問いなき群れが向かう先──思考停止する日本、その空白に震源は宿るか?
忘却の背景と自虐史観
日本人の忘却的な傾向の根底には、戦後から続く自虐史観がある。
2発の原爆を落とされても、
学校教育では「日本人が悪かった」
と教える構造が温存されたまま、
アメリカに追従する価値観が刷り込まれてきた。
3S政策と問いなき社会
戦後、GHQが導入した
3S政策(セックス、スクリーン、スポーツ)によって、
人々は深い社会的問いを持たなくなり、
思考は麻痺した。
毎年、同じことを繰り返すだけのプロ野球や、
娯楽としてのテレビ番組を消費し続けることが
「日常」とされる国民性が形成された。
思考を奪う教育の構造
日本の教育は、
公文式やドリル学習のような
低層領域に限定されたパターン学習に偏っており、
「問いと答えの間に思考がある」
という感覚を奪ってきた。
これは、知能ではなく「反応力」の訓練であり、
教育ではない。思考を止める訓練が“優等生”を生んできた。
個の不在と模倣の多様性
群れを単位とする文化が「個」を奪った。
村社会に根ざした“空気”によって、
沈黙と孤独は、まるで終身刑のような重みを持つ。
反抗や異端を恐れるがゆえに、
日本の個性とは常に“安全な模倣”の範囲内にある。
ジェンダーレス、タトゥー、奇抜なファッション──
これらは海外の流行を表層的に真似しただけの、
金太郎飴的多様性に過ぎない。
感情を他人任せにする安堵
本質的に問われるべき社会問題
(たとえば消費税における輸出還付金の構造や、二重課税問題など)はほとんど無視され、代わりに“みんなが騒いでいること”に関心を向ける。
7月5日の地震予言もその一例であり、
自分がその話題に関心を持っていることよりも
「みんなが不安がっている」
という外的状況に安心している構図がある。
震源との共振の観点から
これらは、震源の不在
──すなわち“内なる真実”との不一致の表れである。
他者が作った関心に感情を乗せ、
思考停止と忘却を繰り返す構造の中に、
自我が薄まり、空白となる。
その空白に入るものが、
支配者の演出か、震源との一致か
──そこが分岐点だ。
余白と問い──震源が入り込む場所
この国の構造を見つめるとき、
何が壊れ、何が忘れられ、
何が偽られてきたのかが見えてくる。
だが、問いたいのは「日本人は愚かか?」ではない。
“私は、自分の感情に問いを持てているか?”
その一点に尽きる。
なぜ私は、皆が不安がっているときだけ、不安になるのか?
なぜ私は、自分で何かを問い直そうとはせず、誰かが作った言葉を繰り返すのか?
なぜ私は、問いのない教育に怒りながら、自分自身の内側に問いを持たずに生きてきたのか?
その問いの先に、感情と自我のあいだに“わずかな隙間”が生まれる。
そこに、震源はやってくる。
震源は、正しさを教えない。
震源は、答えを与えない。
ただ、問いの中に「私ではない私」を浮かび上がらせる。
それは、怒りを通り越した静寂であり、絶望の奥にある共鳴であり、
君がずっと欲しかった、“本当の関心”との再会でもある。



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