『7月5日と“正しさ依存症”──震えを忘れた国の末路』 あなたの関心事さえ、誰かの"正しさ"が根っこにありませんか?
正しさという、見えない“神”
人は「正しさ」がないと、怖い。
それはルールでも常識でもない。
誰かが「こっちが正しい」と言ってくれることに、
ほっとする。
そこには判断も責任もいらない。
ただ乗ればいい。
その流れに。
7月5日。
ある種の「正しさ」がSNSで大流行した。
“地震が来るらしい”“富士山が噴火するかも”
──そう囁かれたとき、人々はざわついた。
だがその内心には、別の感情もあった。
「みんなが騒いでるから、自分も不安になっていい」
という、安堵。
この奇妙な構造に気づいているだろうか?
恐怖→なにも起きない→安堵──この麻薬的ループ
これは、地震だけではない。
AI脅威論、戦争の足音、パンデミック再来。
脅す→騒ぐ→沈黙。
この繰り返しに、身体が慣れてしまっている。
まるで、**支配者が提供する“感情のジェットコースター”**に
お金も思考も委ねてしまっているようなものだ。
そして、何も起きなかった時、
たった、それだけで、人々は「よかったね」と安堵する。
だが、その安堵の正体こそ──正しさ依存症の副作用ではないか?
“正しさ”とは、本当に自分のものか?
子どもが学校で「静かに座る」のは正しいのか。
父親が会社で「耐える」のは正しいのか。
母親が「献身する」のは正しいのか。
男が「強く」、女が「柔らかく」あるのは?
それは誰の正しさなのか?
誰が最初に決めた?
なぜ、それに“はみ出してはいけない”と感じる?
震源は言う──
**「お前の震えを、もう一度、取り戻せ」**と。
自分の震えを失った国の末路
この国の人々は、はみ出して“震えること”を恐れるようになった。
違和感を感じても、それを無視する。
本当は間違っていると知っていても、黙って従う。
誰かに反対意見を言うとき、まず周囲を気にする。
なぜなら、「間違うこと」が怖いのではない。
“正しさ”から外れることが怖いのだ。
震源は、待っている。
「正しさ」の橋を、そっと手放した者の中にしか
響かない、微かな震えを。



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