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『禅とオートバイ修理技術』 要約と解説

はじめに

 『禅とオートバイ修理技術』は、1974年に出版されました。著者パーシグが息子クリス、そしてサザーランド夫妻の3人と共に17日間の旅をした自伝的な内容です。
 かつて大学教師だったパーシグは、思索にふけるあまり狂人であると見なされ、(当時は合法だった)電気ショック療法を受けました。彼は記憶の大部分を失いながらも、教師時代に残したメモを再び読みながら、『クオリティとは何か?』という問いに立ち向かいます。
 彼はこの本の中で『シャトゥーカ』という、百年以上前の一般市民に広く普及していた講演の形式を用いて自らの思考を書きつづりました。それは科学技術や経済の急速な発展に伴なって混乱しつつあった当時のアメリカ人の心を反映したものでした。
 自由を求めて都会を離れたのに、まったく自由になれない。そうした心の問題と『クオリティ』を追求することは、やがて理性と感性を統合し、世界をありのまま受け入れ、自分のありのままに生きる禅の精神にも通じます。

 この記事では、まさにパーシグが語っているような文体で『禅とオートバイ修理技術』について書きました。12000字の長い記事ですので、何度かに分けて読んでみてください。


彼らは気にしていないのではなく

 ある夏、私は息子のクリスとオートバイでアメリカ横断の旅に出た。ジョンとシルヴィアのサザーランド夫妻も一緒だった。何日かかるかわからない。しかし私たちにとって重要なのは「時間」よりも「楽しむこと」そのものであった。
 私たちはバイクの旅を楽しんでいたが、ある日のこと、ジョンのBMW-R60が不調を訴えた。キックペダルを蹴ってもエンジンがかからない。ジョンは何度も何度もペダルを蹴り、だんだん苛立っていく。私はジョンにエンジンやチョークレバーに原因があるのではと助言するが、彼は真面目に取り合おうとしない。頑なにペダルを蹴り続けるうち、ようやくエンジンは始動した。しかし、やはり走行中もジョンのマシンは調子が悪いようだった。
 彼は自身のオートバイについて、「不良品をつかまされた」と愚痴をこぼした。
 この出来事が、私がこの本を書こうと思ったきっかけである。

 サザーランド夫妻は頭もよく、働き者だ。決してオートバイをメンテナンスする能力がない訳ではない。なのになぜ…
 そう考えているうちに、ある出来事を思い出した。私が彼らの家に訪問した時のことである。そこではキッチンの蛇口から水漏れが起こっていた。蛇口からポタポタと雫が落ち続けるのを、彼らは気にもしない様子だった。
 しかし実際は違ったのだ!彼らは気にしていないのではなく、心配していながら、それを修理することから目を背けていただけだった。
 そこで私は、ある事実に気がついた。彼らはオートバイを嫌っている訳ではない。実際、こうして何日にもわたってツーリングし続けているのだから。
 彼らが嫌っていたのは、テクノロジーそのものだった。テクノロジーが持つ冷ややかで殺伐とした”何か”-理屈っぽいもの、非人間的なもの、血の通わないもの、いわば「死の力」のようなものを嫌っているのだ。だからこそ、そうしたものに囲まれた都会から離れて長旅をすることにした。それなのにテクノロジーは、なお彼らに襲いかかる。
 実際のところ、テクノロジーから離れて自然と共に暮らしたいと言って都会から脱出する人々のほとんどは、一方でテクノロジーの脅威から逃げながらも、もう一方でそれの恩恵を受けているものだ。


物事の理解には2種類の方法がある

 考えを進めていくうちに、私は一つのことを発見した。物事の理解には2種類の方法がある。『古典的理解』と『ロマン的理解』である。
 前者は物事の構造や成り立ち、各要素の関係性を知ろうとする姿勢、そして後者は物事がもつ性質や印象を味わう姿勢である。オートバイに乗る行為はロマン的なことだが、これを作ったり修理したりするのは古典的な行為だ。サザーランド夫妻はロマン的理解の人であり、古典的理解を嫌う。
 しかしテクノロジーの脅威から逃げることはできない。むしろそこに立ち向かい、それらの奥に何があるのかを知ることこそ、この世界をよりよく生きるために必要なことであると私は考えた。

 古典的理解は世界を根本的な形式そのものであると見なすことだ。例えばオートバイに対して、その構成部品とそれらの目的は何かを考える。オートバイの部品は動力系と走行系に分かれる。その動力系をさらに分析すると、エンジンと動力伝達装置に分かれる、そこからさらに細かく分析すると…という風に、古典的理解はこのような視点で対象物を見る。
 ロマン的理解は、オートバイの印象やそこから得られる「良い生活」を見つめる。オートバイが美しいかどうか、風を浴びて気持ちよく走行すること、そのマシンでで旅することによって他者から一目置かれることなどである。 
 一見すると古典的理解が正しく、ロマン的理解は的外れであるように思える。しかし実際はそうではない。古典的理解の世界には「良い」「悪い」といった言葉が無い。ちょうどオートバイの取扱説明書にそのようなことが記されていないのと同様である。
 
 オートバイは一つのヒエラルキーを構成している。それぞれの部品は、オートバイの目的を達成するために仕事する。その構造はこの社会のヒエラルキーと奇妙に一致する。ある組織の末端で仕事する人間は、その目的が何なのか知る必要もなく毎日あくせく働いている。オートバイの1本のネジが、いったい何のために存在しているのかわからないまま、どこかしらに留められているのと同じことだ。
 サザーランド夫妻のようなロマン的理解の人には、これまでに何度か会ったことがある。オートバイのエンジンを取り外してメンテナンスした後、本体に取り付けてみるとネジが数本余ってしまうことがあった。だが再びエンジンを取り外して各部品を点検するのは面倒なので、マシンが(表面上は)問題なく走行するならそのままにしておく。
 古典的理解の世界は退屈で殺風景で、見るに堪えないのだ。だが問題を放置することは解決へと至らない。システムよりもその根本にある思想が重要である。例え無政府主義者が社会のシステムを破壊したとしても、その社会を構成する人々の思想が変わらない限りは、また似たようなシステムが現れ、やがて彼らを再び支配することになる。


現金と交換してもらえると「信じて」いるからである

 古典的理解とロマン的理解はしばしば対立する。だが本当に世界を知ろうとしたとき、最も大切なのはこれら2種類の理解を損なわずに、しかもそれらを統一するような世界の見方を得ることである。古典的なもの、例えば機械の取扱説明書にも、そこに「美」は存在する。古代ギリシャにおいて科学と芸術は別々のものではなく、同じものとして認識されていた。テクノロジーの語源は「テクネー」であり、それは単に「わざ」を示すものだった。
 経験主義に基づいてこの世界を色、形、匂い、感触や音に分類するだけでは十分ではない。それらが私たちに「良い」「悪い」のいずれをもたらすか、それが重要である。私たちは対象物の持つ機能とその目的だけを見つめているのではない。カントが、対象そのものをありのまま認識することはできないと言ったのはそういうことだろう。
 私たちの感覚器官、私たちの心の中に存在するオートバイが確かにある。今ここに見えていて、手に取れるものだけがオートバイなのではない。
 それは「私のお金」という存在に似ている。仮に私が銀行へ行って「私のお金を見せてください」と言っても、銀行員は変な顔で私を見るだろう。実際、銀行には私の棚も引き出しもなければ「私のお金」も存在しないのだ。「私のお金」などというものは、銀行が持つコンピュータの記憶装置に入っている電子データに過ぎない。しかし私はこれをただの電子データであるとは認識しない。そのお金が必要になったらいつでも同等の現金と交換してもらえると「信じて」いるからである。
 時間も同じだ。時間は目や耳で知ることも、手で触れることもできない。心がその存在を与えてくれる。


機械が私たちに心の落ち着きをもたらすなら

 旅の途中でモンタナ州に寄り、ドゥイーズ夫妻の家に泊めてもらった。ジョンとシルヴィアはその数日後に帰宅する予定だ。ロバートとジェニーのドゥイーズ夫妻もまたロマン的理解の人である。彼らは私たちの旅の話を快く聞き入ってくれた。
 ロバートはバーベキューで使用する回転肉焼き器の使用説明書を持ってきた。それに対する私の意見を聞きたいというのだ。彼はこの回転肉焼き器の組み立てに半日ほど費やしてしまったらしい。しかし実際に説明書を読んでみたところ、ごく普通の内容で、これといった落ち度も欠陥もなかった。ただ一点、図と説明文が2つのページにまたがっているところを見つけたので、私はその点を指摘した。ロバートは嬉々としてそれに同意し、説明書への不平不満を漏らした。
 しかし説明書を読んでいるうちに、彼が理解に苦しんだ理由はそれとはまた別のことであったと気づく。説明書の展開があまり円滑ではないのだ。そのことが彼を混乱させてしまった。粗悪で短い文章が連なっている。それが彼にとって醜く、気持ち悪いので、彼の理解を妨げてしまったのだ。
 要するに、欠けていたのは美的センスだったのである。

 こうした問題に対処するために必要なのは、心の落ち着きである。
 観察の対象、例えば回転肉焼き器や自転車といったもの自体は良いも悪いもない。分子は分子以外の何者でもない。私たちが機械をテストするのは、それによって満足が得られるからだ。それ以外の理由はない。
 機械が私たちに心の落ち着きをもたらすなら、それで十分である。しかし反対に、心を乱すようなことがあれば、それは異常である。機械もしくは心のいずれかを変えなければならない。機械が異常を示していながら、使用者の心が落ちつているということはあり得ない。それは自己矛盾である。もし使用者が本当に異常を気にしていなかったなら、異常そのものに気がつくこともないだろう。異常であると認めている時点で、それは気にかけている証拠である。
 さらに言うなら、もし機械が正常に動いていたとしても、使用者の心が穏やかでないこともある。それは機械のチェックが完全に済んでいないからだ。工業規格の上では、チェックの済んでいないものはいかなるものであっても「未完成」ということになる。

 ジョン、シルヴィア、そしてクリスが寝静まった後、私はドゥイーズ夫妻とこの旅について話し合った。ジェニーから「ジョンとシルヴィアが帰宅した後はどうするの?」と尋ねられ、私は「クリスと旅を続けるよ」と答えた。この旅を通して、物事の本質について、世界とは何かについて知りたい。


「はい」でも「いいえ」でもない『無』

 旅の中で私は昔のことを思い出した。私が大学教師だった頃、セーラという学生が「先生は『クオリティ』について話しているんでしょう」と言ったことがある。そこから私の思考は大きく膨らんだ。あの時私がセーラにどう答えたのかは忘れた。きっと何も言わなかったのだろう。
 私の心は『クオリティ』のことでいっぱいだった。この『クオリティ』こそが、古典的理解とロマン的理解の二つの間にあり、大いなる疑問を解き明かす鍵のように思えた。古典的理解とロマン的理解、それらを「科学と芸術」、「理論と感性」、「堅さと柔らかさ」という風に言い換えてもいい。両者を分け隔てるものは一体なんなのか?それは『クオリティ』であるような気がしてきた。

 実際、世の中には似たような2つのものが存在する。仮にAとBとしよう。そこで「AとB、どちらの方がクオリティが高いと思うか?」と質問した場合、大抵の人が同じものを指す。私は大学で、生徒に対して2つの同じ内容について書いたレポートを見せてこの実験を行ったが、やはり生徒たちは同じものを指して「こちらの方がクオリティが高い」と言った。
 『クオリティ』は確かに存在する。しかしそれにも関わらず、「ではその『クオリティ』それ自体は何を表すのか?」という問いに答えられない。学生たちに質問しても、やはり答えられなかった。なぜ?
 学生たちの成績の評価は、何に基づいているのか?人はなぜあるものに大金をかけ、別のものをゴミとして捨ててしまうのか?それは一方が優れていて、もう一方がそれより優れていないからだ。『クオリティ』は確かに存在する。実在するのに認識できない。
 それは『無』のようなものであると言ってもいいかもしれない。「はい」でも「いいえ」でもない『無』。禅の世界でいう『無心』、道教で言う『道(タオ)』と似たようなものだろうか。
 かつて、実在と認識という大きな問いに挑んだ文明人たちがいた。ソクラテス、アリストテレス、ニュートン、アインシュタインなどである。それよりはるかに無名な思想家たちもたくさんいた。
 だが西洋的な二元論でこの問題を解決できるのかどうかは疑わしい。合理性は、今日(こんにち)においてはもはや妥当なものとは考えられなくなっている。合理的思考は感情的に虚ろで、美学の観点からは無意味で、精神的にも空しいものである、そう思われ始めている。現代社会が持つ危機の深刻さを本当に認識している者はいない。合理的な構造から外れて生きることからは、真の満足を得られない。その外側には答えは無いのだ。


きっとこの道は

 サザーランド夫妻と別れて、私とクリスはさらに旅を続ける。クリスはいくつかの道や建物を覚えているようだった。私もおぼろげながら、いくつかの景色を見たことがあるような気がする。きっとこの道は、私たちが過去に通った道なのだ。
 私とクリスはある山を登ることにした。私たちは十分に睡眠をとり、翌朝バックパックに荷物を詰め、頂上を目指して山腹を歩き始めた。

 
 

先生は、”クオリティ”が何なのかご存じなのですか?

 私は大学教師だった頃、生徒たちに『思想と精神における”クオリティ”とはなにか?』という課題を出したことがある。生徒たちはブーイングの後、悩みながらもレポートを提出したが、結局誰も確信を掴むことができず、何もわからなかった。
 また、生徒のひとりがこう質問した。「先生は、”クオリティ”が何なのかご存じなのですか?」
 私はこう答えた。「わからない。”クオリティ”というものがあるとは思うが、定義できないんだ」
 私はむしろ生徒たちの力によって何かわかるかもしれないと思ったが、そういうわけにもいかなかった。

 永遠の問いがある。『クオリティとは、物体の内部にあるものか?それとも物体を観察する者の内部に存在するのか?』つまり、主体と客体いずれに『クオリティ』が宿っているのか、という問いである。
 この問いに対する答えがまさしく『クオリティ』を知るための鍵である。


山頂に辿り着いたとしても気が晴れない

 クリスと私は山の中腹でキャンプをした。「もっと上へ行ける」と言うクリスを制して、旅の続きを次の日に持ち越す。焦って頂上を目指してはいけない。
 登山にも2つの種類がある。自我にとらわれた登山と、自我を捨てた献身的な登山である。自我にとらわれた登山をする者は、踏み出す足が速すぎたり、遅すぎたりして歩調がずれていく。そしていつも体調を気にして立ち止まり、先々のことばかり気にかける。そういう者はやがて道に迷う。その心は『いま、ここ』にない。体が『いま、ここ』にありながら心だけが上へ上へと急いでいる。山頂に辿り着いたとしても気が晴れない。心はもうそこに無いからである。
 クリスもこれと同じ問題を抱えているようだ。


自分で考えろよ

 すでに述べたように、古典的・ロマン的は「堅い」「柔らかい」と置き換えることができる。「堅い」とは、型にはまった考え方だ。私は『クオリティ』をこの方法によって定義しようとしたことで、迷宮入りしそうになったのかもしれない。ついついデータや因果関係を見つけようとしてしまう。
 しかしロマン的な人間は、例えば私がかつて行動を共にしたジャズバンドの面々なんかは、『クオリティ』という言葉を感覚的なものとして使用していた。彼らは『クオリティ』が何なのかを定義しないままそれを理解し、実際に演奏の『クオリティ』を上げていった。私がバンドのメンバーたちに「クオリティとは何なのか?」と尋ねても、「自分で考えろよ」と言われるのが落ちであった。
 古典的・ロマン的、堅い・柔らかい、テクノロジー・ヒューマニズム、こんなふうに世界を2つに分ける言葉があれば、それらは逆にこの分離した世界を再び結合できるとも私は考えている。『クオリティ』を理解するとは一体どういうことなのか。それはただ単にシステムに仕えることではないし、それを打ち破ることでも、そこから逃げることでもない。システムそのものをしっかりと自分の手で捉えて、これを飼い慣らし、自分という個人のために利用することなのだ。そしてそれと同時に、自分自身を解放して真の宿命を全うすることでもある。


私の心は山頂にはない

 山の様子がおかしい。天候が荒れようとしている。とても危険な状態だ。
 私はクリスに「頂上を目指すのをやめて引き返さないか」と提案する。クリスはもちろんこれを拒否する。しかし岩肌や森の様子から、とても危険な状態になろうとしていることがわかる。
 私たちは決断を保留し、次の水飲み場へ着いてからどうするか考えることにした。

 私の心は山頂にはない。私の心はむしろ渓谷の方にある。この本は『禅とオートバイ修理技術』であって『禅と登山の技術』ではない。山頂にはオートバイはない。「禅」もほぼ無いだろう。もしあったとすれば、それはそこに「禅」を持ち込んでいるに過ぎない。


単なる実在の一部ではなく

 古典的理解から見る『クオリティ』は、いわば知覚の後にくるものであった。ジャズバンドの面々はその逆で、知覚の前にある『クオリティ』を理解していた。ロマン的理解の視点は、幼い子供や教育のない者の方がかえってこれをうまく使いこなす。私も知性が全てであるとは考えない。知性を絶対視することはない。

 そうこう考えているうちに、『クオリティ』は主体・客体のいずかに宿ってるのではなく、むしろその中間にあるのではないかという考えに至った。もしロマン的な人間たちのように、過去と未来が現在に含まれると考えてみると、現在こそが生きる目的であるということになる。しかし現在というものを過去から未来に移るあいだの瞬間に過ぎないとみなしてしまえば、それは悪い『クオリティ』となる。だからロマン的な人間は、オートバイが動いてくれさえすればその他のことは何も心配しない。これに対し、古典的な人間は、オートバイのオイル・レベルを最後にチェックしたのはいつだったか?と考える。
 私は自分の中にあった実在論を捨てて、[実在-主観-古典的/ロマン的]という構図から、[クオリティ-古典的クオリティ-主観的実在/客観的実在]、[クオリティ-ロマン的クオリティ]という構図を頭の中に描いた。『クオリティ』とは単なる実在の一部ではなく、全体だったのだ。

 つまり価値とは、構造の下にあるのではなく、構造に先立っているものだった。それゆえ、前知性的な気づきである。
 もし工場をつくりたいとか、オートバイを直したいとか、あるいは行き詰まりのない国家を建設したいというなら、主体・客体という二元論的な構造だけでは不十分である。そこに『思い入れ』も必要だ。それこそが動きを促すのだ。単なる直観でも、技術でも、才能でもない。『思い入れ』は、『クオリティ』に直接触れることで生じる。


まず第一に重要なのは

 では問題の解決に入ろう。問題とはまさにこの本を書くきっかけとなった、サザーランド夫妻との一件にちなんだものである。ロマン的な人生観と古典的な人生観を再び鑑みて、オートバイを修理するという問題を改めて考えてみる。古典的理解にロマン的理解を覆い被せるのではなく、もっと根源的にこの二つが統合されるべきだ。
 まず第一に重要なのは、心の落ち着きである。それはテクノロジーを用いた作業と切り離されたものではない。優れた仕事が心の落ち着きを生む。反対に、悪い仕事はこれを破壊する。説明書、品質管理、最終点検などは全て作業する者に心の落ち着きを与えるための手段である。心の落ち着きこそは、『クオリティ』を知覚する前提条件である。
 心の落ち着きは外的な要因とは直接関係がない。激しい戦闘の中にいる兵士にもそれは訪れうる。それは無我の状態である。いわば主体と客体が一体化した状態であるといえる。
 バイクを修理する際に行き詰まりを感じた場合は、コーヒーを一杯飲んだり、散歩に出かけるだけでいい。わざわざ遠出して釣りに行ったりする必要はない。やがて心に安らぎがやってくるのを自覚できるはずだ。この心の落ち着きという概念を作業の中心に据えれば、古典的な『クオリティ』とロマン的な『クオリティ』が融合する。それは熟練した仕事の中に見出すこともできる。
 技術的な作業とアートを別物と考えるのは誤解である。オートバイには、持ち主の精神がそのまま表われる。僧侶はひたすら座ることによって主体・客体という二元論的な世界観からその意識を外に出す。バイクの修理も同様である。うまくいけば心の落ち着きを得られ、その他全てはそれに従うことになる。
 

私の目的はもちろん

 水飲み場での休憩を経て、クリスと私は結局山頂へ向かうことにした。もしその途中で危険が訪れたらいつでも引き返せる。クリスは元気を取り戻したようだ。
 ようやく頂上が見えてきた頃、「てっぺんまで競走しようよ!」と彼が言った。私とクリスは競走し、クリスが先に頂上へ辿り着いた。「勝った!」
 私の目的はもちろん、頂上へ辿り着くことではなかった。


『覇気の罠』もまた存在する

 私は『覇気』という言葉が好きだ。覇気はこの世界の真の姿を静かに見つめ、聞き入り、感じ取ることで、自分の中に満ちていく。それはごく身近にある。オートバイの修理にも覇気が必要である。覇気は、いうなれば精神のガソリンだ。
 そしてこれを奪う『覇気の罠』もまた存在する。それは大きく2種類に分けられる。ひとつは、外的環境によって訪れる『後退』である。オートバイの説明書が間違っていたり、部品が手に入らなかったり、初めての作業のなかで手違いに気づかないまま作業を進めてしまうことなどである。そうなった場合は無理をせず、最初からやり直すことだ。何度もそうして作業とやり直しを繰り返していくうちに、勘をつかめるようになる。
 もう一方の『覇気の罠』は、作業者の内面からくる心理的なものである。もし自分自身を高く評価しているなら、その者は新たな事実を認識する能力に欠けていいる。自我(エゴ)が大きすぎると仕事が粗くなる。そのため、いつも馬鹿にされるし、間違いも多くなる。
 また、『不安』という罠もある。やってもうまくいかないという気持ちが強すぎると、臆病になる。この原因は刺激過剰である。作業者は過度に動揺し、あらゆる間違いを引き起こす。本来なら直す必要のない箇所に手を加えてしまったり、想像が飛躍して余計な心配を背負ってしまったりする。そこから起こる間違いによって自分の評価が確実に下がり、そのことでさらに多くの誤りと過小評価を生んでいく。
 これを打開する方法は、自分の不安を全て書き出して、それぞれの問題を取り扱った資料をできるかぎり読むことだ。たくさん読めば読むほど、心が落ち着いてくる。求めるべきは修理そのものではなく、あくまで心の落ち着きであることを忘れてはならない。
 そして『不安』とは対照的な罠、『退屈』がある。物事が新鮮に見えなくなり、『初心』を忘れた状態になる。そういう時は作業を中断してしまうに限る。その日は映画やテレビを見て気ままに過ごせばいい。私の場合は、睡眠をとるようにしている。
 禅とこれらの関係はどうだろう。ひたすら座る修行は、まさにこの世で最も退屈な行為に違いない。しかしこの退屈の中にこそ禅の教えがあるのだ。退屈の中に一体何があるというのか?



犬にも仏性(ぶっしょう)はあるのですか

 コンピューターは2進法によって全ての知識を記憶する。それゆえイエス・ノーのいずれかしかその世界にはない。しかし従来の二元的論理では処理されない罠もある。私たちもこの考え方に慣れきっているので、イエスかノー、1か0の他に、それと匹敵する第3の論理があることに気づかないのだ。従って、それを表す用語すらない。この本では、日本語の『無』を持ち出すことにする。
 『無』は、二元論的な分別の圏外にある。『クオリティ』と同様である。簡単にいうと、『無』は分類できない。かつて趙州(じょうしゅう)という禅僧が、ある僧から「犬にも仏性(ぶっしょう)はあるのですか」と質問された。趙州はこれに「無」と応じた。それは「ある」「ない」どちらの答えも正しくなかったためである。仏性は、イエスかノーかという二者択一の質問では捕らえることができないのだ。
 『無』は自然界に確かに存在する。コンピューターが電源を切った時、電圧は1を指しているか、それとも0を指しているか?回路は『無』の状態にある。


だが本来のアレテーは

 クリスと私は下山しはじめた。帰り道はより短く感じる。この山を降り終えたら私たちは再びオートバイに乗ることになる。クリスはこの登山から何かを掴んでくれただろうか。

 神話からの脱却を目的とした古代ギリシャ人たちは、いわば論理の父として数々の功績を残した。しかしながら、プラトンもアリストテレスも、結果的に新しい神話を作っただけだった。彼らは証拠不十分な理屈をあたかも真実であるかのように、その巧みな話術を持って言い聞かせた。しかしそこに真理はない。
 プラトン以前には『アレテー』とは、単に『良さ』を示すものであった。そこから彼がこの言葉を『善』や『徳』といった意味へと狭めた。だが本来のアレテーは、ただ単に『優れている』ということを意味する。足が速い、頭がいい、体が強い、などの『良さ』を表すものだった。ゆえに『クオリティ』は『アレテー』と同じものである。そうだ!『クオリティ』とは『アレテー』なのだ!とうとう私はその実体をつかむこととなった。プラトンが新しい神話で人々を教育する前の『アレテー』、それこそが『クオリティ』の正体である。私はすでに『クオリティ』が何であるか知っていたのだ…
 この時から私は、失われた記憶のうちいくつかを、おぼろげながら思い出せるようになってきた。

 古代においては、神話を信じないことが狂気であった。現代は神話を信じることが狂気であると見なされる。しかし真実は理性の範疇にはない。その外側に行ってこそ、初めて到達できるものがあるのだ。
 私は大学教師を辞め、あらゆる場所に行って『クオリティ』の研究に没頭した。その後、電気ショック療法によって記憶の大部分を失った。私が狂人として扱われたからだ。真実へ到達しようとすることは、自分が存在する時代の神話の外に行くことでもある。かつて地球が平らであるとされていた時代には、地球を球体であると言うことが狂気の沙汰であった。
 現代において私が二元論から脱した『クオリティ』へ到達したことは、周囲の者たちにとって狂気以外の何者でもなかったのだろう…


この先、どんな困難が待ち受けていても

 ようやく元の場所まで降りてきた。
 私たちは再びオートバイに乗る。
 これからも多くの困難が私たちの前に立ちはだかるだろう。人は生きている限り、さまざまな災難を避けることはできない。しかし私はこれまでにない感慨にふけっている。この先、どんな困難が待ち受けていても、私たちはきっと乗り越えられる。私たちは長い道を最後まで走り抜いたのだから。

 この本を書き終えた後、クリスは2人の男に襲われ、亡くなった。1979年11月7日、午後8時ごろのことである。一人で通りを歩いている時に殺されたのだ。
 クリスはどこに行ってしまったのか?私は考えを巡らし、そしていつも堂々巡りになった。
 彼の死から数ヶ月経って、妻が子を身ごもった。予期せぬことであった。私たちは、中絶しようと決めた。その時私は50歳を過ぎていたし、2人ともこれからまた子育てをしようとは思わなかったらである。
 しかし、話し合いの途中で私は奇妙な感覚に襲われた。私は妻に「ちょっと待ってくれ、やっぱりやめよう。何かが間違っている気がする」と言い、中絶しないことにした。
 その後、ネルという少女が生まれた。私たちの生活がふたたび開けてきた。
 そして私は今、2冊目の本の執筆に取り組んでいる。

おわりに

 1974年に出版された大変古い本であるにもかかわらず、『禅とオートバイ修理技術』は今なお世界中の人に愛され、読まれ続けています。特に、スティーブ・ジョブズをはじめとしたアメリカのクリエイターたちから見た禅の解釈は、日本でのそれと大きく異なっています。西洋的な解釈を経て、よりシンプルに、より完璧な仕事を追求する精神性は多くのビジネスパーソンに影響を与えました。
 『禅とオートバイ修理技術』は、著者が辛い過去を経験しながらも人生をかけて真の仕事、真の人生を追求する姿勢がつづられた600ページにも及ぶ大作です。テクノロジーと共に生きることを避けられない現代の私たちにとっても、生きていく上でのヒントが至ることに刻まれています。
 どんなことがあっても諦めず、答えに向かって進んでいく生き様を読み返すたびに、自分の使命とは何かを考え、そこにベストの状態で取り組む気持ちを思い出すことができる、非常にパワーのある一作です。

 

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