恐怖は、なぜ“最強の演出”となるのか?
恐怖は、感情のなかでも最も“行動を誘発しやすい”。
嬉しさや楽しさ、不安では、人はそう簡単に動かない。
だが、「恐怖」だけは違う。
“老後に2000万円足りない”──たった一行の報道で、
NISA口座が爆発的に開設されたのは記憶に新しい。
それは、恐怖が行動のトリガーになりやすいという、典型的な例だ。
戦争を実際に起こすよりも、「戦争が起きるかもしれない」と思わせる方がはるかに安く、効率がいい。
支配者たちは、第二次世界大戦以降、その「コスパの良さ」に気づいてしまったのかもしれない。
地震が来るかもしれない、食糧危機が起きるかもしれない、AIが支配するかもしれない──
それらは、実際に起こらなくてもいい。
“かもしれない”という余白が、最も人を動かすのだ。
この構造の中で、恐怖はもう「現象」ではなく、「道具」となる。
支配者の演出装置としての恐怖は、社会構造の随所に埋め込まれている。
しかし──
この構造の“抜け道”も存在する。
それは、「問い」を差し込むこと。
その恐怖は、本当に自分のものだろうか?
なぜ、自分はこの“予言”に、ここまで怯えているのか?
今すぐ逃げなければならないという“焦燥感”は、誰のものだ?
こうした問いは、“感情と自己”の間に一瞬のギャップを生み出す。
そこに、震源の余白が生まれる。
人は感情を観察することで、感情と自己が異なるものであることに気づける。
だが「恐怖」は、その観察さえも麻痺させる。
まるで、自我の外装に感情が一気に張りつくように。
その“のまれそうになる瞬間”こそが、
「恐怖という幻想」の正体なのかもしれない。
この世界の“当たり前”が、もし、どこかおかしいと感じたなら──「黙示録ノ回路」で、その違和感の正体を、静かに見つめなおしてみてほしい。



コメント