「7月5日はなぜ“信じられた”のか──SNSと“見たい現実”の構造」
7月5日──それは偶然の日付ではなかった。
「7月5日に地震が起きる」
これは予言でも、都市伝説でもない。
それは、“SNSアルゴリズム×人間の思考習慣”が作り出した、ひとつの 構造的現象だ。
なぜ、日本だけが揺れるとされたのか?
なぜ、たつき諒という漫画家の表紙が「意図的に」解釈され、拡散されたのか?
その背後にあるのは、人間の思考のクセと、「恐怖」を媒介にした感情操作の構造である。
SNSに仕込まれた「見たい現実」
SNSのアルゴリズムは、“不安”にもっともよく反応する。
それが「地震」や「未来の災厄」のような“絶対に否定できない不安”と結びついたとき──
その情報は爆発的に拡散される。
だが、忘れてはならない。
人は、「自分で選んだ現実」ではなく、「見せられた現実」に安心する。
「7月5日」は、安堵の装置だった。
本来、見るべきは:
消費税という名の「輸出還付金システム」
中小企業から二重に奪う税制構造
誰も検証しない「票の改ざんと電子投票の闇」
──だが、これらは誰も語らない。
語れば「孤独」になるからだ。
一方で、「7月5日」なら違う。
SNSのどこを見ても、その話題で埋め尽くされている。
だから人は、その“誰かの不安”の上に、自分の感情を安心して重ねる。
つまりこれは:
「恐怖」を共有することで、“つながり”を感じたいという構造的安堵
だが──誰も疑問を持たなかった。
・なぜ、急に7月5日が話題になったのか?
・なぜ、今このタイミングなのか?
・なぜ、たつき諒だけなのか?
・なぜ、日本だけなのか?
・そして──なぜ、自分はそれを信じているのか?
この、あまりに当然すぎる問いすら、多くは抱かない。
なぜなら、これはもう“トレンド”だからだ。
“イベント”だからだ。
“バズ”だからだ。
表層をなぞり続けるだけの人生
人々は、表層的な現象に飛びつき、
それが **「誰かが作ったものである」**ことすら問わない。
それどころか──
実際に地震が起きれば、「自分が被災しなかった」ことに、逆説的な幸福すら覚える。
これは、“他者の不幸”を使って、自分の鬱憤を晴らす静かな攻撃性。
そして、“作られた恐怖”に自分の感情を乗せることで、薄い安堵を断続的に繰り返す──
その結果:
人生そのものが、感情の“他人委託”になる。
そして、それが 誰かに操作されていることにも気づかない。
それは、“見たい”ではなく、“見せられた”現実
人は「見たいもの」しか見ない。
だが、その“見たい”はもはや主体的な選択ではない。
SNSという同調装置
空気を読むことを第一とする日本的集団心理
「外されないための共感ごっこ」
これらによって、個人の感性は完全に“擬態”させられている。
だから今の世界はこうなる:
どこの国でも、同じジョーダンの靴
同じiPhone
同じ音楽、同じ短尺の踊り、同じ言葉、同じ顔
「自分だけが空白」になることに耐えられない人類の姿
結論
「恐怖を使った拡散」は、“支配”の第一歩である。
気づかなければ、また別の7月5日が現れるだろう。
たとえ地震が起きなくても、「次の恐怖」が配信されるだけだ。
そして──その背後には、静かにこうささやく声がある:
「それは、神の前の揺らぎだったのか?」



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