こんにちは。
昨年の12月に『機動戦士ガンダム』の12話の脚本と完成作品との比較をしたことがありました。
脚本と完成作品がだいぶ違っていて驚いたのですが、ブログ友達のハナさんに言わせると、この当時のアニメでは脚本と完成作品が違うことはよくあったことのようでした。
ハナさんのブログ
病気ではなく、障害でもなく(旧:病病介護のなか、小さな声で叫ぶ)
https://flowerhill873.blog.fc2.com/
そんなやりとりをしていると、アニメの脚本に興味が湧いて、ハナさんから『星山博之のアニメシナリオ教室』という本を紹介してもらいました。
脚本家星山博之氏がアニメの脚本について解説した本ですが、この本中にガンダム13話「再会、母よ…」の脚本が紹介されておりました。
本の中には実際の完成作品のアフレコ台本が掲載されており、比較が出来るのですが、やはり脚本と完成作品では違っており面白かったのですが、その違いを紹介したくなったり、疑問に思ったことがあったので、それらを纏めておく為に記事にしてみました。
以降、比較していきます。
冒頭
『機動戦士ガンダム』は自身の故郷であるスペースコロニーで軍の秘密兵器ガンダムの調整が行われていたことで、戦渦に巻き込まれた民間人と軍人の生き残りが避難の為に戦っていく過程で戦争に巻き込まれていくという物語でした。
13話はまだ追手はいるものの、前話までに当面の危機を乗り越えており、主人公が地球に住んでいる母親に会いに行くエピソードで、ここまで連続劇できた中で、1話で完結するエピソードでもありました。この前、比較した12話は1話からの流れの一つの区切りであり、その次の話ということで良い比較になる気がします。
冒頭、一つの危機を乗り越えたホワイトベース隊は休息をとっております。その中にアムロの姿はありません。
完成版だとアムロが母に会いに行くことを知って、カイが地球に家があるやつは「エリート族」だと言いますが、それはなく「ママのおっぱいが恋しくなったてわけですか」と冷やかしております。
このセリフは後半にも繋がります。
「エリート族」発言、読むまえから絵コンテの段階で付け足されたものだ、という確信めいたものがありました。
なんとなくガンダムの総監督である富野由悠季氏ぽいセリフだと思ったのです。
後、「地球に家があるやつはエリート」発言、3話でもセイラがブライトに近いことを言ってました。
『機動戦士ガンダム』という作品は宇宙移民者と地球に住む人間の戦争を描いた作品ですが、宇宙に住む人は好き好んでいったわけではないことが、それとなく説明されてます。
こうした設定って、脚本家や演出家にどこまで共有されていたのでしょうか?
12話の脚本を見た時感じたのですが、12話から登場するランバ・ラルは、主人公であるアムロが後にニュータイプという人類の新しい形に覚醒するので、その前に人間の夫婦をみせておきたいとの考えから伴侶であるハモンを伴い登場しました。
なればこそ、2人はお互いを支えあう姿が完成作品では描かれていたのですが、脚本を見る限り、新しい敵の指揮官が情婦を伴って登場したようにしか見えませんでした。
プロの脚本家は求められることはしっかり書くはずなので、これは説明されてなかったのだと思います。
なので、13話の「エリート族」という、皮肉なセリフは富野監督らしいと勝手に思っていました。
ただ、13話の演出は藤原良二氏です。
実際にアニメの物語を組み立てるのは、演出の方であり、藤原氏が設定を意識して追加したのでしょうか?それとも上がってきたコンテをチェックした富野監督が付け足したのかも?とか思ったりします。
幼馴染の母と連邦軍兵士とのリンゴの代金を巡るやり取り
アムロが故郷に付くと、生家には置いていかれた連邦軍の兵士がたむろしております。ここはだいたい一緒です。
次に果物を売って生計を立てている幼馴染の母親が連邦軍の兵士に商品のリンゴを持ち逃げされそうになっており、払ってはもらえますが代金を投げ捨てられます。
それを見たアムロは兵士に殴りかかります。
完成版だと兵士の逆襲に会い、殴り返されますが、脚本だと兵士が持っていた銃の銃尻で、血が出るまで兵士を殴り、兵士は相方に連れられ逃げていきます。
アムロは短い間にMSによる戦闘を多数経験しましたが、だからと言って訓練されている連邦軍兵士をふいをついたとはいえ二人組を圧倒できるのは変な気がします。それに暴力的です。後半さらに暴力的な展開が完成作品では反映されているのですが、NGだったのでしょうか?
難民キャンプでのコアファイターを巡るやりとり
難民キャンプに母がいると知り、コアファイターで来るシーン、完成作品だと老人たちがコアファイターを隠すよう言いますが、脚本ではアムロの母、カマリアと同じくボランティアに来ている男性です。
この男性、「紳士」と表記されておりますが、同一人物が完成作品に出ております。
ラストのアムロとカマリアの別れのシーンで、ホワイトベースがある場所まで車でカマリアを送ってきて、後方におります。
この男性、完成作品ではカマリアの浮気相手とされております。
日本サンライズ、「ガンダム記録全集5」、1980、株式会社銀英社、P.122
放送当時の月刊アニメージュ1979年9月の安彦良和氏の文章によると、絵コンテの段階で間男のとの書き込みがありました。ただ、脚本上で浮気相手だと分かる記述はありません。後述する脚本版のラストを考えると星山氏は間男だと想定して書いているわけではなさそうです。
ジオン軍の斥候を銃撃するくだり
母と再会したアムロですが、キャンプにジオン軍の斥候が来て、見つかりそうになり、アムロは斥候を銃撃します。
ここはかなり違いがあり、完成作品だと撃たれた兵士は生きてますが、脚本だとアムロはジオン軍人を射殺しております。
ガンダムに乗ってではなく、初めて自分の手で殺人をしたことでアムロも、それを見たカマリアも衝撃を受けます。
カマリアがアムロを非難するは同じですが、脚本だと言い返されて、「(ハッとなる)………」としていえるのに対して、完成作品は「そうだけど…そうだけど、人様に鉄砲をむけるなんて」「母さん…母さんは…ぼくを……愛してないの……?」となっており、母子が噛みあってないのが示されます。
ジオン軍前線基地への攻撃
完成作品だと基地をコアファイターで攻撃しようとしたところ、カイがガンペリーでガンダムA・Bパーツを持ってきて空中換装し攻撃します。MSも配備されてない小基地の戦力とガンダムでは勝負にならず一方的な攻撃になります。ただ、それはただの戦力の消耗なので、それを見ていたブライトは問題視します。
一方、脚本ではジオン軍基地を攻撃するよう言われ、ハヤトがガンダムを持ってきて乗り換えて基地を攻撃しており、命令をきちんと遂行した格好になります。
それを見ていたブライトは「かなわんな、あいつには」と驚きつつ結果に満足しているように感じます。
また、アムロがこのまま故郷に残るではないかという話題が出て、カイが冒頭のセリフを繰り返すと。ブライトは心配そうです。
ラスト別れのシーン
完成作品だと、別れの場に間男と来たカマリアは、アムロを引き留めることは無く、どこか力なくアムロが子供の頃大切にしていた人形を渡そうとしますが、アムロは拒否します。やってきたブライトはさっきまでアムロの行動を問題視しておりましたが、それは口に出さず、アムロをおだてるようなことを、言います。ここら辺、ああは言っても戦力としてのアムロが惜しいのだと感じます。アムロは儀礼的な別れの挨拶をするとホワイトベースに帰っていき、カマリアは泣き崩れます。
脚本だと、ここに残るのはアムロやテムの帰るべき場所を確保するためだと語り、アムロが子育てに言及した時は帰りたくなったのだと思い目を輝かせ、引き留めようとします。
そこにやってきたブライトに反発しつつもアムロはホワイトベースに帰っていきます。
「母さん、引き留めないよ」と言いつつ、ここはアムロの故郷であることを告げ、人形を握らせて送り出すように見送ります。
人形を握らせるという行為は、アムロが成長し母離れをしても、自分の子供であると言っているように感じます。
最後に
見比べ終わりました。
どちらも面白かったのですが、1話完結の話としては脚本版の方が面白く、連続劇としては完成作品のほうが良いと感じました。
脚本だと、たとえアムロが母と故郷を捨てても母は息子を大切に思っているのだと伝えているので、まだ救いがあるのですが、完成作品では、子どもが成長し、変わっていくことを理想化せず伝えておりますし、カマリアに浮気相手も設定し、それぞれの事情が見えるようになっております。
また、ジオンの斥候を銃撃したことでカマリアはアムロの事情を考慮せずなじりますが、脚本だと「ハッとなる」とのト書きや、「今は戦争、わかってるよ母さんだって」とのセリフから今のアムロの状態を理解しようとしているのが伝わりますが、完成作品ではコミュニケ―ションが成立しておりません。
母と子が断絶していることを強調しておりますし、ある種カマリアをこの回の悪役とする効果があると思います、そのため見やすくなっている気がします。
大人になって見返すとカマリアの気持ちが分かるのですが、子どもの頃13話を見たときはカマリアのことを身勝手だと感じました。
個人的なことを言うと私は脚本版は救いがあって好みなのですが、『機動戦士ガンダム』という作品にあっているのはどちらかと言われれば完成版だと思います。
この話で、脚本版は1話完結話としてはよいけど、全体的なシリーズ構成を考えるとアムロはこの後、ガンダムのパイロットから降ろされそうになり、その反発からホワイトベースを飛び出したり、戦場で出会ったランバ・ラルに生き残るためではなく、戦って勝ちたいと思うようになったりと、葛藤の中で成長していきます。
前述した通り12話から登場するランバ・ラルは後にニュータイプ覚醒するために用意されたキャラクターでした。であるなら、残酷な母離れも富野監督的にニュータイプの覚醒に通じる要素があったのかもと思います。
だからこそ、後にガンダムの物語を再編集して映画化した際に、1話完結エピソードなのに、13話は組み込まれたのだと思います。
何の確証もなく書いておりますが、13話以降の展開を踏まえるとでは母という帰る場所が用意されていると、物語に没頭できなくなるし、ランバラルというある意味両親が果たしてくれなかった親の役割をするキャラクターと出会う前に、本当の両親とは別れている方がよりラルとその伴侶であるハモンとの出会いが劇的になるようにも感じました。
さて、脚本と完成作品を比べてみました。脚本をたたき台にして、より設定やシリーズ構成を意識して変更されて完成作品になっているのが分かりました。
1つ疑問に思っていることがあり、脚本と完成作品の違いは当時のアニメの作り方に由来しているのか、それともガンダムという作品に由来しているのかという点です。
当時のアニメでは脚本と完成作品が違うことがよくあったそうですが、ガンダムの場合、シリーズ構成が考えられておりましたが、それは完全な形でスタッフに共有されてなかったようにも感じます。
脚本と完成作品との違いはそこにも原因があったのではないか、と思ったりします。
ガンダムに関してはいろんな書籍が出ておりますし、アニメに関しての本も現在では多く出ておりますので、また読んで真相を知りたいです。
後、今回の記事を書くために2010年代に放送されたアニメの脚本集を読んだのですが、その作品では、脚本は完成作品ほぼそのままでした。時代を経てスタッフ間の打ち合わせが密になっていったのだろうと感じました。出来れば、今後そうした変遷の歴史も知りたいと感じました。
以上です。
私がガンダムの13話を読んだのは、子供の頃、NHKでガンダムの特集番組があり、1話と共に放送された時でした。1話と違い、戦闘的な魅力がないので、あまりピンと来なかったし、カマリアが好きになれなかったのですが、今観返すと、カマリアの気持ちが分かるし作劇上母親を悪役的に配置する手法で脚本版よりも分かりやすい話になっているようにも感じたりします。
後、1話完結の話でもともとはシリーズ構成に関わる話ではなかったのに、ガンダムを語る上で外せない回になったというのも、TVアニメを作る上で興味深いと感じました。
今回の記事を書く上では、ブログ友達のハナさんに多くの助言を頂きました。
この場を借りてお礼申し上げます。
コメント
コメントがありません。
ご紹介ありがとうございました。
星山脚本verかもしも岡崎優コミカライズされていたら、そりゃもう殺伐としそうでハラハラします😓
あと、ガンダムブーム時の特番で、タモリさんが
「母さんは僕を愛してないの…」のセリフに
今どきのアニメはすごいね〜とコメントしてたのを思い出しました。
ありがとうございます。
>星山脚本verかもしも岡崎優コミカライズされていたら、そりゃもう殺伐としそうでハラハラします
岡崎版、読んでみたかったです。岡崎版だとアムロがやや熱血漢に書かれているから、脚本の感じと相まって母子ものとしていい話になりそうな気もしました。
>ガンダムブーム時の特番で、タモリさんが
>今どきのアニメはすごいね〜とコメントしてたのを思い出しました。
興味深いです。
この記事を書くためにガンダムセンチュリーを読み返していたのですが、脚本家の方がガンダム特番の構成の仕事が来て苦労したとの証言をしているのですが、それかなとか思いました。もう少し、その特番の背景を知りたいと感じました。