20歳で月収50万?「5歳で競馬を始めたデジタル馬券師の末路」
自分は極度のハマり症だ。
一度ハマると脇目も振らずにずっとやってる。人生において極度にハマったもの。一つは麻雀。もう一つは競馬である。
明日、12月27日は有馬記念だ。少し競馬の話をしてみよう。
初めて競馬を予想した日
自分が初めて競馬の予想をしたのは1988年のジャパンカップだ。地方出身のスターホースオグリキャップが世界の強豪に初めて挑んだあの日。若干5歳の時である。
ギャンブル好きな親戚のおじさんに「何がくると思う?」と聞かれた。
知らんがな。
と思いつつも予想した。当時はまだ馬連という買い方がなく、単勝か複勝か枠連の3種類。配当の魅力から枠連で買う人が圧倒的に多かった。自分も枠連で予想した。
おじさんの家にあった新聞の一面にはオグリキャップの写真と文字がデカデカと載っている。オグリキャップの枠番は4。もう1つの枠を何にするか。勘で8と答えた。
「枠連4-8」
これが自分の初めての競馬予想だ。おじさんは「4はきそうだけど、8はこないんじゃないかな」と言いつつ、電話投票で4-8を買ってくれた。
それもそのはずである。枠番8は14頭中、9番人気と10番人気の人気薄2頭が入っていた。どちらかが2着以内に入らなければいけないことを考えると、かなり絶望的だ。
4枠7番 マイビッグボーイ(4番人気)
4枠8番 オグリキャップ(3番人気)
8枠15番 ムーンマッドネス(10番人気)
8枠16番 ペイザバトラー(9番人気)
4枠と8枠が1頭ずつ1着・2着に入れば当たりである。同じ枠の2頭が1着・2着になると外れ。なぜかスポーツ新聞を妄信していた自分はオグリキャップは絶対2着以内に入ると思っていた。だから4枠は大丈夫。
問題は人気薄の8枠だ。15番と16番を応援しようと思った。
レースが始まった。5歳にして初めてみる競馬のレース。
大方の予想を裏切り、ゴール板を先頭で駆け抜けたのは16番のペイザバトラーだった。予想当たった!!と思ったけど、肝心のオグリキャップは3着止まり。2着に入ったのは1番人気のタマモクロスだった。
タマモクロスの枠番は3。自分の予想4-8は外れ、枠連3-8が当たり馬券となった。
隣にいた親戚のおじさんをみるとなぜか喜んでいる。おじさんはちゃっかり「枠連3-8」を買い足していたのだ。なんか負けた気がしてものすごく悔しかったのだが、「これでお寿司でも食べよう」と言われて、満足した記憶がある。
ちなみに麻雀をはじめたのもこのおじさんの影響で、競馬より1年前の4歳のときにはじめて麻雀に触れている。
ダビスタ96からリアル競馬
その後しばらくは競馬のことを忘れていた。小学生時代はほぼプロ野球と麻雀にハマっていた。おっさんか。
中学2年の終わり頃、1996年「ダービースタリオン96」(以下、ダビスタ)という競走馬育成ゲームが発売された。国内累計売上本数90万本を突破した大ヒット作である。友達が面白いよというのでやり始めたら自分もハマった。
ダビスタは強い馬を作るために血統の知識が必要で、自分も血統をいろいろ勉強するようになった。当時の種牡馬3強はサンデーサイレンス、ブライアンズタイム、トニービン。でも元々マイナー志向の強い自分は3強をなるべく使わず、強い競走馬を作ろうとしていた記憶がある。
実際の競馬を久々にみたのは1997年の京都新聞杯だ。なにがきっかけだったかは覚えていないが、メジロブライトという馬が出ていて、応援しようと思った。それから毎週日曜にフジテレビで放送されていた「スーパー競馬」を観るのが楽しみの一つになった。
その年の天皇賞(秋)は未だに実況を覚えている。
フジテレビ三宅アナ
「バブルか!エアか!バブルか!エアか!エアグルーヴ~!恐ろしい馬です!恐ろしい馬だ!バブルガムフェローをかわした! 15頭の男馬を蹴散らした!」
ものすごく興奮した。
スターホースだらけの有馬記念
1997年の有馬記念はものすごくワクワクした記憶がある。当時の有馬記念は正真正銘その1年で活躍した馬が出走するレースだった。マーベラスサンデー、エアグルーヴ、メジロドーベル、シルクジャスティス、ダンスパートナー、タイキブリザード。スターG1馬6頭。どの馬が勝ってもおかしくなかった。まさしくドリームレース。
あなたの夢は?私の夢はタイキブリザードです。
この1年前だとサクラローレル、マヤノトップガン、マーベラスサンデーのスターホース3強が揃っていたのだが、それに間に合わなかったのは少し悲しい。
高校生の時に競馬場に行った話
高校生になってからも競馬熱は冷めず、自分で馬券を買ってみたくなった。当時は法律上、20歳以下と学生は馬券を買うことができなかった。
自分の親はギャンブルをやらない。当然電話投票とかもできないので、自分で買いに行くしかなかった。
ほぼ毎週、自宅から1時間ほどかけて一人で札幌競馬場に行っていた。レンズに色をついたサンメガネをかけて。幼くみえるから少しでも大人っぽくみえるようにかけてたけど、今考えると逆に怪しいな。
ちなみに競馬場に入ること自体は何歳でもOKである。馬券を買わなければ何も問題がない。だから特に注意されることもなかった。
1年以上そういう生活を続けていた。同じく競馬が好きだった友達に話すと「オレも行ってみたい」となって、二人で競馬場に行った。
速攻で警察に声かけられた。
自分は咄嗟に機転を利かし、購入済の馬券を捨てた。馬券を購入するためのマークシートを大量に持っていて、その意思があったのは明らかだったが、初犯かつ未遂ということで、二度としません的な誓約書を書き、厳重注意という形で終わった。
1週間前まで刑事をやっていたという人に「馬券買ってただろ。ちょっと来い」と声をかけられ控室に連行されたのはかなり怖かった。よくテレビドラマで見ていた「カツ丼食うか?」の世界が頭をよぎった。
二度と友達と競馬場に行くもんかと思った。
捨てた馬券が外れていたのは不幸中の幸いだった。
沈黙の日曜日
1998年11月1日、天皇賞(秋)
当時、競馬ファンだった者であれば誰もが忘れもしないあの日。自分がその日の朝、夢でみたのは次の日のスポーツ新聞の競馬面だった。
「8歳馬、金メダル!」
8歳馬で唯一出走していたのはオフサイドトラップという馬だ。当時は現在とは馬齢の数え方が1つ異なり、8歳は現在でいう7歳にあたるが、当時は現在ほど調教技術が進んでおらず、8歳(現7歳)で一線級と戦うのは難しいと思われている時代だった。オフサイドトラップは単勝42.4倍の12頭中6番人気。
まさかなと思いつつ、朝友達に「オフサイドトラップが勝つ夢を見た」と報告した。
圧倒的1番人気は単勝1.2倍1枠1番のサイレンススズカだった。これまで他を寄せつけないスピードで他を圧倒し、前哨戦でも逃げてエルコンドルパサー、グラスワンダーといった超強豪相手に快勝。ここでも当然勝つとみんな思っていた。普段はフルゲート18頭が揃う天皇賞(秋)だが、各陣営もさすがに相手が悪いと思ったのかわずか12頭の出走に留まっていた。
その日、自分は友達の家で麻雀をしていた。レースの時間も麻雀をやっていたのだが、夕方頃に母親からメールが入る。
「サイレンススズカ、ダメだったよ」
その意味をすぐには理解できなかった。
SNSがなかった時代、今のようにTwitterでTLですぐ情報を取得することはできず、家に帰ってから録画していたレースを観る。
フジテレビ塩原アナ
「さぁ、ここで抑えるような格好、、あぁ、ちょっと 、、サイレンススズカ! サイレンススズカに故障発生です!何ということだ!4コーナーを迎えることなくレースを終えた武豊! 沈黙の日曜日!」
絶句した。泣いた。
あの日のレースだけは未だにYoutubeで再生ボタンを押せない。
ちなみに馬券は買っていない。正夢をみたのはこの日が最初で最後である。
初めての万馬券GET
初めて万馬券をとったのは2002年の平安Sの時。1着スマートボーイ、2着マイネルブライアンで108.7倍。4点買いで500円ずつ買っていて、5万円になった。この時は父にウインズ(場外馬券場)で購入してもらった。学生にとってはかなりいいお小遣いになった。
この頃は血統をベースとした馬のタイプ分けをする考え方にハマっていた。
今井雅宏氏提唱の「Mの法則」である。これが本当におもしろくて、この馬はこのタイプ、この馬はこのタイプって分類していった結果、面白いように穴馬券がとれた。
集中力、闘争心、淡白さ。どの要素が一番強いか。
集中力が強ければ自分より格上相手のレースでがんばるし、闘争心が強ければ連勝中など勢いがあれば強いし、淡白さが強ければ自分の得意条件でがんばる。ざっくりいうとそんな感じ。
血統と戦績を眺めるだけで、馬の性格が手にとるようにわかった。正確にいうとわかったような気がしていた。
当時はSNSはほとんどなかったが、インターネットサイトの掲示板やチャットを介して、仲良くなった人がいた。その人たちと競馬予想をぶつけあったり、予想大会に参加するのが毎週の楽しみになっていた。
2002年5月、ゴッドオブチャンスという馬が11番人気で京王杯スプリングカップを制覇する。淡白さの強いゴッドオブチャンスは得意条件のこの舞台ならば好走すると踏んで、自信満々に本命を打った。
自分からしたらゴッドオブチャンスが勝つのはけっこう読めた展開で、つい予想仲間に「これはゴッドオブチャンス勝つってわかるよね~」みたいなことを言ってしまった。予想仲間とケンカ腰になった。今考えると本当に痛い発言である。その当時Twitterがあったら炎上していたかもしれない。危なかった。
上京を決めて、物件探しにつきあってくれた父の旅費を出した
自分は学生時代一切バイトをしておらず、自分の収入源はお年玉と競馬だけだった。親戚が多くてけっこうお年玉の収入が大きかったこともあるが、毎月のお小遣いはなく、あとは競馬の稼ぎで何とかしていた。
自分の実家は裕福な家庭ではない。普通に暮らすことはできたが、贅沢は決してできない。父がなんとかマイホームのローンを返しているような状況だった。
2002年秋、自分は唐突に北海道から上京することを決める。父は応援してくれたが、母には全力で止められた。泣かれた。
自分はその頃グラフィック系の専門学校に通っており、Webデザイナーという職業に憧れるようになっていた。北海道で専門職を探すのはけっこう大変で、東京に行ったら何とかなるんじゃないかという浅はかな考えだった。
まあこれも実は後付けで、就職活動面倒だなあと思って、札幌で東京の警備会社の集団面接があってとりあえず受けてみたら受かったから、そういうことにしたのである。就職超氷河期でみんな数十社面接を受けてもなかなか受からない中、自分は楽をする道を選んだ。この1社しか受けていない。
グラフィック系の専門学校に行くことになったのも、大学受験が面倒だったからである。
専門学校時代も実家から通っていたし、上京するタイミングで就職、初めての一人暮らしである。母親からすると本気で心配だったんだと思う。ごめん。
一人暮らしとなると当然物件選びが必要である。自分は収入がゼロだから、父を頼るしかなかった。普段は家族にお金の心配をさせないように振舞っていた父だが、この時ばかりは金銭的に苦しそうな顔をみせた。
東京の物件には敷金・礼金というものがかかる。上京の1カ月前に父と自分は物件選びに一度東京に向かった。その時の旅費だけでも自分で何とかしようと思った。
いくらかかったかは忘れたが、1泊2日2人分の交通費・宿泊費を全部出した。北海道から東京って決して安くない金額がかかる。東京から北海道の比じゃない。普通に7~8万かかった覚えがある。
当然収入源は馬券である。さくっと万馬券を当てて6万を確保し、手持ちと合わせて旅費を支払った。天才。
さっきから便宜的に東京といっているが、実際は横浜住みにこだわっていた。横浜ベイスターズが好きだったからだ。上京ではなく上浜。
20歳、月収50万
2003年、上京して就職。新卒で前述の警備会社に入る。
24時間勤務(実働16時間)が基本で、休憩時間はもっぱら週刊Gallopか競馬ブックとにらめっこをしていた。同僚も競馬好きが多く、休憩時間にガッツリ予想を煮詰めていても注意されなかったのは幸運だった。
自分が入った警備会社は業界では中堅どころでそれなりに大きい会社ではあったが、給料はお世辞にも高いとはいえなかった。いや、今考えると全然低い。浪費せずに家賃5万円くらいの賃貸で暮らすには困らないレベル。
でも自分の発想は違った。給料の半分は競馬資金として使えるなと。これはもちろん全額溶かすことは頭にはまったくなく、トータルでみると増えると思っているからである。
当時の自分は前述のMの法則をもとに勝ちそうな馬を見つけて、そこから馬単で総流しをする方式をとっていた。
2003/9/13(土)朝日チャレンジカップ 285.5倍 500円的中
2003/9/14(日)京王杯オータムハンデ 315.9倍 500円的中
さて、いくらになっただろう。
約30万円の儲けである。20歳、薄給新卒1年目。わずか2日で30万円が入ってきた。手取り額にするとおよそ2カ月分である。
諭吉さんを漱石さん感覚で使うようになった。金銭感覚が狂うとはこういうことなんだと思った。
とはいえ、アナログな予想で1週間たっぷり時間をかけて、その週の重賞レースを予想をしていた。仕事以外の時間ほぼすべてを競馬に使っていた。
もっと楽に稼ぐ方法はないか?自分は面倒なことが嫌いなのだ。
ふとした時、とある穴党競馬新聞記者の予想印をみて気づいた。荒れたレースで突っ込んできた穴馬に何かしらの印を打っていることが多かったのだ。これを活かせないか?
その記者の予想印には傾向があった。
◎…一番面白いと思っている穴馬
〇…二番目に面白いと思っている穴馬
▲…本命馬
△…馬券に絡んできそうな馬(4頭)
3連複で▲を軸に◎○△の計6頭に流すことにする。
めっちゃ万馬券当たった。やっぱ自分天才。
2005年の3月、2つのレースで225倍と255倍を1000円ずつ的中。22歳にして月収70万を達成する。
こうして書くとかなり儲けている印象を受けるかもしれないが、負けている月もかなりあって、トータルではマイナスだった。
指数をもとにした重賞予想
2005年の秋に自分は転職をする。警備会社から晴れてWebデザイナーになった。専門学校時代の友達がそこに勤めていて、自分のことを紹介してくれた。
当時はまだブラック企業とかそういう考え方自体がなかった気がする。どの会社も24時間働けますか?リゲイン的な時代。警備会社時代に24時間勤務をしていて体力のコントロールには自信があった。
入社初日は23時まで残業をした。普通だと思った。
毎日遅くまで残業が続き、競馬をじっくり予想する時間はなくなっていた。なにか楽をする方法はないか?
自分はアナログな予想から完全に脱却し、デジタルにこだわるようになっていた。
着目したのが競走馬の能力を定量化する「指数」である。
自分で指数を作り上げるには時間も知識もなかった。だから優秀な指数を探し続けた。
「TARGET frontier」という競馬のデータ管理ができるソフトにあらゆる指数を入れて、様々な条件で日夜シミュレートを繰り返す。休みの日は1日8時間競馬研究に使うことはザラだった。
競馬でプラスになるためには「控除率」の壁をクリアしなければならない。投票者が賭けた金額から控除率分差し引かれ、残った金額を当選者で山分けする仕組みだ。これは競馬に限った話ではなく、ギャンブルにはつきものだ。
競馬の控除率は単勝複勝で約20%、それ以外で約25%。正確にはもっと細かい端数が出るがだいたいこんなもん。
わかりやすくいうと、馬連で全馬券を買っていても戻ってくるのは約75%ということ。回収率と呼ばれるものだ。残りの25%を埋めるのがめちゃめちゃ大変。
世間的に有名な競馬評論家であっても、年間回収率が100%を超えないことはザラにあって、100%をちょっと超えているだけですごいと言われる世界。
自分は競馬だけで暮らしていきたいと思っていた。馬券師として暮らすためには少なくても120~130%の回収率が必要だ。なおかつ収束に時間がかかるものだと回収しきるまでに資金が枯渇してしまう。となると、ある程度の的中率も確保しなければいけない。
的中率25%の予想術が10回連続で外れる確率がどのくらいか考えたことはあるだろうか?
けっこうある。確か6%くらい。
資金を10分割して的中率25%の予想術で馬券を買い続けると6%の確率で破産する。これでは投資は成り立たない。安全ラインは連敗確率が0.1%以下になる方法で運用することだ。
自分は的中率25%、回収率120%の予想法を作り、資金20分割で運用することを目標にした。
しばらく経ったある時、ついに優秀な指数と巡り合う。指数の1位を機械的に買うだけで単勝回収率が90%近くに達するものだ。これは相当すごい。
ここまでくれば後は自分がいろいろ条件を絞ってやれば、簡単に回収率100%を超えそうである。
研究を重ねた結果、年単位で回収率100%を割らず、概ね的中率20~25%、回収率120%以上の予想法を編み出すことに成功した。唯一不満だったのは年間50~60回程度しか予想が出せずに月間ではかなりバラつきが出てしまうこと。ここされクリアできれば馬券師生活も夢ではなかったかもしれない。
自分のTwitterアカウント(@chia0101)でも一時期予想を公開していたので、昔から繋がっている人は覚えているだろうか。
東スポ杯 10 スマートオーディン「単勝負」10>6>9>8>3
— ちあ (@chia0101) November 23, 2015
※参考:2015年1/5-11/15
・「単勝負」馬 12-4-5-25/46R 勝率26.1% 単勝回収率162%
・「見」馬 12-10-5-36/63R 勝率19.0% 単勝回収率61%
先週までの単勝負馬結果。2007年だけ危なかった。 pic.twitter.com/rvrChfm4Pp
— ちあ (@chia0101) December 13, 2015
中山金杯 1 シャイニープリンス「単勝負」1>10>3>2>6
— ちあ (@chia0101) January 4, 2017
京都金杯 5 フィエロ「単勝負」5>6>12>4>1
2016年最終成績
61戦18勝 的中率29.5% 回収率129.8%
この頃の自分は馬のことなんてこれっぽちも考えていなかった。競馬新聞はおろかスポーツ新聞もみなかったし、レースもみなかった。馬の名前も予想を公開する時にちょろっとみるくらいで、馬自体に対してまったく興味がなくなっていた。すべてが数字にみえていた。お金にみえていた。究極デジタル。
指数を取りこみ、さらっと自分の考える条件にあてはめただけで予想が完了した。買い目を出すまでにわずか30秒。それで的中率は20%を超え、回収率120%以上。楽すぎる。
終焉
しかし、いい時期は長くは続かない。
「よしっ、これから」というところで、信頼していた指数の公開が終了する。いつかこうなることは予想していて、他の指数での研究もほぼ完了はしていた。しかし、想像よりもはるかに早かった。作者の方がご病気でこれ以上公開はできないとのことだった。
すぐに他の指数での運用に切り替えたが、1つ問題があった。従来の指数と比べて少々複雑な条件を加える必要があり、予想をするのに10分ほどかかった。30秒の世界を知ってしまった人間にとって、10分という時間はあまりにも長い。
ほぼ同時期にデータを入れていたPCが壊れてしまった。その瞬間、自分の馬券師の夢はほぼ終わった。
あれから3年以上が経つが、競馬に対するモチベーションはほとんどなくなってしまった。すべてをデジタル化してしまった代償だろうか。
明日の有馬記念は真剣に予想してみようか。純粋に馬が好きだったあの頃に戻って。
おしまい
コメント