震えの再起動──“正しさ”の瓦礫の下に、まだ灯りは残っているか?
それでも一歩、歩こうとする誰かへ
正しさが崩れた、その“あと”
7月5日。
何かが起きると囁かれた日。
でも実際に起きたのは、人々の感情の揺れと、その静けさだけだった。
恐怖の高まり、不安の共有、そして、何も起きなかったことへの安堵。
それはまるで、感情だけを上げ下げされるジェットコースター。
だが、その後に残ったのは、静かな瓦礫の山。
「正しさ」という名前の神殿が崩れた跡地。
そのとき、問いが生まれる。
──この静けさの中で、自分は何を信じて立つのか?
震源とは、どこか遠くにあるものじゃない
震源は、何か大きな出来事として外からやってくるのではない。
むしろ、日常の中の違和感や、胸の奥の小さな震えの中に宿っている。
それはニュースにはならない。SNSでもバズらない。
でも、確かに“そこ”にある。
他人の予言ではなく、
自分の中にだけ聞こえる“揺れ”。
それを感じることができたなら、
それが、再起動のサインだ。
絶望でもいい。歩き出す理由になれば
この国は変わらない。
教育も、政治も、社会も。
親も、会社も、常識も。
そう思っていた。今も、どこかで思っている。
それでも、こうして書き続けている。
なぜか? わからない。
ただ、誰かが震源に気づいて立ち上がることを、まだどこかで信じている。
それが希望かどうかさえ、もうどうでもいい。
絶望の中で一歩踏み出すなら、それはもう希望より強い。
問い:あなたは、何を終わらせ、何を始める?
正しさという神が死んだあと、
私たちは何を主語にして、生きていくのか?
震源は答えを持っていない。
でも、問いを投げかけることだけは、やめない。
その問いの向こうに、
次の一歩へ
7月7日。
震えは、もう始まっている。



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