命日にあたる7月30日には、同じく皇霊殿で「明治天皇例祭の儀」が行われ、
陛下と秋篠宮ご夫妻が拝礼している。

“逆風”でも慌しく
このように充実した状況にあっても、
「早く“逆風”が止んでほしいですね」
宮内庁関係者は、苦しい胸中を私にこう吐露する。
ネットなどでは相変わらず、秋篠宮ご一家に対するバッシングとも言うべき、厳しい批判の声が見受けられる。
それでも、前述のように慌ただしく活動をこなす日々が続いており、
ご一家の動静に詳しい知人によれば、この夏も、
「特段、お変わりはございません。両殿下のお気持ちを拝察すれば
『一部の人たちによる批判などに関わっている時間はない』といったところでしょうか」
一時は体調不良が伝えられた紀子さまも、自身の体を気遣いながら公的な仕事や祭祀など、
熱心に取り組んでいるといい、
「『この暑さの中、そんなに忙し過ぎて大丈夫ですか?』と、
周囲が心配するほどの頑張りようだと聞いています」
この知人はそう続けるのだが……。
「ご両親が結果的に“あの結婚”を止められなかったことへの世間の不満は、少なからず残っています。
それまでは順調に歩んで来られたご一家だっただけに、国民の失望も大きかったように感じられます」
別の宮内庁関係者がそう指摘する通り、小室眞子さんの結婚騒動が、
秋篠宮家批判の主因であるとの見方は、私の周囲でも根強くある。
結婚後に日本を離れた眞子さん夫妻は、現在も米国で暮らしている。
夫の圭さんは弁護士として活躍中だというものの、
「秋篠宮さまも紀子さまも、眞子さんたちのことをどの程度、把握しているのか疑問です。
特別、用事がなければ連絡を取り合っているとも思えません」

秋篠宮家批判の背景
秋篠宮ご一家の事情を知る関係者は、私にこう明かした。
一方、いずれ訪れるであろう佳子さまの結婚は、国民の関心事の一つに違いない。
最近もメディアでは「お相手」についてしばしば取り上げられているのだが、
「今のところ、結婚に向けての目立った動きはないようです」
と、宮内庁OBは耳打ちしながら言葉をつないだ。
「ご両親からすれば、眞子さんの時のような騒ぎを二度と繰り返したくはない。
従って、より慎重にならざるを得ないでしょうね」
いまだにくすぶり続ける秋篠宮家批判。その背景について、ある皇室関係者はこのように分析する。
「シーソーと同じように、秋篠宮ご一家の評判が下がったことで、
その分、天皇ご一家に対する国民の期待が増えた。
それもあって現在、皇后さまや長女の愛子さまの人気が高まっている部分もあるでしょう」
続けて、
「『適応障害』と診断され、回復の途上にある皇后さまは依然、体調に波がある状態です。
コロナ禍がようやく落ち着き、『令和皇室』もやっと本格的に動き出したばかり。
天皇、皇后両陛下の“真価”が問われるのはこれからではないでしょうか」
そう付言するのだった。

皇嗣家の重みは増すばかり
実際に両陛下が6月下旬、英国を公式訪問した日程の中で、
チャールズ国王夫妻主催の晩さん会など国賓としての行事には揃って出席したものの、
ロンドン郊外のウィンザー城にあるエリザベス女王とフィリップ殿下の墓には天皇陛下が一人で供花。
また、テムズ川の可動式高潮対策施設「テムズバリア」や、世界的に有名なキュー王立植物園の視察も陛下のみ。
ロンドン市内のホテルでは「日本協会」(ジャパンソサエティー)など
日英友好5団体が主催するレセプションが催されたのだが、ここにも皇后さまの姿はなかった。
この英国訪問には、長年にわたり献身的に皇后さまの治療を続けている主治医も同行している。
先ほど触れた7月の「後宇多天皇七百年式年祭の儀」「明治天皇例祭の儀」に関しては、
皇后さまはいずれも欠席している。海外親善だけでなく宮中祭祀への取り組み方も
今後の課題とされる中で、両陛下、すなわち「令和皇室」を支える皇嗣家の重みはいっそう増すばかりだ。
となれば、あらためて国民と向き合い、関係を構築するための「工夫」が不可欠である。

求められる「正確な情報」
昨年11月27日の記者会見で秋篠宮さまは、宮邸の改修工事が完了しながらも
佳子さまが分室(旧「御仮寓所」)で生活することになった経緯や、
当初の計画からの変更点を公表しなかった理由について、記者会から尋ねられた。こ
の件は昨年、宮内庁の説明不足など対応のまずさもあって世間の反発を招いていたものだ。
質問を受け秋篠宮さまは、
〈こういうことを公表するという段階で、(略)私自身がそのことについて、
かなりぐずぐずしていたということがあります。
つまり引き延ばしてしまい、非常にタイミングとして遅くなったなというのが反省点です〉
異例ともいえる率直な物言いで返答し、さらに続けて、
〈(情報などを)タイムリーに出すという必要があったなと思っています〉
本来であれば役所が答弁すべきフレーズを、自ら口にしたのだった。
こうした経緯もあり、秋篠宮さま自身はもとより、今後は宮内庁や皇嗣職もまた、
ご一家に関連する正確な情報を、よりタイムリーに発信していかざるを得ないだろう。
ひいては、それが秋篠宮家と国民との結びつきをより強めることに繋がるからである。

秋篠宮さまの成年式
さかのぼること39年、1985年11月30日、秋篠宮さま(当時は礼宮文仁親王)は20歳の誕生日を迎え、
皇居で荘厳な成年式が行われた。当時の報道によればこの日、
秋篠宮さまは皇居・宮殿「春秋の間」で「加冠の儀」に臨んだ。
裾の長さが6メートルを超える未成年者用の伝統的な装束「闕腋袍(けってきのほう)」を着て、
頭には黒絹の額当て、手には笏(しゃく)を持っていた。
秋篠宮さまの頭から侍従次長が額当てを外し、成年用の燕尾纓(えんびのえい)が付いた冠を被せた。
続いて東宮侍従が、冠の掛緒(かけお)を顎で結び、緒の両端をはさみで切り落とした。
成年用の伝統装束を身にまとった秋篠宮さまはこの後、二頭立ての儀装馬車に乗って宮中三殿へと赴き、参拝。
その後、正殿「松の間」では「朝見の儀」が行われた。昭和天皇の前で、燕尾服に着替えた秋篠宮さまが、
〈成年皇族としてのつとめを自覚し、勉学にいそしみ、ご恩にお報い申し上げたく存じます〉
そう述べると、
〈ますます身を鍛え心をみがき、皇族の本分を尽くすことを希望します〉
昭和天皇はこのように励ました。来年に執り行われる悠仁さまの成年式もまた、
これを踏襲して厳粛かつ華やかなものになるだろう。
遠からず想定される佳子さまの結婚とあわせ、ご一家からは目が離せない。

江森敬冶(えもりけいじ)
ジャーナリスト。1956年生まれ。80年、毎日新聞社に入社。
社会部宮内庁担当記者や編集委員などを経てジャーナリストに。著書に『秋篠宮』など。
週刊新潮 2024年9月12日号掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/09170555/