作者はすべての物語を愛し、完結させなくてはいけないか?

片喰 一歌

愛をもって物語を完結させる事は義務ですか?


 作者は自身の生み出した物語を愛しているか否か。

 

 それについて考えるにはまず、作者にとって物語やそれを構成するキャラクターがどのような位置付けであるかを確認しておく必要があるだろう。


 大まかに分けて2つだと思う。子どもと呼んで愛しているか、排泄物として特に気にも留めていないか。


 排泄物だと言う人の中にはマイナス寄りの感情を抱いている層も見受けられるというのが筆者の体感だが、『嫌い』も『無関心』も『好き』とはだいぶ遠いところにある感情なのでひとまとめで問題ないと判断した。よって、そのままステイで話を続行させていただく。


 こちらをご覧になっている方の多くが創作者だと仮定して、いくつか質問させてほしい。


 あなたが物語を生み出すようになったきっかけはなんだろうか。そして、あなたが物語を作り続ける理由はなんだろうか。


 アンケートを取ったら、いずれも『創作するのが楽しいから』、『創作を通じて人と交流したいから』という理由が大部分を占めるのではないかと予想している。換言すれば、カクヨムで作品を発表している人=メイン層がそういった傾向にありそうだと考えている。


 ――――が、私は違う。


 人との交流は――相手による。全員と仲良しこよしなんて死んでもしたくないし、する必要もないと思っている。最低限の礼はどなたにも尽くすが、それだけだ。

 

 創作が楽しくないわけではないのだが、『楽しいから』がメインの理由というわけではない。


 そもそも私の創作のすべてを創作と呼んでしまってはいけない気がする。中には創作と言って差し支えないだろうと感じられるものもあるが、そうでないものもそこそこの割合を占めている気がしてならない。


 どういうことかというと、私の創作には自分で作ろうと思い立って作った話の他に、特に作ろうと思ったわけでもないのに勝手に脳内で生まれて勝手に育っていく話があるからだ。

 

 しかし、よくよく考えてみると、作ろうと思い立って作った話などひとつとして存在していないかもしれない。

 

 すべての話は突然パッと思いつくところからスタートしているから。俗に言う『インスピレーションが降りてきた』というあれである。


 それがたまにやほどほどの頻度で起こるというのなら、このうえなく創作者向きの特性といえよう。


 だが、あまりにも高頻度、脳の空き領域を圧迫するほど――となると、そうも言っていられなくなる。

 

 自分の生み出した世界に潰されるなんてそんな間抜けなことがあるだろうか。あるんだろうが、自分もそのうちの1名になるのは嫌だ。

 

 そのためにはアウトプットを行い、依頼しても望んでもいないのに空き領域を奪ってくる奴らを追い出す必要が出てくる。


 つまり、端的に言えば、『自家中毒に陥らないため』というのが私が今日も創作を続けている理由(続けている理由というより、やめられないかもしれない理由かもしれない)になってくるのだろうと思う。だが、創作を始めた理由については、正直あまりよく覚えていない。


 というのも、私が創作を始めたのは、明確にいつからと言えないほど過去のことだからだ。

 

 ――――いや。厳密に言えば、みなさんもそうなのではないだろうか。

 

 子どもの頃にお絵描きをしたことのない人はいないのではないかと思う。あの頃は誰にとってもそれが当たり前だったではないか。

 

 お絵描きのようにきちんと残る形でなくともだ。おままごとだって言ってしまえば即興劇だし、創作といえば創作だ。口頭での発表だったかもしれないし、紙面に書き連ねていたかもしれない。オリジナルの話を作ることも当たり前に行われていたはずだ。当然好き嫌いはあっただろうが、少なくとも一部の人が好んでする特殊な趣味という位置付けではなかったはずだ。


 そして、歳を重ねるにつれ、出来ることが増え、娯楽も多様化し、その結果創作から遠ざかっていく――というのが一般的な成長の流れではないかと思う。あるいは、成果物を馬鹿にされて心が折れたり羞恥心に耐えられなくなったりして徐々にフェードアウトしてしまった……なんて事情を持つ人もいるだろう。


 だが、一度は離れたが何かをきっかけに再び戻ってきた人、嘲笑されながら――あるいは、理解者のないままに、それでも情熱を持って創作を続けてきた人もいることだろう。


 ここにいるのは上記の人たちに加え、大人になって新たな趣味や息抜き、友達作りの一環として創作を始めた人だろうか。筆者の観測範囲では、これに該当する人が意外にも多い。

 

 だが、この『意外にも』というのは、息をするように創作に親しんできた者ならではの感想だとも思う。

 

 なぜなら、現代は個人が創作を発表するのにぴったりのサービスが充実しているから。それによって参入障壁が圧倒的に低くなったのだろうから、当然の流れと言えよう。


 


 閑話休題。


 ここまで色々話してきたが、今度は冒頭の問いを読者のあなたに投げかけようと思う。


 あなたは自身の生み出した物語やキャラクターたちを愛しているだろうか?


 概ね肯定されると思う。創作者全体で見れば、愛している派愛していない派それぞれ半々くらいに落ち着きそうだが、ここにいる創作者ということであれば、何かしら思い入れのある人、自身の生み出したキャラクターや創作が愛おしくて仕方のない人が多数を占めている気がする。


 もちろんこれはただの予想に過ぎないが、今回はそうだと仮定したうえで話を進めさせていただこう。


 あなたが自身の生み出した物語やキャラクターを愛している側の人間だとして、みんながみんなそうだと思うだろうか。――思わないだろう。みなさんはそうでない人たちの存在をどこかで感じているはずだ。あるいは、はっきりと知っているはずだ。


 自身の作品を愛せるか否か(=『肯定的に見られるか否か』とも換言出来るかもしれない)が自己肯定感の高低と相関しているかは、正直のところよくわからない。

 

 自身の作品を愛しすぎるあまりにそれが作品を侵蝕している人や『この人は作品を通して自分を愛してほしいんだな、そのために創作活動をしているんだな』とわかる人もいるので、一見関係していそうにも思える。


 しかし、私は自分が大好きだ。誰かに強く憧れるという感情を理解はしても共感出来ないレベルに自分が大好きで、なおかつ他人に興味のないナルシストだが、その大好きで唯一無二の存在である自身から生み出されているはずのキャラクターや作品についてはどうか。前述の通りだ。すべてを愛せているわけではない。

 

 自然発生的に生まれて脳みそを圧迫する作品やキャラクターについては、煩わしい、愛せるはずがないとしか思えない。排泄物のほうがまだ価値がある。排泄物は身体の状態を教えてくれるが、勝手に生まれて容量を圧迫する作品やキャラクターはそうではないから。(もしかしたら心理状態なんかがわかるのかもしれないが。)


 それだけならまだましだ。否定しておしまいだ。――――だが、困ったことに自身が肯定出来ないものを他人に好意的に見られてしまうというのは、なんとも据わりが悪いものだ。


 この感情については、作品=排泄物派のみなさんのうち何割かは共感をお寄せくださるのではないかと思う。作品=子ども派の人の一部もそうかもしれない。好きで生み出したからこそ、納得のいかない部分や満足していない部分が目につくこともあるだろう。


 ひとつ前のエッセイをご覧くださった方は、そちらで述べたある部分を想起されたかもしれない。


 ちなみにひとつ前のエッセイというのはこちらである。

『その感想、貰って嬉しいって心から言えますか?』https://kakuyomu.jp/works/16818792439032434814

 物好きな挑戦者やタイトルに興味を惹かれた方は御随意にどうぞ。

 

 話に戻ろう。ある部分というのは、『苦手なタイプの人間から好意を寄せられるのが途轍もなく苦手だ』というくだりだ。今申し上げたことはそれと酷似している。

 

 そう。私はそういう人間なのだ。

 

 自分の感じ方と他人のそれが異なっていることは理解している。自分の萌えは他人の萎え、そしてその逆も然りと承知している。だが、そうしたうえでなお、自分の嫌っているものに好意を向けられている状態が我慢ならない、我儘で気難しい人間だ。


 さて、ここでひとつ前に投稿した作品の内容を思い出していただきたいのだが、どうだろうか。繋がっているように見えて(すらいなかった可能性も大いにあるが)実は繋がっていない、不自然な流れになっているように感じられる場面があったのではないか。


 その感覚は正しい。

 

 恐らく筆者が実際に体験してきたことを満遍なく盛り込んだというよりは、特定のケースに焦点を当て、それについて述べたがために不自然な点が生じてしまったのだろう。

 

 私が思い出していたのは、自分としては少しも思い入れのない作品やキャラクターに苦手なタイプの人からラブコールを送られていたときのことだ。


 もうお分かりいただけただろう。前回申し上げたことと今回申し上げたことの欲張りセットだ。率直に言って二重で辟易した。


 その作品というのが、こちらに掲載していた中で最も多くの方にフォローしていただき、最も多くのコメントを受け取っていた作品だ。


 多いときは毎日投稿していたが、元々情熱を持っていなかったことに加え、書いているうちに少しも愛おしく思えないヒロインと相手役に嫌気が差し、だんだん続きが書けなくなっていった。

 

 未だに思う。自ら望んで作り上げた物語ではなく、頭の中から追い出したいがために仕方なく世に送り出した物語が最も注目を浴び、受け入れられてしまうなんてなんて皮肉なことだろう。(ここにはあくまで自分の作品の中では、という注釈がつく。数字としてはまったくもって大したことはなかった。しょぼしょぼのしょぼである。)

 

 だが、私は悲劇ぶるのは趣味ではないし、内外の評価は得てして食い違うものだと承知しているので、特に落ち込んだりはしていない。憤りも特に感じてはいない。

 

 ちなみに該当作品は不定期更新を続けていたが、数日前に下げてしまった。これ以上こんな作品に時間を費やしたくないと思った、命を遣いたくないからだ。


 削除はしていないし、書けるものならすべて書き切ってすっきりしたいが、再公開の予定はない。


 今から人間性を疑われそうなことを申し上げるが、作品を黙って下げたこと、ならびに再開も再公開の予定もないことについて、私は申し訳ないとは思っていない。これっぽっちもだ。私が該当作品のヒロインと相手役に欠片も愛情を抱いていなかったのと同じように。


 なぜなら、これは私の始めた物語だからだ。


 元ネタでは正反対の文脈(『お前が始めた物語なんだから、途中で放棄するな。そんなことは絶対に許されない』という感じだろうか。)で使用されているのはよくわかっているが、私に言わせてもらえば、『私が始めた物語なんだから、私の好きなときに終わらせていいに決まっている』のだ。


 なんて奴だと思っただろう。私も若干思った。


 しかし、みなさんも私と同じくらいふてぶてしく図々しく生きてもいいのではなかろうか?


 ――――だって、あなたがたも作者だ。物語における造物主だ。すべて好きに決めていいのだ。その世界やキャラクターたちの存亡でさえも、あなたの思うままに。


 『完結保証』と謳ってどうにか自分の作品を見てもらおうとする人がいる。いいと思う。未完のまま放置された物語に打ち拉がれてきた読者にとって、それほどありがたいことはないだろう。


 だが、私はそうではない。


 自ら望んで作り上げた作品を気に入ってもらえたら嬉しいが、私は誰かに見てほしくて書いているわけではない。生物が呼吸するのと同じ、それが自然な状態だから物語を生み出しているに過ぎない。そういうタイプの人間だ。ほとんど化け物かもしれないが、辛うじて人間だ。

 

 それだけでなく、私の作品の中にはむしろ誰にも愛してほしくないものが紛れている。最近は脳内で勝手に物語が生成されることもだいぶ減ったので、自分でさえも愛せない作品を世に送り出すこともないだろう。そのことに関しては本当によかったと思っている。


 今ならわかる。最初から間違っていた。そもそも公開すべきではなかったのだ、あんなものは。書くだけ書いて闇に葬ってしまえばよかった。私以外の誰にも知られることなくひっそりと沈んでいってしまえばよかったのだ。


 それでも公開に踏み切ったのは、作品やキャラクターたちに申し訳ない気持ちがあったのだろうか。どうしても愛せなかった私の代わりに愛してくれる誰かを無意識に募っていたのだろうか。

 

 その可能性は濃厚だが、もしそうであればどうしようもない。私はせっかくの好意を突っ撥ね、期待を裏切り、中途半端な状態で放り投げてしまったのだから。誰ひとりとして幸せになっていない。最低最悪だ。


 せめて寄せられた好意がどのようなものであろうと全面的に受け取れる土壌が整っていればよかった。だが、そこが不十分なままに公開してしまった。


 恐らくこの作品も公開しないほうがいい。前作だけで完結させていたほうが軽傷で済んだ。みなさんがではなく私がだ。あれ以上の醜態を曝す必要はどこにもない。


 だが、創作者は数々の呪いに蝕まれている。前回お話ししたテーマ然り、今回お話ししているテーマ然り。


 私は私の行動で同志を救おうなんて大それたことを考えているわけではない。前回はそうともとれる発言をしたが、別にヒーロー役を買って出たつもりはない。そんな面倒な役は御免だ。それに、人は誰かの姿に勝手に励まされ、勝手に救われていくからだ。いちいち誰かがそんな大役を務めなくたっていいのだ。世界はヒーローで飽和している。


 しかし、私が思うがままに振る舞っている様子を見たり失敗談を共有したりすることで救われる人がいるなら是非そうしてほしいし、参考になるところがあればしてほしい。


 もちろん腹を立てても不快になってもらっても本望だ。それだけ私はあなたの心に衝撃を与えたということなのだから。私になんらかの感情を抱いた時点で、あなたはもう私の魔法に掛かっている。引力に捕まってしまっている。あなたはすでに私のファンです。そうですね。いいんですよ、照れなくたって。堂々と名乗っていいのよ。


 そんな冗談はさておき、私は作者の側面を持つみなさんが色んな人から無意識に、あるいは意識的に掛けられてきた呪いを解く一助になれたら嬉しいとは思っているが、それ以上のことは望まない。


 みなさんが創作物をたくさんの人に見てほしかったり、関わるすべての人から好かれたり(※どだい無理だとは思うが、志すこと自体を否定したりはしない。)、あるいは賞を獲るといったところを目標として掲げる方であったのなら、私の主張ほどあてにならないものはない。価値のないものはない。私がかつて押し付けられた望んでいない好意と同じに。


 それでいい。それが正しい。あなたがたには受け取らない自由があるのだから、すっぱり無視してあなたの導き出した正解を貫いてほしい。私はその選択を肯定するし、応援する。


 だが、もしそうでないのなら――純粋に創作を楽しみたいのであれば、私の意見は少しお役に立てるのではないかと思う。


 ――――なぜ自分が大好きで他人に興味なんてないと言ってのけた私がここまでするのか。真剣にこんな文章を打ち込んできたのか。疑問に思われたのではないだろうか。


 簡単なことだ。私は確かに自分が大好きだし、最高の存在だと思っている。しかし、自分ひとりだけが最高だという風には思っていない。(そのよさを私が理解することが出来ないことはあっても)他の人もみんなそれぞれ最高の存在であるはずだと信じているから。


 そして、私自身、ありったけの愛を込めて作品制作を続けられているみなさんとみなさんの作品に励まされてきたからである。


 先述した通り、私は自分の作品のすべてを愛していると胸を張って言うことが出来ない。そのこととどのくらい関係しているかはわからないが、私はみなさんの愛に溢れた作品に触れるたび深く癒されてきた。本当に感謝している。だから、私に出来る恩返しの方法を必死に捻り出した。それが前回と今回のエッセイもどきだというわけだ。


 ――――しかし、それも結局失敗に終わりそうな気配がしてきた。私が3部作をきちんと3部作として完結させてやれなかったのと同じように。

 

 このエッセイのような文字の羅列に救われているのは誰あろう私だ。私自身だ。文字を打つごとに、これまで巣食っていた心の澱が消えていっているのだ。このままでは、この作品は私が自分で自分を救っていく過程をご覧に入れているだけの意味なしエッセイもどきになってしまう。


 だが、最後まで足掻くことはやめない。今からこの文章を可能な限り自分だけのためではないものにすべく努力してみよう。

 

 私はみなさんの作り出した物語に触れるたび、『私の内側から生まれてきたものをすべて愛せたらいいのに』という思いを強めていった。――――なぜかって、愛さえあれば、私はここまで苦しむことはなかったではないか。愛だ。愛がなかった。他にも欠けたものばかりだけれど、致命的に欠けていたのは愛だと断言出来る。


 私はかつて、愛を欠いていたせいで好意をもって接してくださった方々を遠ざけてしまったのみならず、自身の始めた物語を完結させてやることが出来なかった。

 

 しかし、愛を持っているからこそ物語を完結させられないこともある。愛があっても物語を完結に導けないこともあると知っている。それだけ人は様々な事情を抱えている。


 そして、当然それは創作に限らない。人生のあらゆる局面において言えることだ。志半ばで道が断たれてしまうことは決して珍しいことではない。のっぴきならない事情というのは、存外無から生まれてくるものだ。ある日突然、不条理に。


 だが、特にそういった事情はないが、もう嫌になってしまった――というのも、何かを取り止める正当な事情たり得ると私は思う。――そう。あなたの始めた物語なのだから、幕を引くタイミングだってあなたの思うがままでいい。前回のおさらいだ。

 

 だが、物事が中途で終わった理由をいくら説明したところで伝わらないかもしれないし、響かないかもしれないし、そもそも耳を貸してももらえないかもしれない。――そう。前回の私のように頑なな心の持ち主にはなにを言ったってやったって無駄なのだ。


 だが、そういうものだ。我々は不完全だ。洞察力なんて努力を重ねたところでたかが知れている。自分以外の人間の感情を完璧に理解するなんて不可能だ。だから、他人からも見えている部分でどうにか工夫し懸命に表現し続けなければならない。察してくれるのを待つのは怠慢だ。まずは人事を尽くすべきだ。話はそれからだ。

 

 前回は話の流れ上、私の苦手とするタイプの人を全面的に悪者に仕立てたが、むしろあれは私の側に非があったのだろう。

 

 もちろん好意の押し付けはよくないことだが、私の表現が至らなかった。自分自身及び私と意思の疎通の図りやすいタイプの方にわかりやすく話すことは得意でも、それ以外のタイプに伝わるように話す技術は私には備わっていなかった。

 

 そして、相手の発言の意図を理解しようとする姿勢に関しても十分とは言えなかった。理解しようとはしていたが、不十分だったと思う。

 

 きっとあちらもあちらなりに配慮していたのだろう。それどころか、私以上に気を配っていたかもしれない。前回のエッセイもご覧くださった方、今回こちらのエッセイをお手に取ってくださったみなさんにとっては今更だと思うが、私はわりとなんでも容赦なく伝えるタイプだからだ。これでもオブラートに包んでいるつもりなのだが、まだ少し(いやかなり?)出力が高いらしい。

 

 だが、それでも私は思う。繰り返しお伝えしているように、『心の中でなにを考えていようと、自分の発言や行動によって相手がどう感じたかがすべてだ』、と。


 前回、好意によって生み出されたコメントを花束に喩えたのを覚えているだろうか。今回こうして説明することになるとは私も想像していなかったが、あれは意図的なものだった。

 

 花束というのは、花が好きで世話を面倒だと思わない人にとっては貰って嬉しいものだが、花の発する強い香りが苦手な人もいれば虫の発生源となる可能性もある。人によってはまったくありがたくない、不要な場合さえある――スタンダードなわりにリスキーな贈り物だ。


 どれだけ相手が喜んでくれるよう心を砕いて選んだ贈り物だとしても、選ぶのにどのくらい時間をかけてくれたのだとしても、喜んでもらえなければ意味はない。

 

 頭と心でどれだけのことを考えていても、伝え方を間違ってしまえば少しも伝わらない。

 

 察してほしいと思うのも勝手だし、そう思いたくなる気持ちもまぁ理解出来るが、それだって世の中察しのいい人間ばかりではないことを思い知っているからこそ出てきた感想だろう。


 言いたいことが正しく伝わらない歯痒さを、みなさんはよくご存知だろう。それでも、伝えることを諦めていないから表現しているのだろう。続けているのだろう。打ち拉がれ、のたうち回り、それでも、それでも手放すことが出来ないのだろう。私もそうだ。諦めたくない。伝えることを放棄したくないし、出来ないのだ。どんなに滑稽で無様でも。

 

 では、我々がそれを放棄しない理由はなんだろう?


 ――――愛だ。愛でなかったらなんなのだ。

 

 その愛は実態より小さく見えるかもしれないし、届けたい対象には少しも伝わっていないかもしれない。その愛は途中で何度も途切れてしまったかもしれない。あなたはそれを見失ってしまったかもしれない。どこかに落としてきてしまったかもしれない。誰かに取り上げられたことだってあったかもしれない。

 

 だが、確かにそこにあった。もしくは、見つけることが難しくなっただけで今も変わらず存在しているかもしれない。

 

 私はここに至るまで徹底して私の届けたい層に向けた伝え方を選んできたつもりだが、それでも伝えたいことの半分も伝わっていないかもしれない。だが、それでもなんとか理解しようとしてくださっている方の存在を確かに感じている。その事実だけでも泣きそうなほど嬉しい。だから、私は言語化を諦めずにこうしていられる。私独りではそのことに気付くのは無理だった。だから、感謝したい。すでにしているが、してもしきれない。

 

 コミュニケーションとは双方に伝える気と受け取る気がなければ成立し得ない、最も身近で最も難解で最も煩わしく――――。しかし、最も愛おしい行為だ。


 そして、創作もその一環だ。あなたが他の創作者と交流を持っていなかろうが、そんなことは関係ない。あなたは物語を通して世界に語りかけている。問いかけている。そのつもりがなくともだ。


 一方的に見えても双方的なコミュニケーションなのだ、小説をはじめ様々な創作活動というのは。


 返事が返ってくる保証はない。しかし、返ってきていなくても誰かの心を動かしたかもしれない。救ったかもしれない。見えていることだけがすべてではないのだ。相手の配慮を私が汲み取れなかったのと同様に。

 

 だって、物語やキャラクター自体に愛着を持っていなくても、物語という形式で発表している時点で作者は愛を持ってしまっているから。


 なぜそう断言出来るのか?

 

 創作活動はコミュニケーションの一環だと言った。誰とも交流を持っておらず一方的なスタンスを取っているつもりでも、人目に触れる場所に発表している時点で双方向性が生まれていると言った。

 

 私は誰かになにかを伝えようとした時点で、そこには愛が生じていると思う。関わりたくない相手と仕事等やむを得ない場面以外で意思の疎通を図ろうとは思わないはずだからだ。全員がそうとは言わないが、そういう傾向はあると思う。

 

 伝える手段として選んだのが小説という媒体で、物語やキャラクター自体に愛着を持つことが出来なくても、もっと前の段階から愛はある。生まれていて、そこにあるものなのではなかろうか。


 物語を完結に導けなかったとしてもそうだ。伝えたかったはずのメッセージを伝え切ることが出来なかったとしても、始めた時点で愛はある。ないはずはない。

 

 そのことを私自身よく知っている――というか、わかった。ようやく理解出来た。今回、こうして思考の整理を行ったことで。


 この結論に着地することは最初から見破られていたかもしれないが、重大な伏線でもなんでもないので堂々とお伝えしよう。(ちなみに、伏線や謎とそれに対する答えとを早い段階で見透かされていても、私は特に気にしない。読者の方々の意表を突くことや度肝を抜くことを私は目標としていないからだ。置き去りにして圧倒するより、ある程度認識を共有して一緒に楽しめたらいいよね、と思っている。)

 

 作者が創作物に愛を持っていなくても、物語を完結させられなかったとしても、それでいい。


 創作を開始した時点で愛はあると言ったし、その主張を引っ込めるつもりもないが、本当は愛がなくてもいいと思っている。作者自身が創作活動によって楽になれたり救われたりするのなら、それでいい。


 愛せなくていい。完結させられなくてもいい。


 だって、あなたが生み出したのはあなたのための物語ではないか。他の誰のためのものでもない。大勢の人の期待を背負っているからってなんだ。そんなのは期待した側の勝手だ。いつでも好きに始めて好きに終わらせていいのだ。そして、それを自分勝手だなんて思う必要もない。私はそう思う。


 気負わなくていい。これからも好きに作って好きに終わらせて、楽しく活動を継続してほしい。

 

 さて、今回はこのあたりにしておこう。こう言うと次回作の準備が整っているように思われてしまうかもしれないが、現時点でそういった予定はない。――が、何かあればまたお会いすることになるかもしれない。

 

 ここまでお付き合いいただけたこと、心より感謝申し上げたい。最後までご覧になった方もそうでない方も、創作活動のみならず人生全般に跨る呪いを撥ね飛ばし、自分らしく生きることが出来るよう心から祈っている。

 

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