怒りを希望に変える“政党”に、なぜ違和感を覚えるのか?
──それは、誰かの計画だったのかもしれない
あなたは、次の選挙で、どこに投票するつもりだろうか。
「もう自民党は終わりだ」と、そんな声が聞こえる。
そして──
「参政党こそが、怒りを代弁してくれる」
「国民民主が現実的な突破口だ」
そんな“次なる希望”に、なぜか拭えない違和感がある。
怒りを希望に変える舞台裏
人々の怒りが沸点を超えたとき──
支配者は“ガス抜き装置”をセットする。
「新しい選択肢」をあらかじめ準備しておく。
表向きは“民意の逆転”に見える。
だがその裏では、
最初から次の与党が、**支配者によって“選ばれている”**可能性がある。
今、その“受け皿”として浮上しているのが──
国民民主と参政党だ。
参政党に仕掛けられた“感情演出”
自民党と維新が“管理政党”として支配を担ってきた一方で、
参政党は「怒り」や「希望」など情動マーケティングに特化した戦略をとっている。
SNSでは「わかりやすい正義」や「日本を取り戻せ」が連呼され、
講演会では献金をベースとした草の根型動員が広がっていた。
だが、違和感が生まれるのはここからだ。
ゴレンジャーの内部離脱と神谷批判
神谷の側近女性の自殺
NHKなど主要メディアによる“参政党”の急な報道強化
なぜ“メディアに干されていた政党”が、
このタイミングで取り上げられ始めたのか?
神谷宗幣という“演出家”
神谷は、地方議員として自民・維新と深い関係を持ち、
裏方のはずだった選挙戦で、
自らが主役として国会議員になった。
演出は巧妙だった。
だが、日本古来と謳いながら、キリスト教系新興宗教(統一教会・幕屋など)との癒着が噂されている。
特に「キリストの幕屋」は、
ユダヤ・キリスト混合の“メシアニック神学”に似た構造を持ち、
支配者にとって都合のいい「宗教的舞台装置」だった可能性が高い。
「抵抗の顔をした支配」
国民民主の玉木は財務省出身、
参政党は“反グローバリズム”を謳いながらも、
メディア・資金・宗教という支配の三点セットを備えている。
今、支配者が描いている物語はこうかもしれない:
■第1幕:自民党の衰退
■第2幕:怒りの受け皿としての第三極(参政党・国民民主)
■第3幕:次なる与党として再編された“新たな支配構造”
これは、表向きは「交代劇」。
だが、裏では**“コントローラーの手がすり替わっただけ”**だとしたら──?
問い:「希望」を誰に託しているのか?
純粋な怒りや期待を、誰の物語の中に置くのか。
気づけば、私たちは“用意されたレール”の上で
あたかも「自分の意思で選んだ」と思い込んでいる。
だが、問い直してほしい。
あなたの“希望”は、
誰のシナリオの中に置かれているのか?
この世界の“当たり前”が、もし、どこかおかしいと感じたなら──「黙示録ノ回路」で、その違和感の正体を、静かに見つめなおしてみてほしい。



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