『フードコート』(2019) のアーカイブ

『フードコート』評 その2


谷繁玲央 「理想」演劇へ向けて

<執筆時期 2020年3月31日頃>



 私たちは見たもの、聞いたものをすぐさま忘れてしまうわけでもないし、とはいえ生まれてこのかた見聞きしたものを自由に引き出せるわけでもない。私たちの経験は常に「適度に忘れていて、適度に覚えている」。覚えている幅を少しずつ重ね合わせてかろうじて経験というものが成り立っている。そしてその経験の余白には忘れてしまった何かの残像、あるいは忘れてしまったという感覚自体が残されている。
 新聞家《フードコート》(2019-)は鑑賞者にそうした経験の限界を否応無しに直面させる。私たちはこの作品を観たとしても、「観た」という気持ちにならない。「適度に忘れていて、適度に覚えている」という感覚が残される。一つの場所があり、一人の役者が、あるテキストに従い発話するというシンプルな形式にも関わらず、この作品の何を観たのか判然としない。
 これにはいくつかの理由があるだろう。まず公演の形式。チケットの販売手法からわかるように2回以上観劇することが求められており、日取りによっては別の役者が別のテキストを元に発話することもある。即興劇ではないし、一節のアドリブすらないにも関わらず、鑑賞者たちは同じ経験を共有できないし、全日程を観ない限り観尽くしたのだと思うことができない。
 加えて各回終演後に執り行われる意見交換の時間の存在も大きい。ここでは、感想・意見・質問などの発話、あるいは苦笑い・冷笑・よそ見などの沈黙といった何かしらのリアクションが求められる。何かを観せられ、何を観たかわからないうちに、「何を観ましたか」という暗黙の疑問が観賞者たちは投げかけられる。こうした意見交換の時間は、(座席を緩やかに区切っていた様々な植物たちと同様に)同じ作品を観ていたはずの私たちの経験がそれぞれに違う(それも絶望的に違う)ことを露見させる。事件後の実況見分で、目撃者が集められて、口々に違うことを言う。あまりに違うことを言うものだから、目撃者同士の共犯関係のようなものが生まれる。《フードコート》は各回、こうした居心地の悪さ  絶望的に違うものを観ていたことを共有する感覚  を残して終わる。
 以上のような公演の形式が生む問題は、他の方々が執筆される公演評に紙幅を譲るとして、次にこの作品における判然としなさを《フードコート》のテクスト、そしてそれに従う役者たちの発話の中から考えてみよう。筆者が本作品を鑑賞したのは2回、10月4日と10月16日、いずれも夜の回である。1回目は吉田舞雪が出演し、2回目は吉田に加え瀧腰教寛が出演した。吉田が諳んじるテキストは1283文字、瀧腰のテキストは598文字。1回目に関して、上演時間は15分に満たなかった。この決して長いとは言えない時間で、強烈な腑に落ちなさ、消化できないもどかしさを残すのである。
 役者が土間に降りたら上演が始まる。一番端っこに座る鑑賞者から上演前に回覧された説明書きを受け取ると、土が入った樹脂製の雨水升(背の高いバケツみたいなもの)にそれを入れて、升に蓋をする。升を適当な場所へと移動させ、その上に座り、虚空を見つめる。そして発話を始めるのだ。《フードコート》のテクストも、役者の発話も抑揚がなく地の文も会話文も明確な区別をつけない。言葉は滔々と空間を流れていく。しかし、言葉の一つずつと、言葉同士の関係性にはよどみがある。そこには日頃慣れているコロケーションとは異なった、言葉のつながりがあり、斬新な印象を残していく。主語が必ずしも明示されているわけではない、目的語は動詞から遠く離れていることがある。ちょうど金井美恵子の「柔らかい土をふんで、」の句点のない文章のように、言葉とそれが生み出すイメージは私たちを置いてきぼりにして、転々と流れ移って行く。よく聞き頭の中の覚えている幅を広くとらなければ、文意も定まらない。一文一文がどのような関係で繋がっているのかも判然しない。こうしたさらに先まで見聞きしなければわからないために、言葉とイメージは頭の中を滞留していく。しかし、この作品の言葉たちが分裂的なわけではない。むしろ抑揚なく発話し続ける役者の身体や、テクストが持つ光景への眼差しの温度感は変化がなく、頭の中に保留され続ける言葉たちをつなぎとめている。こうして頭の中に残っていった、留保された言葉たち、イメージたちが、かろうじて「何かを観た」と言う感覚(戯曲らしさといってもいいかもしれない)を生み出す。しかし、それはあくまで留保された断片の集合に過ぎないから「何を観たか」は判然としないのだ。
 《フードコート》は果たして演劇だろうか。筆者は演劇人でもなければ、観劇経験も少なく、《フードコート》より前の新聞家作品をフォローしてきたわけでもない。しかしながら、筆者には《フードコート》にはテクスト/舞台/役者という演劇の最小構成が厳格に存在するという意味で極めて演劇的に思われる。「理想」的な演劇といっても良いだろう。この「理想」というのは別に「最も素晴らしい」とかいう意味ではない、理想気体(ideal gas)とおんなじ意味の「理想」だ。つまり思考実験や理論的な議論をするために便宜上仮定された究極的に単純で原理的なものという意味だ。ちなみに理想気体は極度に単純化されたモデルであるが故に現実には存在しない。だからその意味で理想演劇もこの世に存在しえないかもしれない。しかし少なくとも《フードコート》は理想演劇に肉薄する「理想」的な演劇ではある。テキスト/舞台/役者という演劇の最小構成が、かろうじて言葉とイメージをつなぎとめて作品を作品たらしめている。この作品が演劇として成立するギリギリの境界の上を横滑りして行くからこそ、私たちが演劇に期待するものたちを解体することに成功している。同じ場で同じ演劇を観れば同じ経験を得られるという共同幻想は、この作品によって壊される。単に即興や再現可能性の問題ではなく、たった今同じ(はずの)ものを目撃した者たち同士でさえ共有できない経験があることを示すのだ。
 筆者は感染症により外出自粛の要請が出る東京で部屋に籠って本稿を執筆している。(新聞家の新作であるオープンスタジオ《保清》(2020)も先月ではあるがそうした緊張状態の下で行われた。「保清」というのも偶然だろうが時宜を得た名前だ。) 毎日のようにテレビでは、知らない分野の知らない専門家が入れ替わり立ち替わり、感染症に関しての所感を述べている。それぞれが言うことは異なるし、同じ人が別のことを言うこともある。専門外のことはわからないと言うのが筆者が大学で学んだ大事なことだから、どの専門家の言葉も信じるわけでも信じないわけでもなく、確からしいか不確からしいかの判断を留保したまま頭にとどめる。専門家であれ非専門家であれ、あらゆる認識には認知バイアスがかかり、自分が立つ場所から見えるものしか見えないし、考え、語ることもできない。さらに言えば自分が見た、聞いたとするものも、どれほど確かか怪しい。《フードコート》はそうした「私の経験」の限界と、「私たちの経験」が絶望的に困難なことを「理想」的な演劇手法によって舞台の外よりもありありと顕現させる。いま現実の社会では、明確に共有されていた場所、人間の身体たちが時間・空間を共有できた物理的な場が失われると言う事態に直面している。演劇の最小構成であるはずの、舞台が失われた社会である。いま私たちに必要なのは、《フードコート》の意見交換がそうであったように、私たちが絶望的に異なる経験をしているという自覚の上で、それでも語り合い続けることそのものかもしれない。《フードコート》という「理想」的な演劇は、経験の脆さ、共有できなさを抱えながらも、それでも同じ場を共にすることの可能性を示す実験なのだ。


谷繁玲央(たにしげ・れお) 建築



『フードコート』(2019) のアーカイブ