たとえ私の全てを賭けてでも ⑥
「…………は?」
あまりにも唐突だったその光景に、立ち止まって呆ける事しかできなかった。
リビングまで一直線に飛び込んできた玄関扉がテーブルを轢き倒し、フローリングの床を削る。
扉の表面はベッコリと凹み、その中央にははっきり靴の後が刻まれていた。
「は……? な、な……」
「よぉ、逃げてなくて安心したよ」
見るも無残な姿になった扉を追って現れたのは、死髪の様な白い髪。
黒い衣を身に纏い、トレードマークのマフラーが風も無いのに自己を主張するかのようにたなびいている。
今の世の中、特に東北においてその名を知らない奴はいない。
「ぶ、ブルームスター……!? なんで――――ヒッ!?」
「んだよ、人をまるで化け物みたいに」
思わず尻もちをついて後ずさる、あれが化け物じゃなければ何という気だ。
だらりと脱力しているかのように両手を投げ出し、ゆらゆらと歩く化け物の顔は青白い。
そして何より、投げ出された両手の長さが揃っていない。 やつの片腕は千切れかかり、多量の血が流れている。
「な、なんで……なんでお前がここにいるんだよォ!? あいつ、あのガキはどうした!?」
「トドメを刺したのはお前だろ」
「ぁ……い、いやちが……俺は……ただ……!」
熱い、直火で焙られているような熱気に嫌な汗が止まらない。
尻もちをついた俺を見下す視線はまるで蛇のように絡みつき、視線が離せない。
なぜブルームスターがここにいる? 報復か? いや、だとしてもなんでこの家が……
「……ろ、ローレルさぁん! 助けてくれよ、見てんだろ!? 助けてくれ! やつだ、ブルームスターが現れた!!」
「へぇ、やっぱテメェはローレルと繋がってんのか」
「う、うるせえ! 来るな、こっちに来るんじゃねえぞ化け物が!!」
手元に転がっていた空き缶を破れかぶれに投げつける……が、それは空中で陽炎が揺らめいたと思ったら、一瞬で燃えてチリへと消えた。
暑い、熱い、あつい――――この熱気は奴の方から漂って来る。
「ヒッ……お、俺に手を出すと……他の魔女が黙ってねえぞ!」
「だったらさっきみたいに助けを呼んでみろよ、まあ間に合うかは知らねえけどな」
「い、良いのかよ! お前、正義の魔法少女なんだろ!? お、俺みたいな一般人に手を出し―――」
バヂン、と鈍い音が鳴る。 ほんの一瞬の間に、こちらに歩み寄るブルームスターに向けて差した人差し指が、あらぬ方向に折れ曲がっていた。
理解が及ばない、ただいつの間にかブルームスターの右手にはどす黒い箒が握られていた。
何が起きたのかも分からず、ただ遅れてやって来た灼けるような痛みだけが、腕の骨が折れているという事実を教えてくれた。
「ぁ……? ひ、ぎ、ギャアアアアアアアアアアアア!!!!??!!?」
「自分の子供を道具のように斬り捨てる人間が、一般人だとでも?」
「ぎ、ひ、ヒィ……! な、なんでだよぉ……子供は親に尽くすもんだろ!? 一匹育てるのにどれだけ金かかると思ってやがる! 親に恩を返して尽くすのが当たり前だろ!?」
「そうか」
「……か、勘弁してくれよ……腕、ほら、折れてる……だ、だからもう……」
「そうか」
何を言っても同じような返事しか返さない。 駄目だ、こいつとは会話が通じない。
チクショウ、なんだって俺がこんな目に合わなきゃいけないんだ。
それもこれもあのクソガキが悪いんだチクショウふざけんなどいつもこいつも俺の邪魔ばかりしやがってなんで俺ばっかりひどいチクショウチクショウチクショウ。
「――――う、うあああああああああああ!!!!」
折れた腕を庇いながら、目の前の化け物に背を向けて台所の方へと逃げる。
背中から襲われなかったのは幸運だった、そのまま慌ただしく駆け込んだ台所の奥にはサビついた裏口の扉がある。
折れていない方の腕で無理やりノブを回し、靴も履かずに外へと逃げる。
「だ、誰か助け……助け……!」
恐怖で枯れ尽いた喉からはかすれた声しか出てこない。
タバコと酒灼けでろくに運動もしていなかった体からはゼヒゼヒと苦しい息が零れる。
とにかく、今はあいつから逃げなければ……あいつが、あの化け物が俺を追って来る。
ざり…
ざり…
ざり…
ざり…
ざり…
箒を引きずるあの音が、まるで悪魔の足音のようにしか思えなかった。
――――――――…………
――――……
――…
――――助けてくれ
ざり…
ざり…
ざり…
ざり…
ざり…
ざり…
助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許して許して許して許して許して許して許して許して許して許してゆるして
ゆるして
ゆるして
ゆるして
ゆるして
ゆるして
――――――――…………
――――……
――…
「…………あ?」
べったりとシャツに張り付いた汗が潮風に吹かれて、ふと気が付く。
自分はこんな所で何をしているのだろう。
確か、家でビールを開けて……そこから……何で港なんかにいるんだ。 息も切れかかっている。
「なんで……だっけ、飲み過ぎたか……」
悪い夢か何かと思い、家に帰ろうと振り返り―――――思い出す。
―――――ざり…
「―――――あ」
頭が焼け付きそうな恐怖が吹きあがり、顔から血の気が引いて行く。
そうだ、思い出した、これで何度目だ。 忘れる度にあの音を聞いて思い出す。
ざりざりと箒が擦れる音が、どこまで逃げても追って来る。
―――――ざり…
「う、あ……あああああああああああ!!!!」
近づいてくる音に、また反射的に逃げだす。 あれはどこまで追って来る? どこまで逃げたらいい?
そもそも、逃げる事をまた忘れるのか――――また、あの音を聞いて思い出すのか? この悪夢はいつになったら覚めてくれるんだ。
――――逃げ場なんて、本当にあるのか?